中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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奥州街道(白河の道);第3回;1日目(4);玄性寺・福原八幡宮・金剛寿院

2017年05月30日 04時54分19秒 | 奥州街道

                                   <福原八幡宮本殿>

  奥州街道(白河の道);第3回;1日目(4);玄性寺・福原八幡宮・金剛寿院
             (クラブツーリズム)
         2017年5月17日(水)~18日(木)

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1日目;2017年5月17日(水)  (つづき)

<ルート地図>


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<玄性寺>

■食事処「駒」から専用バスで移動
 食事処「駒」で昼食をおせた私たちは,再び専用バスに乗車して,13時35分に「駒」を出発する.
 午後最初に訪れるのは那須与一縁の寺,玄性寺である.この寺は奥州街道から少し離れた所にあるので,歩かずに専用バスに乗車したまま移動するとのこと.
 専用バスは往路を戻り.佐久山宿の手前で右折して福原方面に向かう.
 13時50分,玄性寺(げんしょうじ)前の駐車場に到着する.
 専用バスから下車して,玄性寺の境内に入る.境内は鬱蒼とした木立の中である.
 境内に入るとすぐに立派な鐘楼がある.鐘楼の前に「那須与一の墓」の案内板が立っている.少量の奥には六地蔵が祀られている.


<玄性寺の鐘楼と六地蔵>

■玄性寺の由来
 資料1によれば, 「玄性寺は、曹洞宗の寺院である。山号は須峯山。詳名は須峯山瑠璃光院玄性寺。本尊は薬師如来。
 那須氏
の菩提寺で、伝承によれば、3代那須資之が、京都東山の即成院に埋葬された弟の那須与一(宗隆、のち資隆)の分骨を受けて建立した功照院が始まりという。この功照院は永正11年(1514年)に廃寺となったという。
 天正
18年(1590年)に5歳で那須家を継ぎ、後に那須藩主となった那須資景が、曹洞宗の鉄尊を招き、玄性寺として再建した。資景の院号が「須峯院」、子の資重の戒名(法号)が「玄性」であることから、須峯山玄性寺は、資景が、自分に先立って没した子・資重(寛永19年・1642年没)の菩提のために建立したものと推定されている。毎年9月には与一に因み、墓前祭及び弓道大会が行われる。」とのこと(以上コピペ;一部省略)

<玄性寺の本堂>

■弓道場と稻積稲荷
 立派な本堂を参拝してから,本堂の裏手へ進む.
 本堂から少し離れた所に弓道場がある.毎年9月に開かれる弓道大会は,多分,この弓道場で開かれるんだろうなと想像しながら通過する.
 弓道場の先で,白い鳥居に突き当たる.根積稲荷の鳥居である.鳥居の先には長い石段がある.折角だから神社の拝殿ぐらいは見たいなと思ったが,この神社には立ち寄らずに右折して,山道に入る.辺りは鬱蒼とした木立に覆われている.
 
<弓道場>                                     <稻積稲荷の参道>

■那須氏墓碑
 坂道を登り切ったところに那須氏一族の墓地がある.墓地の入口に「記念物那須氏墓碑七基」という刻字のある石柱が立っている.
 一番後からノソノソと歩いている私は,ちょっと中には入れないので,入れるまで温和しく順番を待つ.
 ”それにしても,墓碑を「記念物」とモノ扱いするのは,ちょっとどうかな”
と私は口には出さずに不満を言う.
 ”だって,「霊」を扱うのに,「物」はないだろう…”

<那須氏墓碑>

■立派な宝篋印塔
 順番が来てやっと墓地に入る.
 立派な宝篋印塔が立ち並んでいる.講師からいろいろと説明を受けたが,ほとんど忘れてしまう(実に勿体ない).
 鎌倉でも高貴な方の宝篋印塔をあちこちで見かけるが,光明寺の内藤家墓所に並ぶ宝篋印塔群は別格として,それ以外でこれほど大きくて立派な宝篋印塔は私の記憶にはない.
 那須家の墓を拝見してから,往路を戻る.

<那須家の宝篋印塔群>

■可愛い地蔵
 境内に可愛い地蔵が何体か祀られている.何とも可愛いお姿なので,ついつい写真を撮ってしまう.

<可愛い地蔵>

<福原八幡宮>

■専用バスで福原八幡宮へ
 14時07分,玄性寺の参拝見学を終えて専用バスに戻る.専用バスに乗って往路を少し戻り,14時10分,福原八幡宮に到着する.


<専用バスで移動>

■福原八幡宮の由来
 長い参道の脇からヒョイッと参道に入り込んで.福原八幡宮の鳥居の前に立つ.鬱蒼とした木立に囲まれた神社である.
 立派な鳥居の前で,講師の説明を拝聴する.
 資料2によると,「原八幡宮の創建は天喜5年(1057)に源義家が前九年合戦の折、付近に陣を構え、戦勝祈願の為、石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まりとされます。中世は福原を中心に支配した那須氏の崇敬社となり文治元年(1185)には那須与一が社殿を改修しています。その後も那須家の庇護は続きましたが貞享4年(1687)烏山藩2代藩主那須資徳が御家騒動により改易となり実家がある弘前藩(青森県弘前市)に預かりの身になると庇護者を失います(那須家は後に旗本として復権し寛政2年:1790年には那須資明が社殿の修復を行っています。)。中世から江戸時代まで向いにある金剛寿院伝法寺と神仏混合の形式をもち、明治時代初頭に発令した神仏分離令後に神社として独立し明治5年(1872)に郷社に列しています。現在の本殿の建築年は不詳ですが貞享2年(1685)に修復し、寛政2年(1790)に修築された古建築で、特に本殿は三間社流造、銅板葺きの建物で極彩色に彩られ精巧な彫刻や組物など見所の多い建物です。福原八幡宮の本殿は江戸時代前期に建てられた神社本殿建築の遺構として貴重なことから昭和44年(1969)に大田原市指定有形文化財に指定されています。祭神:誉田別命。 」(以上コピペ).
 下の説明板の写真は,神社の境内で撮影したものである.

<福原八幡宮の鳥居>

彫刻が立派な本殿
 拝殿で参拝を済ませてから,後ろの本殿に廻ってみる.本殿には立派な彫刻が飾られている(膨張の写真).
 近くに本殿の解説文が掲示されているので,念のためにデジカメで撮影をしておく.


<本殿の彫刻>

■与市の里おおたわら銘木
 境内に巨木が立ち並んでいる.下の写真の巨木は推定寿命200年,樹高30メートル,目通し3.2メートルである.
 ずいぶんと大きな木なので,私のデジカメでは,せいぜい幹の下の方しか撮れない.

<与市の里おおたわら銘木>                                                      ↑
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<金剛寿院伝法寺>

■福原八幡宮から伝法寺へ
 福原八幡宮から直ぐ近くにある伝法寺へ廻る.ここは那須三十三箇所霊場第十九番札所のようである.また大田原市文化財に指定されている寺である.
 資料3によれば,「創建年は不詳ですが奈良時代末期に開山したと伝えられています。その後、藤原良門郷が奥州下向の際ここに訪れ、正八幡宮の分霊を勧請した事で神仏混合の霊場として整備されます。最盛期には125ヶ寺の末寺を抱える大本寺として隆盛を極め下野三金剛の1つで10万石の寺格をもったそうです。中世は那須家の祈願所として庇護され、寺宝として5通の武将起請文(昭和45年大田原市指定有形文化財)が残されていて、その内4通は佐竹氏が那須氏に対して書かれたもので、中世の歴史を知る上で貴重な存在となっています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により向かいにある福原八幡宮と分離して現在に至っています。」(以上コピペ).

<伝法寺入口>

■伝法寺本堂
 伝法寺本堂を詣でる.木立に囲まれて荘厳な雰囲気の本堂である.真言宗の寺らしく,本堂脇に弘法大師像が安置されている.
 伝法寺の参拝を終えて,14時34分,専用バスに戻る.これから,午前中の終点だったファミリーマートまで戻る予定である.

<伝法寺本堂>

<奥州街道に戻る>

■ファミリーマートから歩き出す
 伝法寺の見学を終えて,14時34分,専用バスに戻る.すぐに発車する.往路を佐久山方面へ戻る.
 14時37分,途中の甲州トイレでトイレ休憩を取る.
 14時42分,公衆トイレ発.
 14時52分,午前中の終点だったファミリーマートへ戻る.ここで専用バスから下車する.
 身支度を調えてから,14時55分,ファミリーマート前から歩き出す.つい今し方,専用バスで走った道を,今度は反対向きに歩くことになる.
 
<ファミリーマート前から歩き出す>

■花が美しい道
 先ほど専用バスで通ったときは,それほどの距離には感じなかったが,自分の足で歩いてみると,結構遠い.
 緩やかな登り坂が連続する.
 歩道には多種多様な花が植え込まれている.道路の右手には水田が広がっている.反対側の左手には,広い敷地に立派で大きな邸宅が並んでいる.

<花一杯の歩道>

やっと新しい道が始まる
 15時10分,やっと専用バスで通った道との分岐に到着する.
 分岐点には,道案内のイラストが掲示してある(下の写真).私たちは,今,この地図で「現在地」と標示されているところに居る.
 いよいよ,ここからが始めて通る道ということになる.
 佐久山宿まで後僅かである.


[参考資料]
資料1;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E6%80%A7%E5%AF%BA
資料2;http://www.totitabi.com/ootawara/hatiman.html
                                          (つづく)
つづきの記事
  ↓
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「奥州街道」の目次
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「奥州街道」の索引
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