森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけにこれ以降、
楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、
演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった。
またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が76年日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた。
「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった。
「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた。
拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる。
こうした楽曲以外にも多くのレギュラーを持ったラジオや雑誌のインタビュー等での自由奔放な発言、言動は多くの共感を呼んだが、それは芸能界全体にも影響を及ぼした。
70年代なかばのナベプロの凋落については、当時の幹部は「きっちり教育され、型にはめてつくられたタレントなり歌手なりが、視聴者に飽きられたからでしょう。拓郎もそうですが、型にはまらない自由で奔放なタレントや暗さがあるキャラクターが好まれるようになったのも一因だと思います」と話している。
暗さの藤圭子に対抗できるのは拓郎だった。
これだった。渡辺晋は拓郎の楽曲の実力を買ってキャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した。
日本初の本格的ライブ・アルバム『たくろうLIVE '73』
『ぷらいべーと』は、オリコンで2週連続で1位を記録、カバーアルバム最初のNo.1ヒットだった。
『襟裳岬』で日本レコード大賞、日本歌謡大賞を受賞。
この男だったらと望みを託した。
楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、
演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった。
またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が76年日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた。
「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった。
「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた。
拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる。
こうした楽曲以外にも多くのレギュラーを持ったラジオや雑誌のインタビュー等での自由奔放な発言、言動は多くの共感を呼んだが、それは芸能界全体にも影響を及ぼした。
70年代なかばのナベプロの凋落については、当時の幹部は「きっちり教育され、型にはめてつくられたタレントなり歌手なりが、視聴者に飽きられたからでしょう。拓郎もそうですが、型にはまらない自由で奔放なタレントや暗さがあるキャラクターが好まれるようになったのも一因だと思います」と話している。
暗さの藤圭子に対抗できるのは拓郎だった。
これだった。渡辺晋は拓郎の楽曲の実力を買ってキャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した。
日本初の本格的ライブ・アルバム『たくろうLIVE '73』
『ぷらいべーと』は、オリコンで2週連続で1位を記録、カバーアルバム最初のNo.1ヒットだった。
『襟裳岬』で日本レコード大賞、日本歌謡大賞を受賞。
この男だったらと望みを託した。