中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る甲州道中四十四次(第8回);第2日目(2);八ヶ岳山麓を行く

2014年05月05日 04時41分43秒 | 甲州道中四十五宿

                     <桜咲く野辺を行く>

  歩いて巡る甲州道中四十四次(第8回);第2日目(2);八ヶ岳山麓を行く
            (五十三次洛遊会)
         2014年4月18日(金)~20日(日)

第2日目;2014年4月18日(土) 
(つづき)

<ルート地図>



<神代から平岡へ>

■諸水橋から歩き出す
 8時55分,私たちは第1日目の終点,諸水橋から歩き出す.幸いなことに今日も天気に恵まれて,暑くも寒くもない心地よい陽気である.
 暫くの間は国道20号線を北西に向けて歩き続ける.
 9時05分頃,平岡一里塚が,この道の下にあるはずだが,交通量の多い国道を横切って見に行くのは余りにも危険である,残念ながらこの一里塚見学は割愛する,なお,平岡一里塚は,江戸日本橋から46里目に位置している.
 9時06分,三叉路で国道20号線から右折して,坂道に入る.
 
<平岡一里塚反対側の大きな木立>        <国道20号線から山道に入る>

■草道を登って諏訪百番巡拝供養塔
 地図を頼りに,平岡の集落を歩き続ける.地図を見ると山道は再び国道20号線に接近し,再び右に曲がって山道に入ることになっている.山に入る舗装道路の直ぐ脇に草道がある.
 この草道が旧甲州街道だろうと判断して,草道に入る.
 “この道で良いのかな…一寸心配だな…”
と感じた私は,後続の皆さんにユックリ登るようにお願いして,駆け足で坂道を先の方まで登ってみる.すると,草道を登りきった所で,先ほどの舗装道路に合流している.ここで,私はこの舗装道路が本来の甲州道中の道であることを確認する.
 「どうやら道を間違えたようです…でもお配りした地図では1~2ミリメートルしか違わないので,このまま登って下さい」
とお願いする.
 この草道は,多分私有地の中にあるようだが,無断横断ご容赦願いたい.
 草道と舗装道路が交差する場所に諏訪百番順拝供養塔が立っている(9時14分).この供養塔の前で後続の皆さんが到着するのを待っていると,たまたま通りかかった地元の男性から,
 「皆さん,道を間違えていますよ…こちらが甲州街道ですよ…」
と舗装道路を指さしながら,私に注意する.私は素直に,
 「どうも有難うございます…」
とお礼を言う.
 資料3には「江戸時代の人々にとって,商人でもないぎり,旅に出ることはなかなか難しいことだったと思います.そこで,村の中で金を出し合って,代表者が巡礼することが,よく行われたようです.
一緒に行けなかった村人も,この巡拝塔をおがむことで,お参りしたのと同じ効力があると考えていたのかもしれません.そこで,ただの文字碑ではなく,観音菩薩を彫った巡拝塔もあります.」という説明がある.
 ”なるほど,巡拝塔にはそのような意味があったのか.”
 9時18分,母沢川に架かる橋を渡る.

 
<間違えて草道を登る>                          <諏訪百番巡拝供養塔


<旧机村を行く>

■満開の桜を眺めながら…

 落合の集落を歩き続ける.沿道には沢山の桜が植えられている.丁度見頃を迎えた桜を眺めながら,ノンビリと歩き続ける.
 今日の予定は水平歩行距離17.6キロメートルと少々長めである.でも,旅行社主催の旅ではないので,今日中に行けるとこまで行けばよい…そう考えると気分が楽になる.
 “まあ,気楽に…薄暗くなる頃までに今日の終点,茅ヶ崎駅に着けばいいや…”
 そう考えると,随分と気分が楽になる.
 9時18分,大きな桜の前に到着する.スバラシイ.

<満開の桜を愛でながら>

■蔦木峠へ
 9時18分,私たちは畑中の静かな道を歩いている.人や車の往来は全くない.私たちは少々羽目を外して,道路一杯に広がってノンビリと歩き続ける.
 9時20分,舗装道路を横断する.そして,9時22分,JA信州諏訪机を通過する.ここから先はなだらかな登り坂になる.蔦木峠である.私は,足の弱い方に,
 「決して急がないで…ユックリ,ユックリ登って下さい」
を繰り返す.

<長閑な田園地帯から蔦木峠へ>

<蔦着峠>

■長い登り坂
 JA信州諏訪机を過ぎると,やや長い登り坂が続く.道路の両側には旧机村の集落と満開の桜が続く.

<満開の桜に魅せられる>

■落合小学校で休憩
 9時25分,落合小学校(廃校)に到着する.相変わらずの登り坂である.校庭沿いの桜が見事である.
  小学校の校庭に入る.校庭の周囲の桜が満開で見事.私たちは桜を眺めながら,ほんの2~3分,休憩を取る.
 
<落合小学校に到着>                            <落合小学校の校庭で休憩>

■面白い屋根の家
 落合小学校で休憩を取りながら,周囲の風景を楽しむ.
 道を挟んで反対側の大きな家では,盛んに荷物の仕分け作業をしている.この家(作業場?)の屋根の形を見ていると何となくスキーのジャンプ場を連想してしまう.とても面白いので思わず写真を撮る.
 9時28分,休憩を終えて落合小学校校庭から歩き出す.

<落合小学校前からの眺望>

■忠魂碑と愛馬出征記念碑
 9時30分,忠魂碑と愛馬出征記念碑に到着する.大きな忠魂碑の前に愛馬出世記念碑が立っている.
 忠魂碑の周辺は公園風に整備されていて,掃除なども行き届いているので,清々しい感じを受ける.
 “愛馬か!…そう言えば「愛馬行進曲」っていうのがあったな.懐かしいな…”
 私は口には出さないが,心の中で戦争中に良く歌われた曲を懐かしく思い出す.
 “オレも,古くなったな…今更愛馬行進曲なんて…いや,全く!”
 忠魂碑を過ぎて直ぐ小さな川を渡る.

<忠魂碑と愛馬出世記念碑>

<八ヶ岳遠望の道>

■大勢至菩薩

 集落の中の細い道路を横断して小高い場所を通るトラバース道を進む.進行方向左手の眺望が開ける(冒頭の写真).眼下に桜と集落が見えている.
 9時37分,大きな石塔の脇を通過する.大勢至菩薩である.資料1によると,この大勢至菩薩は文政4年(1841年)に無知の人々を救うために建立されたという.
 資料4によると,勢至菩薩は「阿弥陀三尊の右脇侍で,仏の智門を司り,衆生の菩提心を起こさせる.智恵の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように救う菩薩.大勢至といわれる所以は多くの威勢自在なるものを「大勢」,大悲自在を成し遂げる(果)に「至」るから採られていると思われる.」とのことである.
 私は,今回の旅の予習で,初めて勢至菩薩のことを知った.これまで何の知識も持ち合わせていなかったことに,自分自身が恥ずかしくなる.
 “まあ,良いじゃないか…,知らなかったなんて公言する必要はないよ…知らんぷりしていなさい”
と私の内心に潜むもう一人の私は,何時になく,私に対して優しい.

<勢至菩薩>

■常夜灯と道標
 大勢至菩薩の石塔を過ぎると,直ぐに国道20号線に突き当たる.ここから先は,暫くの間,車の往来が激しい国道20号線を歩く.絶え間なく通り過ぎていく自動車がうるさい.自動車の切れ目を狙って国道を横断する.
 9時40分,瀬沢に架かる瀬沢大橋を渡る.車が通り道の脇に歩道橋が併設されている.
 橋を渡りきってから,左側の脇道に鋭角に曲がる.さらにその先で今度は右に曲がって三叉路に突き当たる.ここを右折して瀬沢の集落に入る.集落には人影もなくひっそりと静まり返っている.
 9時41分,火の見ヤグラの脇を通過する.
 9時46分,天保13年(1802年)に建立された常夜灯の前を通過する.常夜灯の直ぐ脇にどうやら神社に向かう参道のような道が見えている.多分,諏訪神社か西照寺がこの近くにあるようだが,何となく探しそびれる.
 道を挟んで常夜灯の反対側に古い道標が立っている.近寄ってみるが,彫り刻まれた文字が摩耗していてはっきりとは読み取れないが,「■■■■驛■ 右縣道回道 左■■■■」と書いてあるような気がする.
 
<常夜灯>                                     <古い道標>

■交通信号のような同行者
 瀬沢の集落をノンビリと歩き続ける.石垣と静かな家並みが続く集落である.その内に仲間の中の3人が着ているウインドブレーカーの色が,まるて交通信号のように「赤」「黄」「青」の三食になっていることに気が付く.
 どなたかが,
 「3人並ぶと交通信号のようですね…ちょっと並んで,並んで…」
と3人に声を掛ける.私もすかさず交通信号3色の写真を撮る.
 「ブログに載せるよ…」
と了承を取る.
 こういうことで道草をするのも,仲間内だけの旅の楽しさである.私は写真を撮りながら,
 「こう言うのって…良いなぁ~…」
と心の中で思っている.誰かが,
 「今度は,(状況に応じて)赤,黄,青の方に先頭に立って貰いましょう…」
と上手いことを言う.

<交通信号のような仲間たち>

■石塔石仏群と瀬沢古戦場跡
 9時58分,路傍の石塔石仏群の前を通過する.
 資料1によると,この石塔石仏群の中に,享和2年(1802年)に作られた観世音菩薩があるらしい.
 地図を見ると,この辺りから北へ約150メートル入ったところに瀬沢古戦場がある.時間の都合で,古戦場跡の見学は割愛するが,資料2(p.353)および資料1によると,「天文11年(1542年),武田信晴追討の兵を挙げた小笠原長時,村上義清,諏訪頼重,木曽吉昌の4将はここに滞在.そのとき信玄の急襲を受けて大敗した.4将は落ち延びたが,戦死者は1671人に及んだ.戦死者を9箇所の墓に埋葬し,その上に塚を築いた」という.

<石塔石仏群>

■八ヶ岳遠望
 沿道から,八ヶ岳連峰が良く見えている.近くの桜が満開である.満開の桜と残雪の八ヶ岳が一枚の絵のように見事に調和している.
 こんな景色を眺められるのも,甲州道中歩きの醍醐味である.

<満開の桜と八ヶ岳の遠望>

[参考文献]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://www5d.biglobe.ne.jp/~sak/dousojin/505.htm
資料4;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A2%E8%87%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9

                                          (つづく)

甲州道中」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d11bd63dff0ead1c88500134761b20ed
「甲州道中」の次回の記事
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「甲州道中」の索引
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「甲州道中」の目次
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