東海道五十三次宿場巡り全15回第9回(22)
(小田急トラベル)
2008年2月9日(土)~11日(月・祝)(その2)
※現在連載中のアンナプルナ・ダウラギリ展望紀行
の続編は,適宜,合間を見て続けます。
※これまでの東海道五十三次宿場巡りの記事をご覧
になる場合は,左の『CATEGORY』欄の中にある
「東海道五十三次」をクリックしてください。
第9回第1日目 2月9日(土)(2)
<旧東海道をひたすら西へ>
■樋口本陣と時の鐘
10時02分に三島駅前を出発した私達は,三島市立公園「落寿園」の脇を,1キロメートルほど南に下って,国道1号線を右折する。この交差点付近に世古本陣跡の碑と樋口本陣跡の案内板が建っている。ゆっくりと説明文を読む間もなく通り過ぎる。
<源兵白旗橋> <世古本陣跡>
10時16分,源兵白旗橋を渡り,直ぐに「時の鐘」のある三石神社を通過する。旅行社の資料によると,この鐘は江戸時代,寛永年間に鋳造されたが,第二次世界大戦の最中に供出,戦後,昭和25年に再興されたものだという。一目見たかったが,今回の旅は,途中で立ち止まることはしないので,ドンドンと先に進んでしまう。
<時の鐘>
■宝池寺と伏見一里塚
10時17分,三島広小路駅前を通過する。そして,自動車道に沿って,西へ,西へと歩く。歩道が偉く狭いので,とにかく歩きにくい。ひたすら,側溝の蓋の上を歩き続ける。
10時33分,沼津宿案内板の前を通過する。近くに常夜燈の案内板が建っている。
10時40分,宝池寺に到着する。寺の境内の一角に,土饅頭のような形をした伏見一里塚がある。ここは日本橋から28番目の塚である。この塚は近年復元されたものだという。
私達は,宝池寺の境内で,15分ほど休憩を取る。
<宝池寺> <玉井寺一里塚>
<樋口本陣跡>
<沼津城趾で昼食>
■対面石
10時56分,「エイ,エイ,オー・・・」の掛け声とともに歩き出す。私は,この田舎臭い掛け声が,どうも気に入らない。不承不承,右手を少しだけ動かして,掛け声をあげたような素振りをするだけで勘弁してもらう。
相変わらず単調な自動車道を西へ西へと歩き続ける。ドブ板を踏み続けながら,ひたすら歩き続けると,自動車道は次第に西南西に向きを変える。そして,広い自動車道路を横断してから,再び2車線の旧東海道に入る。相変わらず歩道が狭くて歩きにくい。宝泉寺の脇を通過すると道路は再び西北西に向きを変える。
私達は道路の左側を並んで歩いている。やがて道路の反対側に,対面石のある八嶋神社の前を通過する。デジカメを望遠にして,道路向かいの八嶋神社を撮るが,対面石を見ることはできない。
対面石は,源頼朝,義経兄弟の対面が行われ,二人がこの石に腰掛けたという伝説があるという。富士川の合戦で大勝した源頼朝が,黄瀬川に陣を敷く。そこへ,押収から義経が駆けつけ,涙の対面をしたという。
<対面石>
■曾我兄弟仇討ちの旧蹟
11時10分,黄瀬川橋を渡る。それほど大きな川ではないが一級河川である。
11時15分,海音寺の前を通過する。ここは日本三大仇討ちに挙げられる曾我兄弟の仇討ち物語に登場する黄瀬川宿の遊女,鶴亀が守り本尊としていた観音を祀った鶴亀観音寺が会ったところだという。後,明治12年に,この鶴亀観音寺は廃寺になる。そして,観音や碑は,海音寺に移管された。
<潮音寺>
■平作地蔵尊
広いと虚に出る。自動車の往来が多くて,騒音がひどい。化粧煉瓦の広い歩道をヒタヒタと歩き続ける。道路の向かい側には,西友の大きな建物が見えている。
11時30分,広い道路から裏道に入る。
11時33分,「日本三大仇討ちの一 平作地蔵尊の由来」と書いてある大きな案内板の前を通過する。看板の傍らに小さなお堂が建っている。これが平作地蔵尊である。ここを過ぎると,程なく沼津一里塚に到着する。ここには一里塚の由来を書いた案内板が建っている。日本橋から29番目の一里塚である。
<「日本三大仇討の一」の説明文>
■沼津城趾で昼食
11時40分,再び広い国道に出る。途端に車の騒音が気になって仕方がない。
11時49分,私達は一旦国道から外れて,今夜の宿泊ホテル,沼津グランドホテルに入る。ホテルのフロントに,当面不要な荷物を預ける。そして,12時01分,再びホテルから外に出る。そして,ホテル近くにある沼津中央公園で昼食を摂る。
この公園は沼津城趾に設置されている。旅行社の資料によれば,沼津城は,戦国末期,武田氏の武将,高坂源五郎が狩野川河口の沼沢地に三枚橋城を築いたのが最初だという。その後,織田,徳川連盟によって,武田勢は駿河から駆逐され,三枚城は徳川配下になり,沼津城と改められた。
<沼津城のあゆみ>
<沼津城本丸址>
(つづく)
(小田急トラベル)
2008年2月9日(土)~11日(月・祝)(その2)
※現在連載中のアンナプルナ・ダウラギリ展望紀行
の続編は,適宜,合間を見て続けます。
※これまでの東海道五十三次宿場巡りの記事をご覧
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第9回第1日目 2月9日(土)(2)
<旧東海道をひたすら西へ>
■樋口本陣と時の鐘
10時02分に三島駅前を出発した私達は,三島市立公園「落寿園」の脇を,1キロメートルほど南に下って,国道1号線を右折する。この交差点付近に世古本陣跡の碑と樋口本陣跡の案内板が建っている。ゆっくりと説明文を読む間もなく通り過ぎる。
<源兵白旗橋> <世古本陣跡>
10時16分,源兵白旗橋を渡り,直ぐに「時の鐘」のある三石神社を通過する。旅行社の資料によると,この鐘は江戸時代,寛永年間に鋳造されたが,第二次世界大戦の最中に供出,戦後,昭和25年に再興されたものだという。一目見たかったが,今回の旅は,途中で立ち止まることはしないので,ドンドンと先に進んでしまう。
<時の鐘>
■宝池寺と伏見一里塚
10時17分,三島広小路駅前を通過する。そして,自動車道に沿って,西へ,西へと歩く。歩道が偉く狭いので,とにかく歩きにくい。ひたすら,側溝の蓋の上を歩き続ける。
10時33分,沼津宿案内板の前を通過する。近くに常夜燈の案内板が建っている。
10時40分,宝池寺に到着する。寺の境内の一角に,土饅頭のような形をした伏見一里塚がある。ここは日本橋から28番目の塚である。この塚は近年復元されたものだという。
私達は,宝池寺の境内で,15分ほど休憩を取る。
<宝池寺> <玉井寺一里塚>
<樋口本陣跡>
<沼津城趾で昼食>
■対面石
10時56分,「エイ,エイ,オー・・・」の掛け声とともに歩き出す。私は,この田舎臭い掛け声が,どうも気に入らない。不承不承,右手を少しだけ動かして,掛け声をあげたような素振りをするだけで勘弁してもらう。
相変わらず単調な自動車道を西へ西へと歩き続ける。ドブ板を踏み続けながら,ひたすら歩き続けると,自動車道は次第に西南西に向きを変える。そして,広い自動車道路を横断してから,再び2車線の旧東海道に入る。相変わらず歩道が狭くて歩きにくい。宝泉寺の脇を通過すると道路は再び西北西に向きを変える。
私達は道路の左側を並んで歩いている。やがて道路の反対側に,対面石のある八嶋神社の前を通過する。デジカメを望遠にして,道路向かいの八嶋神社を撮るが,対面石を見ることはできない。
対面石は,源頼朝,義経兄弟の対面が行われ,二人がこの石に腰掛けたという伝説があるという。富士川の合戦で大勝した源頼朝が,黄瀬川に陣を敷く。そこへ,押収から義経が駆けつけ,涙の対面をしたという。
<対面石>
■曾我兄弟仇討ちの旧蹟
11時10分,黄瀬川橋を渡る。それほど大きな川ではないが一級河川である。
11時15分,海音寺の前を通過する。ここは日本三大仇討ちに挙げられる曾我兄弟の仇討ち物語に登場する黄瀬川宿の遊女,鶴亀が守り本尊としていた観音を祀った鶴亀観音寺が会ったところだという。後,明治12年に,この鶴亀観音寺は廃寺になる。そして,観音や碑は,海音寺に移管された。
<潮音寺>
■平作地蔵尊
広いと虚に出る。自動車の往来が多くて,騒音がひどい。化粧煉瓦の広い歩道をヒタヒタと歩き続ける。道路の向かい側には,西友の大きな建物が見えている。
11時30分,広い道路から裏道に入る。
11時33分,「日本三大仇討ちの一 平作地蔵尊の由来」と書いてある大きな案内板の前を通過する。看板の傍らに小さなお堂が建っている。これが平作地蔵尊である。ここを過ぎると,程なく沼津一里塚に到着する。ここには一里塚の由来を書いた案内板が建っている。日本橋から29番目の一里塚である。
<「日本三大仇討の一」の説明文>
■沼津城趾で昼食
11時40分,再び広い国道に出る。途端に車の騒音が気になって仕方がない。
11時49分,私達は一旦国道から外れて,今夜の宿泊ホテル,沼津グランドホテルに入る。ホテルのフロントに,当面不要な荷物を預ける。そして,12時01分,再びホテルから外に出る。そして,ホテル近くにある沼津中央公園で昼食を摂る。
この公園は沼津城趾に設置されている。旅行社の資料によれば,沼津城は,戦国末期,武田氏の武将,高坂源五郎が狩野川河口の沼沢地に三枚橋城を築いたのが最初だという。その後,織田,徳川連盟によって,武田勢は駿河から駆逐され,三枚城は徳川配下になり,沼津城と改められた。
<沼津城のあゆみ>
<沼津城本丸址>
(つづく)