中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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 歩いて巡る甲州道中四十四次(第2回);(1)八幡山から金子のイチョウへ

2013年04月14日 20時45分15秒 | 甲州道中四十五宿

                                   <金子のイチョウ>

 歩いて巡る甲州道中四十四次(第2回);(1)八幡山から金子のイチョウへ
            (五十三次洛遊会

          2013年4月14日(日)

<第2回の概要>

■第2回ルート地図



■第2回ルートの概要
 第1回目の終着点である京王線八幡山駅に集合.前回の続きを歩き出す・
 第2回目の行程は,京王線八幡山日本橋から布田五ヶ宿(国領,下布田,上布田,下石原,上石原),府中宿を経由して,JR南武線谷保駅まで,水平歩行距離16.3キロメートル,累積登攀高度51メートル,累積下降高度25メートルの行程である.
 参加者は東海道五十三次,中山道六十九次を一緒に歩いた仲間を主体として,総勢11人(男5人,女6人)である.

<ルート地図>




※ご同行の皆さん;この地図はお配りした地図を加除修正したものです.

<まずは八幡山駅へ>

■大船駅から八幡山駅へ
 2~3日前から,今日,日曜日の天気がきになっていたが,先週の荒れた天気はどうやら治まって,今朝の天気は上々である」.天気予報もそれほど悪くはないので,今日は,まあ,まあ,恵まれた旅行日和と言えよう.
 今日の集合は,京王線八幡山駅9時丁度.
 私は多少の時間的余裕を見て,大船7時17分発湘南新宿ラインの電車に乗車する.大船駅で,たまたま,本日ご一緒するM元さん,K崎さんとバッタリ.車内で雑談をしている内に,瞬く間に新宿に到着する.新宿で京王線各駅停車の電車に乗り換えて,8時35分に八幡山駅に到着する.
 駅前辺りに喫茶店でもあったら,モーニングコーヒーでも賞味しようかと思っていた.ところが,まだ集合時間まで25分もあるのに,大半のメンバーが既に集合場所に到着している.それに,この近くには,朝から開店しているコーヒーショップは見当たらないということで,モーニングコーヒーは諦める.

■定刻より早く八幡山駅から歩き出す
 集合時間15分前には,参加予定の11人が全員揃う.皆さん,極めてパンクチュアルなので気分が良い.
 リーダーのOさんの挨拶が終わって,定刻よりも早く8時53分に八幡山駅から歩き出す.
 本日の参加者は男性5人,女性6人である.女性お一人を除いて,これまで東海道五十三次,中山道六十九次,日光街道を一緒に歩いた同じ釜の飯を食べていた仲間である.全員が,それぞれの歩行力量など知り合っているのが,このグループの特徴である.
 駅前の道をほんの少し北へ進むと,前回歩いた甲州道中の終点に到着する.ここから,一路,本日の終点である南武線谷保駅まで,16.3キロメートルの旅が始まる.

<上高井戸宿とその周辺>

■上高井戸宿の概要
 資料2(p.263)によると,上高井戸宿の宿内人口は787人.内,男415人,女372人.宿内惣家数168軒.内,本陣1軒,脇本陣なし,旅籠2軒だったという.
 資料3には高井戸宿について,次のような説明がある.
 「高井戸宿には,
通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった.当初は,甲州街道の1番目の宿場であったが,後に内藤新宿が設置され,次第に素通りするものが多くなった.周辺住民は農業を主としており,一宿で継ぎ立てを勤められず,月初から15日までを下高井戸宿,16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた.助郷村は,久我山村,和泉村,松庵村,田端村(1751年(宝暦元年)-1761年(明和4年)),成宗村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年),久我山村代助郷).
下高井戸宿;日本橋からから4里.宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた.本陣前が高札場,本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる.
上高井戸宿;日本橋から4里12町40間.上高井戸1丁目信号(環8通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた.問屋は篠弥惣治.」

長泉寺
 私たちは, 中山道を西へ向かう.
 資料1や資料3の説明によると,環状8号線のガード下辺りに上高井戸宿本陣跡あったようだが,これらの資料に記述されているように,現場にはその形跡すらない.
 環8から100メートルほど先へ進んだところにあるY字型の分岐を左に曲がり旧道に入る.
 9時08分,長泉寺に到着する.
 参道の突き当たりに古い建物が見えている.割合に小振りな寺院だなと思いながら,参道の突き当たりまで進む.すると突き当たりの右手に広い境内があり,真新しくて立派な本堂が建っている.
 境内にある案内板の説明によると,ここは曹洞宗の寺院,山号は萬年山.本尊は大日如来である.開山は和泉村(現狛江市)の泉蔵寺2世欄室開牛(らんしつかんぎゅう).慶安元年(1648年),世田谷区の烏山にあった通称「お伊勢の森」に開創したが焼失,明暦元年(1655年)に当地に移転した.現在の本堂,客殿,庫裏は平成23年に整備されたものである.
 本堂前の観音堂(参道の突き当たりに見えていた古い建物)は「円通閣」.享保13年(1728年)に建立されたもの.西国三十三ヶ所の観音が安置されている.
 文化財として,地蔵,石像,庚申塔,十六羅漢などがあるという.

<長泉寺の本道>   

 
<境内には石柱,石塔などの文化財が多数ある>

■大橋場跡
 9時38分頃,大橋場跡を通過する.
 真鍮製(かな?)の柱に武州千歳村大橋場跡」と刻字されている.
 資料1によると,傍らの地蔵は地頭名主下山家が建立した下山地蔵である.身代わり地蔵,あるいは出世地蔵とも呼ばれているようである.

<大橋場跡>

■7基の石仏
 京王線千歳烏山近くの中山道を西へ歩き続ける.
 9時30分,7基の石仏に到着する.これらの石仏が何時頃作られたものかは,もう少し調べないと分からないが,全体にかなり風化していて,殆どの石仏の首が無くなっている.
 
<7基の石仏>

■里程標
 さらに西へ向かって歩き続ける.地図で確かめると,私たちは千歳烏山駅から仙川駅の間を歩いているようである.
 私は新婚時代の昭和40年代中頃に,京王線つつじヶ丘駅から5分ほどの場所で借家生活をしていたことがある.その頃,この辺りにも良く訪れていたが,その頃の面影は全くない.わずか数10年の間にも,凄く変貌してしまうんだから,遙か昔の江戸時代の面影を追うこと自体が大変無謀なことのように思えてくる.
 …ま,それはともかく,9時39分に里程標に到着する.勿論,当時の面影は残っていないが,鬱蒼と繁茂する木立の前に里程標の案内板が設置されている.ひょっとして,良く探せば,この辺りに里程標があるのかもしれないが,一寸目にはどこにあるかは分からない.
 この案内板の記事によると,この里程標は新一里塚と称し,「内藤新宿より三里」と刻まれているという.またこの新一里塚は明治3年(1870年)に建立されたものだという.

<新一里塚>

■観音堂
 9時49分,観音堂に到着する.
 観音堂は,かなり広い境内の奥まったところに立てられている.屋根が美しい立派な建物である.境内は清掃が行き届いていて,ゴミ一つ落ちていない.
 この観音堂に向かって右隣に給田町の慰霊碑がある.
 帰宅後,インターネットを使って,観音堂の由来などを調べてみたが,今のところ,はっきりしたことは分からない.

<観音堂>

<仙川周辺>

■昌翁寺に到着
 9時56分,仙川(だろうと思う)に架かる大川橋を渡る.10時01分,Y字型の三叉路で再び国道に合流する.10時04分,この三叉路を通過してから,すぐ右手にある昌翁寺に到着する.
 資料4の説明では,「仙川領主の飯高主水貞政が快要法印を師と仰ぎ,当寺を建立して菩提寺とした.貞政は,もと今川義元の家臣であったが徳川家康に帰属し,戦功により旗本となり下仙川村の領地を与えられた.明治12年3月の仙川の大災で,古記録や什器類を焼失.本堂は大正13年に再建された.いまの本堂は昭和60年新築である.近年境内で8の日に植木市がたった.地元農家が栽培した植木の交換会で,その市を記念した石碑(昭和39)がある.門前には元禄時代の庚申塔2基と宝暦の廻国塔が並ぶ.」とのことである.

<昌翁寺>

■昌翁寺のテンダイウヤク
 境内を拝見する.
 本堂右手に庭木を手入れしている男性が居る.どうやらこの寺のご住職のようである.境内を拝見しておりますと挨拶すると,
 「この木がテンダイウヤクです・・・」
と下の写真の木を紹介する.
 「えっ!…,テンダイ..何ですか?」
と聞き返す.
 私たちは寡聞にして知らなかったが,テンダイウヤクは大変珍しい木なので,わざわざこの木を見るために,この寺を訪れる人が大変多いとのこと.余りに沢山の方から質問を受けるので,この木の説明文を作ったとのことである(下右の写真).
 もともと,私は植物,花,食べ物には疎いが,“珍しい”と言われると気になる.
 資料5には,「
テンダイウヤク Lindera strychnifolia (クスノキ科クロモジ属は中国原産の常緑低木.漢名は天台烏薬であり,江戸時代に導入された.根を健胃薬として利用する.高さ数mになり,細い枝を分けて株立ちとなる.葉は長さ5~8cmで広い卵形.葉柄は1cm程度で短く,三行脈が目立つ.表面は強い光沢があり,裏面は粉白色で白毛が散生し,脈にも毛がある.雌雄異株で,3月から4月頃に葉腋に淡黄色の花を数個咲かせる.果実は直径1cmほどで,秋に黒く熟す.マツ枯れ後に再生したアベマキなどの生育する林の中でテンダイウヤクが生育しているのを見つけた.数百m離れている半田山植物園に植栽されていたものから野化したものと思われる.同じ林にはコジイも侵入していたが,これも同植物園からの種子供給である.植物園などに植栽された植物が,周辺地域に本来生育しない外来植物の野化を引き起こしていることは問題である.しかし,拠点となる森林が周辺地域への森林回復に貢献できる好例でもある.」という説明がある.
 門外漢の私には,この説明文を読んでも,あまり良く分からないし,半田山植物園がどこにあるのかも分からないが,まあ,この辺りで詮索は止めにしておこう.

 
<テンダイウヤクと説明をしてくれた男性>

■仙川一里塚跡
 10時14分,仙川一里塚跡に到着する.鎖の向こうに「仙川一里塚跡」と刻字してある石碑が立っている.江戸日本橋から5里目の一里塚である.
 “まだ,たった5里しか歩いていないのか”
というのが率直な印象である.

<仙川一里塚跡>

<金子村の長閑な裏道>

■瀧坂旧道
 10時21分,現中山道のY字型分岐点に到着する.この分岐点に瀧坂旧道(馬宿川口屋)が立っている.ここで私たちは右側の道に進む.途端に自動車が全く通らない閑静な道になる.
 資料6に,「
二股の角に,瀧坂馬宿川口屋と刻まれた新しい石碑が建っている.甲州街道でも,農民が副業として宿場から宿場,そして江戸時代中期以降は往復一ヶ月以上も荷物運びをする専業も出現したという中馬(ちゅうま)のための専用の宿がこの辺りにあったことを示している.」という説明がある.

<瀧坂旧道>

薬師如来
 旧道に入ってすぐ左手に薬師如来が安置されている.傍らに,首がない小さな立像がある.どちらもかなり風化が進んでいる.
 これらの石像の由来などは,私が調べた範囲では良く分からない.
 この薬師如来像を過ぎると,2~300メートルほど閑静な道が続く.
 「こういう閑静なところは風情を楽しみながらユックリ歩きましょう…」
ということで,新緑が美しい周囲の木々を眺めながらゆっくりと歩き続ける.

<薬師如来>

武蔵七党の金子氏
 この辺りは旧金子村である.資料1によると,武蔵七党のひとつ金子氏お出身地であり,金子瓜(真桑瓜)の産地として有名なところだという.
 資料7によれば,「
武蔵七党(むさししちとう)は,平安時代後期から鎌倉時代,室町時代にかけて,武蔵国を中心として下野,上野,相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である.横山党,児玉党,猪俣党,村山党,野与党,丹党,西党,綴党,私市などが知られているが,鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』には「武蔵七党」との表現がないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられており,数え方も文献により異なり一定していない.」という.
 “ありゃ~っ! 金子氏の名前が出てこない”
 この記事を読んだ私は困惑する.
 “でも,まあ,井伊か…”

閉店してしまったお菓子屋さん
 旧道は再び国道と合流する.
 資料によると,この合流点に「たちばな」というお菓子屋さんがあるはずだが,今はもう閉店している.同行者の中に調布市にお住まいの方が居られる.この方のお話しだと,この店はかなり前に閉店してしまったとのこと.
 “お店がない”となると,余計にこの店の菓子が食べたくなる.こういうのを天の邪鬼という.

<金子のイチョウ>

■新緑が美しい金子のイチョウ
 10時28分,金子のイチョウに到着する.街道からイチョウの裏手にある道に廻り込んで,イチョウを眺める.
 このイチョウは巨大で新緑が実に美しい.
 カメラを構えるが,イチョウが巨大すぎて,全体を撮すことが出来ない.
 イチョウを囲む生け垣の隙間から,イチョウを見上げながら,数枚の写真を撮る.
 銀杏の木の下に,まっ赤な色をした稲荷大明神のお社がある.

<金子のイチョウ>

■金子のイチョウの案内板
 再び街道に戻る.
 街道側には金子のイチョウの案内杭と案内板が立っているが,肝心のイチョウは,手前の竹林に遮られて,余りよく見えない.
 資料8には,「このイチョウは,太い方が雄で,目通り(目の高さ)の幹の太さが4.09メートル,細い方が雌木で,1.97メートルある.2本のイチョウの下にある稲荷大明神は,寛延元(1748)年に,京都の伏見稲荷を勧請(かんじょう)したという古文書があり,このイチョウもその時に植えたものと伝えられている.」という説明がある.
 
<稲荷大明神>                                     <金子のイチョウの案内杭>
                                    (つづく)

[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%BA%95%E6%88%B8%E5%AE%BF
資料4:http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118970608/
資料5;http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/lauraceae/tendaiuyaku/tendaiuyaku.htm
資料6;
http://members2.jcom.home.ne.jp/takeshi-hirai/koshu-kaidou/koshu-kaidou-1-5.html
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E4%B8%83%E5%85%9A


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