中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(7):望月宿

2013年07月21日 07時48分23秒 | 中山道六十九宿

                                         <長坂石仏群>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(7):望月宿
                       (五十三次洛遊会)
             2010年6月12日(土)~14日(月)

※本稿の初出は2010年7月16日である.
 初稿の地図を修正版に差し替えた.さらに本文の加除修正を行った.

第2日目:2010年6月13日(土)
 (つづき)

<ルート地図>

■望月宿詳細

                                                                  
 ※再掲

<寛保大洪水の爪痕>

■中山道長坂石仏群

 下り坂の土手道を辿ると,再び大曲して下ってくる元の道に合流する.そして,眼下に望月の街並みが見え始める.
 道なりに進むと,かなり急な下り坂になる.
 15時03分,私たちが下っている坂道の右手に御嶽山権現など中山道長坂石仏群が続く.どれもこれも立派な石仏ばかりである.この石仏群の由来は,今のところ,私には良く分からない.

<長坂石仏群>

■中山道長坂分岐点
 15時05分,中山道長坂分岐点を通過する.ここには立派な案内板が立っている.この案内板には次のような記事が記載されている.
 「瓜生坂から下る中山道は,自動車道を横切ってほぼ直行するように進んでおり,途中大応院跡や長坂の石仏群をとおり,ここに至っている.
 大応院は,当山派の修験寺で,寺社奉行から出る命令や交渉ごとを司った触頭(ふれがしら)も勤めていた(上田市横谷家文書).ここから2キロメートルほど下った古宮の鹿曲川左岸の断崖にあった佐久補陀山観青寺の別当も兼ねていたが,末裔滋田家の本尊馬頭観音座像や飯綱権現立像など,また長坂の古碑群を残して明治5年に廃寺になった.
 中山道は,ここから望月新町のあった鹿曲川右岸を下流に向かって進み,西に折れて中之橋を渡り,大通りの望月本町に至っていたが,寛保2年の大洪水で新町が道ごと流されてしまい,その後,道とともに森町が移転された.そして中山道はこの長坂橋を渡り,枡形を通って森町が移転された東町に上り,北側にやや進行して望月本町をとおる旧来の道とつなげられた.
 したがって,ここは初期中山道と変更後の中山道の分岐の場所である. 佐久市教育委員会」

 この案内板の記事によると,これから私たちが訪れる望月宿は,寛保2年(1742年)以降の宿場跡ということになる.なお,寛保2年といえば,江戸3大大洪水のひとつである寛保二年江戸洪水があった年である(資料5).資料5によれば,「1742年(寛保2年)の7月から8月にかけて日本本州中央部を襲った大水害「寛保の洪水・高潮」で江戸地方の被害も甚大」だったようである.

<望月宿に到着>

■望月宿の概要
 15時06分,私たちは鹿曲川(かくまがわ)に架かる弁天橋を渡る.いよいよ望月宿に入る.
 望月宿は,資料6によると「平安時代からこの地を収めていた豪族望月氏の姓や,その望月氏が朝廷や幕府に献上していた馬の名産地として蓼科山裾野の「望月の牧」から,「望月」の名が付いたとも言われる.(なお,望月氏の由来は,望月の牧からであり,望月の牧の由来は,一族が毎年旧暦8月15日の満月の日(望月)に馬を朝廷や幕府に献上していたためである。)」という.
 資料6および資料3(p.68)によれば,「天保
14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば,望月宿の宿内家数は82軒,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠9軒で宿内人口は360人(男89人,女171人)であった.」という.

■御牧ヶ原
 資料3(pp.144-145)によると,望月宿の北側の山手一帯は御牧ヶ原あるいは今牧の原という官牧であったという.貞観7年(865年),ここで飼育された貢馬が紫宸殿で天皇の叡覧を賜ったという.ここは飛鳥時代から鎌倉時代末まで栄えたようである.現在でも御牧ヶ原周辺には,当時の馬除けの土手跡が残っているらしい.
 余談になるが…
 私には「御牧ヶ原」と聞くと,何となく身近で懐かしい心の残滓がある.多分,第2次世界大戦(大東亜戦争と呼んだ方がピンと来るが)中のこと,私は小学校(当時は国民学校と言っていた)の高学年の小国民であった.その頃は「鬼畜米英」を打倒して,八紘一宇,大東和共栄圏を実現することが理想であった.小諸近隣の小国民が御牧ヶ原に集まって,何かの行事を盛大に行ったことを,今での良く覚えている.ただ,どんな行事だったか,行事の内容は殆ど覚えていない.
 とはいえ,あれから半世紀以上も経った今でも,御牧ヶ原という言葉を聞くと,戦争中のことをフラッシュライトのように思い出す.あの頃の日本は,今の北朝鮮に良く似ていたな…勿論,私見だが…


■望月バスターミナル
 弁天を渡って,やや急な坂道を登る.道なりに左手に曲がって,十字路を右折する.坂道を登り切ると,道路の両側に望月の街並みが広がる.緩やかな下り坂になっている.
 15時15分,望月バスターミナルに到着する.ここが第2日目の終点である.今日は,ここから路線バスに乗ってJR佐久平駅前のホテルに宿泊する予定である. 
 私たちは,佐久平駅行のバスが,16時15分に発車することを確かめてから,望月宿を見学することにする.
 まだ,バスの発車時間までに,約1時間の待ち時間がある.バスの時間まで自由行動である.

 まずは,全員でバスターミナル近くにある望月民俗資料館に移動する.何人かは資料館に入る.勿論有料である.私はケチって資料館には入らずに,時間が許す限り,望月の名所史跡を 見て回ることにする.

<望月宿を散策する>

■歴史民俗資料館

 資料館で,まず目に付いたのが,庭に展示されている木樋である.傍らにある説明文によると,「蓼科山の五斗水水源地から引いた用水に設置されていた」ものらしい.「禅水量の9分(1尺8寸)を布施村(現望月布施)へ流し,1分(2寸)を五郎兵衛新田村(現浅科甲)へ分けられた.明治11年から17年にかけて水争いが起こり,その結果,9分と1分の分水が決められた.木樋は昭和18年,畳石用堰として布施村によって設置された.天然カラマツを削り貫いた見事な樋で,これによりはるか村まで水が運ばれた」という.
 昔の人は凄いことをしたなと感心させられる.


 
<脇本陣跡・資料館>                            <木樋>

■御本陣跡・高札場跡
 資料館隣に大森小児科医院がある.ここは本陣兼問屋跡である.医院の玄関に,2枚の看板,「御本陣」と「大森小児科医院」が下がっている.なるほど,ここに本陣があったのかと納得する.
 本陣の表には高札場があったらしいが,今はその面影は全くない.


<望月宿本陣跡>

■井出野屋旅館
 バスターミナル近くの井出野屋旅館の前を通過する.資料4によると,この旅館の建物は,1916年(大正5年)に建築されたものだという.木造3階建ての立派な建物である.

<井手野屋旅館>

■脇本陣・問屋場
 道路を少し下って,本陣跡と道を挟んで反対側,進行方向右側に脇御本陣と書いた家がある.2階部分に格子戸が残っていて,何となく風情がある.ここは鷹野脇本陣跡である.鷹野家は問屋も兼ねていたようである.
 資料3(p.145)では,「脇本陣の名残で,それでも軽い京風の建物に昔の面影が残っている.間口16メートル,左端は通り土間で,中央に奥行4.5メートルの問屋場がある.その奥に茶の間や客室,勝手などを配し,2階の前座敷には通りに面して障子や手すりを供えている」と紹介している.


<脇本陣跡>

■真山家大和屋
 脇本陣の直ぐ近くに真山家の住宅がある.ここは昔の旅籠.資料3(pp.145-146)によると,この建物は望月町で最古の建物で,重要文化財に指定されている.「家の西側の卯建(うだつ)には大和屋と漆喰で浮き出しており,2回の連子格子もよく旧態を残している」と紹介している.

<真山家大和屋>

■大伴神社
 さらに先へ進む.望月の集落が終わりかける頃,進行方向左手に大伴神社(おおとものじんじゃ)の参道がある.長い石段が続いている,百段余りあるだろうか.石段を見上げると,ちょっと気が引けてしまうが,折角だから石段を登ってみる.石段を登りきると綺麗に整備された境内に出る.意外に広い境内である.立派なお社が建っている.
 資料4によると,「本殿は春日造り.1677年(延宝5年)に建立.この地の産土神」だという.
 資料3(p.146)によると,「景行天皇御宇の鎮座.境内には古い道祖神がある」とのこと.

 
<大伴神社階段>                   <大伴神社拝殿>

■望月町を一望
 大伴神社は高台にある.境内から望月の町が一望できる.町の方からは物音一つ聞こえてこない.不気味なほど閑静である.
 暫くの間,眺望を楽しんだ後,何処へ通じているのか良く分からない断崖沿いの道を下りてみる.クネクネと下っている内に,先ほどの石段下に出る.
 丁度このとき,幹事役のIさんが石段の下に到着する.
 「・・この階段を登ってから,そちらへ下りられるんですか・・?」
という質問を受ける.

<望月町展望>

■馬頭観音
 まだ時間がある.
 前方を観ると登り坂になっている.この登り坂を少し登ってみることにする.
 5分ほど登ると,高台に出る,進行方向右手には,田植えが済んだばかりの水田が広がる.田圃の畦に「中山道」と書いてある小さな案内板が立っている.お馴染みの案内板である.
 「あれ,こんな所を中山道が通っているのか・・」
 私は案内板の指示に従って,脇道に入ってみる.すると数軒の聚落の中を細い道がクネクネと続き,先ほどの登り坂の下につながっている.坂との分岐に馬頭観音が安置されている.
 「なるほど,昔の中山道は,こっちを通っていたのか・・」
私は,図らずも旧中山道を通ることができて大満足である.
 ただ,1時間ほど散策している間に,ほとんど人に会わなかった.それに飲食店はおろか,自動販売機すら見当たらなかった.

<中山道案内杭>

上田道と城光院
 そろそろ,バスターミナルに戻ろうと思う.
 往路を辿って緩やかな坂道を下る.坂道を下りきったところが,さきほど訪れた大伴神社の階段下である.
 大伴神社と道を挟んで反対側に,上田道の分岐がある.地図で確かめると,分岐から鹿曲川を渡ってすぐ右手の高台に望月山城光院がある.どうやらここは望月氏の菩提寺のようである.
 時間があれば,この寺まで足を延ばしてみたいが,残念ながら参拝は諦める.
 
                                          (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E4%BF%9D%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%B4%AA%E6%B0%B4
資料6:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E5%AE%BF

                                        (つづく)
                               
[加除修正]
2013/7/21  地図の差替え.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/154ee89453f6109510d7eecf4e22f995
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/6dd89cc3a1a5063dbcce4b6dd78a6674 
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


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1 コメント

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柏尾川 (パッチン太郎)
2013-07-22 12:32:36
戸塚区の柏尾川きれいですね。僕もよく歩きます。
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