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ロイター板の日記 -CCV-

若人のみんな、俺を踏み台にしろ。
3流私大文系卒、40歳過ぎ商社勤務の窓際営業マンの雑記。

古いレポートⅡ

2006年10月30日 | 生活
・科学と宗教
キリスト教を信じずともそのシステムは共有されています。
物理学の祖ニュートンがその基礎を築いたわけですが、実は物理学キリスト教の思想が根底にあります。
ニュートンは熱心なキリシタンであり、ニュートン自身が絶対時間の背景として神の時間があると言っていました。

この考え方についての良い悪いの話をしたいのではなくて。。

日本人がもともと持っていた時間観は、現在私たちのもつ時間観とは違っていたのです。

現在の私たちの時間観を考えてみます。

時間は絶えず流れています。

ではその時間の流れを図に書いて説明するとしたらどうしますか?
左から右に直線を引くように表して、左を過去、右を未来、そしてその間にある点が現在だと表すんじゃないでしょうか。
そして点は等速度で動いていきます。
英語の授業で文法を学ぶときそんな図を描きましたよね。
これこそキリスト教的な時間(Time)の捉え方です。始点(誕生)から終点(終末)までの直線的に流れます。

一方で、もともと日本にあった時間、これは仏教や神道に基づくものでまた別のかたちでとらえていました。
その時間のかたちがサイクル(Circle)です。仏教には輪廻という考えがありますが、まさにこれです。
神道でももとが日本の土着信仰であり根本に稲作文化であったりします。言葉でも還暦なんて言葉があります。生活の中で時間を周期的な流れとして捉えているものでした。
そういえば天皇が変われば暦も変わりますしね。
つまり時間の形として円という意識があって時間は回るもの・巡るものだと感覚があったのです。

また時間は絶対的なものでなく、感覚的なものであり、流れの速度は必ずしも一定ではありませんでした。

もう一度言います。あくまで考え方の是非を問うのではありません。

ただ生物学を研究するにあたってTime的な時間の捉え方をするとひずみが生じてしまう。
これは自己の世代さえ繁栄すればあとは野となれ山となれで責任放棄の考えがまかり通ってしまうからです。
先ほどの話に戻れば時間を直線で考えるとわかりやすい。自分の生きるの線上しか考えなくて良くなってしまう。
Circle的な時間の捉え方で視点を持たなくてはいけないことが多いのです。つまり世代世代で責任回帰しないといけないのです。
(ちなみに先生は研究当時には気づいておられなかったようですが、後日他の研究者との会談の中でこの時間の捉え方の違いにきづかれたそうです)

もちろん物理学が基礎にあって、その上に生物学が成り立ってわけだから物理学を無視しろということではありません。

ここでいいたいのは、
ただ世界標準の規格だからといってすべてをそれにあてはめる必要はなく、むしろあてはめることで失われてしまう「私たちの感覚」を大事にしなくてはいけないのということです。

つづく