心配するな!なんとかなる。

今起きていること、ちょっと立ち止まって考えてみよう。

尖閣 熱気球 甘すぎないか日本の対応

2014-01-02 19:49:07 | 日記
2014/1/2

熱気球で尖閣上陸を企てていたと情報がある以上、救助の上当然事情聴取したんだろう

な海上保安庁は。

それにしては中国官船に引き渡すタイミングが早すぎると思われるが。

遭難した場所が、日本の領海内なのか、接続水域なのか公海上かわからないが、やや、

手回しが良すぎるな。

ここは遭難者手当てと称して、沖縄に連れ帰るケース、千載一遇のチャンスを自ら逃し

たか。

「上手の手から 水が漏れる 安倍政権」

ここは、中共に貸しをつくるタイミングとばかり、まさか譲歩したのではなかろうな、

海保、安倍ちゃん。

少し、甘いとおもうがな、民主党の仙石・田中真紀子氏を思い出して笑ってしまった

な。





熱気球遭難、論評避ける=中国
時事通信 1月2日(木)18時38分配信

 【北京時事】中国外務省の秦剛報道局長は2日の記者会見で、沖縄県・尖閣諸島周辺海域を熱気球で飛行していた中国人男性が遭難し、日本側に救助された事実を認めた。ただ、具体的な論評は避け、男性の行動の是非についても「彼は熱気球の愛好者だということを強調したい」と繰り返すにとどまった。 

                 ☆

熱気球で尖閣上陸計画し遭難、「恥ずかし過ぎる」「日本の管轄下にあると示したようなもの」―中国版ツイッター
Record China 1月2日(木)13時36分配信



2日、海上保安庁は尖閣諸島沖の海上で中国人の乗った熱気球を発見し、近くに漂っていた中国人男性を救助した。中国では「恥ずかし過ぎる」「尖閣諸島が日本の管轄下にあると示したようなもの」といった意見が見られた。
2014年1月2日、人民日報によると、台湾の救難調整本部は1日、尖閣諸島・魚釣島沖の海上で中国人の乗った熱気球が行方不明になったと海上保安庁に救助を要請した。沖縄県那覇市の第11管区海上保安本部がヘリコプターで捜索、熱気球を発見し、近くに漂っていた中国人男性を救助した。


男性は1日午前7時ごろ、尖閣上陸を目指し、熱気球に乗って福建省福清市を出発。尖閣諸島の近くまで来たが、熱気球が飛行途中で故障し、不時着水したという。持っていた無線機で救助要請を出し、台湾の救難調整本部が第11管区海上保安本部に連絡。救助後、同日夜に魚釣島の周辺を航行していた中国公船に引き渡された。男性は河北省の35歳の調理師だという。

中国版ツイッターと呼ばれる簡易投稿サイトには多くの意見が寄せられた。以下はその一部。

「中国人はもっと早くからこうすべきだった。今後はもっと多くの人が行動を起こすだろう。尖閣上陸も遠くない」
「この愛国精神には涙が出るが、なぜ軍国主義の施しを受けるのか」
「笑うべきなのか、泣くべきなのか…」

「恥ずかし過ぎる」
「やらかしたな。尖閣諸島が日本の管轄下にあると示しているようなもの」
「日本人に救助されるとは皮肉な。釣魚島(=尖閣諸島)は中国のものではないんですか」
「この事件のポイントは台湾が日本に伝えたという点」
「陳光標じゃないの?」(陳光標はニューヨーク・タイムズ買収の意向を明かし、派手な慈善活動でも知られる中国の実業家)

「この調理師の腕は大したことないはずだ。火加減を把握できていない」(翻訳・編集/TH)
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富士(不死)は見事に見え申し、ミカン(未還)は一つもこれ無きとは、…お察し願ひたく候

2014-01-02 17:02:16 | 日記
2014/1/2

本日は、地元である昭島の日吉神社に初詣に行ってきた。

並んで建つ大日堂、本覚院(拝島大師)の賑わいは例年通りであったが、参詣客は日吉

神社の行列が群を抜いていたように感じた。

日本では古来より民間は神仏習合しており、公は神、私は仏と役割分担が為されてい

た。

この使い分けが出来ずば、日本人とは言えないのではないか。

公に殉じた彼らは靖国に祀られている。

肉体は、未だ戦地に果てたままの先人も多いこと思う。

彼等の為、年に一度、なぜに国家を代表するものがその鎮魂を願うことが出来ないの

か。

中・韓の政治的パフォーマンスはそれでよい。

せめて、日本人ならその心情は理解できるはずだ。

                  ☆

以下、インターネットより引用

大日堂境域及び日吉神社境域(昭島市拝島町)

青梅線・昭島駅下車

拝島の地名は、日原鍾乳洞で知られる奥多摩町日原にあった大日如来像が豪雨によって流れ出し、昭島市大神の中州で止まり、村民は、これを何か尊いものだと思い朝夕拝んでいた。そして、村民が一堂を建立し、これを迎えて安置したことから拝島という村名が生まれてきた。

拝島から多摩川を挟んで対岸には、後北条氏の居城として知られる滝山城がある。大日堂は、築城の際に城の鬼門除けとして移築された。
永禄12年(1569)6月、武田信玄と勝頼は拝島の森に本陣を置き、小田原城攻略の途上、大軍をもって滝山城を攻め、落城寸前にまで追い込んだが滝山城は落城しなかった。

東京都指定史跡
大日堂境域及び日吉神社境域
所在地 昭島市拝島町1丁目10番14号及び19号
指定 平成4年3月30日

大日堂の創建は、寺伝などによると天暦6年(952)と伝えられています。その後、戦国期、滝山城の築城に際し城の鬼門除けとして現在地に移され、天正年間(1573~1591)には滝山城主北条氏照の重臣石川土佐守が娘の眼病を祈願し平癒により堂宇を再建。この時に「大日八坊」といわれた一山八ヶ寺が建立されたと言う。
天正19年(1591)には徳川氏より朱印地10石を下賜され、享保17年(1732)には大日堂の位置を石段上の現在地に移し建物を再興している。
一方、日吉神社の創建は不明であるが、天正年間の大日堂再興の折りにその守護社として建立されたと言われ、寛保元年(1741)に「山王大権現」の称号を許されている。江戸時代は大日堂の管轄下にあったが、明治以後、神仏分離により独立し、社号も日吉神社と改めている。
当該地は古刹として著名な大日堂と天台宗の守護社である日吉神社によって形成された境域で、歴史的建造物を中心に旧態をよく留め、典型的な天台宗一規一画の寺域を構成する都内でも数少ない場所の一つであります。

平成5年3月31日建設
東京都教育委員会

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安倍首相の靖国参拝「世界が懸念」=中韓との関係改善促す―山口公明代表
時事通信 1月2日(木)12時23分配信

 公明党の山口那津男代表は2日午前、東京都内で街頭演説し、昨年末に安倍晋三首相が靖国神社を参拝したことについて、「韓国や中国の反発はもちろんだが、米国、ロシア、欧州連合(EU)からも心配する声や厳しい声が聞かれている」と述べ、重ねて懸念を示した。その上で、「それらの声にも謙虚に真摯(しんし)に耳を傾けて、世界の平和や安定に貢献する日本の姿を示していかなければいけない」と述べ、首相が参拝の真意を丁寧に説明し、各国の理解を求めていく必要があると指摘した。
 靖国参拝に反発を強めている中韓両国との関係に関しては、「改善は進んでいないが、今年こそはその関係改善に向けて大きな一歩をしるしていかなければならない」と強調。首脳会談の早期実現に向けた取り組みを政府に促した。 
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日本の神道

 日本の神道は、太古のアニミズムにはじまる。太陽、雨、風、雷、海、湖、山、森、岩、石などに、神聖なものを感じ取った。細石(さざれいし)が巌(いわお)に成長するという考えも、ここから由来する。

 やがて、卑弥呼などにみられる神官(シャーマン)のような存在が出現し、神社もつくられた。
 一方、天皇家や豪族たちの祖先崇拝が行われるようになり、氏神というかたちで表れてくる。

 奈良時代に、東大寺の大仏がつくられたとき、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の巫女が朝廷に大仏づくりを見守りたいと申し出て許され、東大寺のそばに手向山八幡宮が建てられた。また、法隆寺には龍田神社が、平安時代になると延暦寺に日吉神社が、金剛峯寺には丹生都比売(にうつひめ)神社が、仏を守る神として建立された。
(注:宇佐八幡宮の巫女は、道教の影響によるとみられる呪的医術で信者をあつめており、大和まで赴いて大君(天皇)の病気回復を祈ることがしばしばあった。)

 平安時代には、日本の神々は仏や菩薩が姿を変えたものであるとする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が行われた。室町時代には、逆に仏や菩薩は日本の神々が姿を変えたものであるとする「逆本地垂迹説」を唱えた吉田兼倶(かねとも)が吉田神道をかたちづくった。吉田神道の経典のひとつ「神道由来記」では、「天地に有りては神と云い、万物に有りては霊と云い、人に有りては心と云ふ。心は則ち神明の舎なり。」といっている。

 江戸時代には儒学(特に朱子学)や仏教寺院が政治と強く結びついていたが、本居宣長や平田篤胤らを中心とする国学者は、日本古来の精神を追求し、「復古神道」と呼ばれる。

 明治維新により「神仏分離」が行われたが、「廃仏毀釈」となって寺院、仏像、仏画、経典、什器など多くが破壊された。また、山岳信仰や霊場信仰も弾圧された。神道は、天皇を「現人神」とする国家神道となるが、第二次世界大戦の敗戦により終わりをとげる。

 現代の神道は、次の4つに分類される。
・神社神道
 神社を中心とする祭祀や儀式。
 国家神道の消滅により、民間組織として伊勢神宮を本宗とする「神社本庁」が設立され、都道府県には「神社庁」を置いて八万近くの神社が所属したが、三万余りの神社は所属しなかった。
・民間神道
 各地の風俗・習慣・民族行事。初詣、七五三、成人式などを含める。
・皇室神道
 天皇家を中心におこなわれる祭祀。新嘗祭など。
・教派神道
 幕末から明治にかけて誕生し、組織的な教団により活動しているもの。政府の弾圧を受けて解散したものもあるが、公認されたものは1942年に強制的に13派に編成された。
  実行教、扶桑教、御嶽教 ~ 山岳信仰がもと
  黒住教、金光教、天理教 ~ 民間信仰を基に教祖が創設
  禊教、神習教 ~ 禊祓行法による修行
  神道修正派、大成教(神道大成教) ~ 伝統的な神道が儒学の影響を汲んだもの
  大社教(出雲大社教)、神理教、神道本局(神道大教) ~ 復古神道のながれを汲むもの
 第二次世界大戦後は、政教分離が行われ、信仰の自由が認められたことから、新たな宗教団体が誕生しているほか、上の13派から分離して誕生した宗派もある。


 現代の日本人はほとんどが無宗教とされているが、基本的な発想には古来からの神道の思想が色濃く影響している。
 多くの日本人は、次のように考えていると言ってもよいのではないか。
「自然界のさまざまなものに霊的なものを感じ、人間はその自然界のなかで生きている。現在の自分や社会があるのは、多くの祖先たちのおかげであり、今を生きている者はこれをより良いかたちで子孫へ伝えていかなければならない。したがって、今の人生を一生懸命に生きなければならないのだ。」
 こうした考え方は、一神教のような神を必要としない。日本人には信仰がないとよく言われるが、信仰がないのではなく、一神教とは異なる思想で生きているからではないだろうか。


(参考)
 家庭で神様をおまつりするときの神拝詞(しんぱいし。神を拝む言葉)を、阿部正路著「改訂版 神道がよくわかる本」から引用しておきます。
「掛(か)けまくも畏(かしこ)き 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 産土大神(うぶすなのおおかみ) 天地諸々(あめつちもろもろ)の大神等(おおかみたち)の大前(おおまえ)を拝(おろが)み奉(たてまつ)り慎(つつし)み敬(うやま)い白(もう)さく 万(よろず)の禍事(まがごと) 罪穢(つみけがれ)あらむをば祓(はら)い清(きよ)めて 心(こころ)にかかる雲(くも)もなく 大神等(おおかみたち)の御教(みおし)えのまにまに 直(なお)き正(ただ)しき真心(まごころ)もちて 誠(まこと)の道(みち)に違(たが)うことなく 負(お)い持(も)つ業(わざ)に励(はげ)ましめ給(たま)い 家(いえ)をも身(み)をも健(すこや)かに栄(さか)えしめ給(たま)えと 恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(もう)す」

                ☆

文化
「ペンから剣へ―学徒出陣70年―」展ポスター
「ペンから剣へ―学徒出陣70年―」展によせて

望月 雅士/大学史資料センター

 今年は、いわゆる学徒出陣から70年にあたる。

 太平洋戦争が敗色の様相をみせる1943年10月、学徒に認められていた徴兵猶予が停止された。これにより陸海軍へ入隊した学徒数は全国で9万、あるいは13万と言われ、早稲田大学からは4500名を超す学徒が出陣した。すでに1941年から繰上げ卒業が実施されており、翌44年には徴兵年齢が下げられるとともに、第二陣の学徒が出陣していった。

 今回の企画展では、学業半ばで陸海軍に入隊し、戦場に逝った5人―高木多嘉雄・柳田喜一郎・吉村友男・近藤清・市島保男―を取り上げる。彼らの知性は戦争の時代といかに向き合い、格闘したのだろうか。彼らの軌跡を追うことから戦争の姿を改めて問い直し、不戦の誓いを新たにしたいと思う。

学徒出陣―校門から営門へ―
 1943年9月21日、東条英機内閣は国民動員徹底の一環として、学徒の徴兵猶予停止を決定、10月2日公布の勅令で、満20歳に達している学徒は徴兵検査を受け、12月早々に陸海軍へ入営・入団することが決まった。早稲田の場合、徴集延期となった理工学部などの学生を除き、その数4500名を超え、文科系4学部では7割近くの学生が対象となった。

 高木多嘉雄は政治経済学部3年となった。勉学に励む一方で、剣道をはじめ、水泳やスケートも楽しむなど、文武両道の学生生活を送っていた。学徒出陣が決まった時、神風が吹くことを信じていた父に、高木は誰が行っても勝てる戦争ではないと言った。

 10月15日、早稲田から出征する学徒のための壮行会が、戸塚道場(現・総合学術情報センター)で開催された。立ち並ぶ学徒たちを前に田中穂積総長は、「今こそ諸君がペンを捨てて剣を取るべき時期が到来した」と訓示した。壮行会終了後、出陣学徒たちは学部ごとに報国碑まで行進、さらに1000名の学生が靖国神社、皇居まで行進し、敵の撃砕を誓った。


早稲田大学出陣学徒壮行会 1943年10月15日 大学史資料センター所蔵
 翌16日には早慶壮行野球試合、いわゆる最後の早慶戦が催された。直前まで開幕が危ぶまれたが、戸塚道場は早慶の学生で埋め尽くされた。岐阜市立岐阜商業学校出身で、全国中等学校野球大会での優勝経験をもつ近藤清は3番レフトで出場し、3打数2安打2打点の活躍をみせた。1943年に入り、東京大学野球連盟が解散に追い込まれても、近藤は「野球道」の精神に則り、日々練習に励んでいた。そして敬愛する岐阜商以来の先輩松井栄造の戦死に際しては、岐阜の恩人に「必らず仇をとります」と書き送っていた。


「最後の早慶戦」記念撮影 於戸塚道場 1943年10月16日 前列右から7人目が近藤清 大学史資料センター所蔵
 10月21日、文部省学校報国団主催で出陣学徒壮行会が明治神宮外苑競技場で開催され、東京およびその近県の2万5000人と推定される出陣学徒が集結した。スタンドには推定6万5000人の送別学生が見守り、東条首相らが壮行の辞を述べた。式典の後、早大隊の中からは「都の西北」の合唱がわき起こり、スタンドから女子学生が隊列に駆け寄る光景が見られたという。

 商学部3年の市島保男はこの壮行会に行かなかった。その理由を友に次のように書いた。「何故学生のみがこれほど騒がれるのだ。同年輩の者は既に征き、妻子有る者も続々征っている。我々が今征くのは当然だ。悲壮だというのか。では妻子有る者は尚更だ。学生に期待する故と言うのか。では今迄不当な圧迫を加え、冷視し、今に至り一変するとは」。

 10月25日からの徴兵検査が迫る中、学生たちは故郷に戻っていった。文学部国文科2年の吉村友男は、名古屋へ帰る東海道線の車中、富士山がよく見えたもののミカンの販売がなかったことをもじり、「富士(不死)は見事に見え申し、ミカン(未還)は一つもこれ無きとは、何たる上ゑんぎに候か!お察し願ひたく候」と姉に書き送った。

 学徒出陣の発表で慌ただしく過ぎ去る日々の中、最上級生は11月30日付の仮卒業証書を受け、学徒たちはそれぞれ陸海軍へ一斉に入営・入団していった。

軍事訓練
 陸軍に進んだ高木、柳田、吉村は12月1日に入営、高木は東部第六部隊、柳田は東部第六十三部隊、吉村は中部第四部隊に配属となった。翌44年2月、陸軍に進んだ3人はともに幹部候補生に採用され、5月高木と柳田は前橋陸軍予備士官学校へ、吉村は福知山の中部軍教育隊へ入った。

 一方、海軍へ進んだ近藤と市島は、1943年12月10日に海兵団に入団、翌44年2月1日、第十四期飛行専修予備学生として共に土浦海軍航空隊へ配属、5月25日には市島は谷田部、近藤は出水の海軍航空隊へ転属となった。

 戦局は一段と悪化した。1944年7月、サイパン島の日本軍が玉砕した。絶対国防圏が崩壊し、日本軍はフィリピンへの兵力集中をはかった。フィリピンがアメリカ軍に奪回されれば、日本と南方資源地域の海上交通線が遮断され、日本の戦争遂行は絶望的になるからであった。前橋の高木と柳田は卒業を待たずに、550名の同期とともに第十四方面軍教育隊へ転属となり、吉村も南方派遣が決定した。いずれもフィリピン戦へ投入されたのである。

戦場

南方へ出発する直前の前橋陸軍予備士官学校生 於福岡市 1944年9月下旬 新谷照氏寄贈 大学史資料センター所蔵
左端柳田喜一郎、左から3人目高木多嘉雄 柳田も高木も、ともにこの写真を東京の家族に送った。柳田、高木とも、生前の姿を写した最後の写真と見られる。
 1944年10月18日、フィリピン西方海上、吉村の乗り込んでいた輸送船がアメリカ軍の魚雷攻撃を受け沈没した。レイテ島にアメリカ軍が上陸を開始する2日前のことだった。海へと沈みゆく吉村の最期を知る手掛かりはない。

 一方、高木と柳田は11月11日にマニラに入港したが、レイテ沖海戦の敗北で、すでに日本海軍の連合艦隊は壊滅し、食糧や弾薬の輸送も困難な状態に陥っていた。

 翌45年1月アメリカ軍のリンガエン上陸に伴い、日本軍はルソン島北部への転進を開始した。山岳地帯に兵力を集め、持久作戦を採ったのである。第十四方面軍教育隊も北部へと移動を開始、アメリカ軍が迫りくる2月、教育隊の卒業を機に高木は第十九師団へ、柳田は第百三師団に転属となった。

 高木は第十九師団へ向かっていた。だが山岳地帯に陣を構える師団へ行くのに地図はなかった。食糧もほとんどなかった。キャンガンまで達した時、高木はアメリカ軍戦闘機による機銃掃射を受けた。3月30日のことだった。

 柳田を待ち受けていたのは、サラクサク峠をめぐる攻防戦だった。アメリカ軍との激戦が続いた。柳田は機関銃小隊長として昼尚暗き密林地帯の溪谷を、磁石1個を頼りに戦った。4月10日戦闘の最中、柳田の頭部から顔面に銃弾が貫通した。

 1945年3月末、アメリカの機動部隊は沖縄諸島に猛攻撃を加え、4月1日、沖縄本島に上陸した。4月5日、航空兵力により沖縄周辺のアメリカ軍に特攻攻撃を加える菊水作戦が発動された。名古屋航空隊から第二国分基地へ移った近藤は、出撃直前、姉に宛て遺書を書いた。そして4月28日沖縄へと出撃した。

 この日、菊水作戦を指揮する宇垣纏第五航空艦隊司令長官は、日記に次のように書いた。

「特攻も其の成果下火なるが如し」。

 翌29日、市島保男が鹿屋基地から出撃した。出撃当日の市島の日記の末尾には、聖書の言葉が残されていた。

「人若し我に従はんと思はゞ己れを捨て己が十字架を負ひて我に従へ」(マタイ伝16章24節)

 敗戦まで100日余りのことだった。

 柳田喜一郎がどのような学生時代を送ったのか、わからない。今に残る彼の遺品は、前橋陸軍予備士官学校時代のアルバム、唯一冊だけである。その末尾には、墨痕鮮やかに次の言葉が記されている。

「憧れの南の国へ 美しき夢を懐いて 懐しの故国を去る
 さらば父母よ 友よ 幸福あれ」

 2013年3月現在、早稲田大学の戦没者は4736名を数える。うち学徒出陣以降の学徒の戦没者数は500名を超えると推定される。そして全戦没者の7割近くが、実に1944年以降に集中する。


2013年度春季企画展示
「ペンから剣へ―学徒出陣70年―」
会期:2013年3月25日(月)~4月27日(土)
※日曜閉室
会場:早稲田キャンパス2号館1階 會津八一記念博物館 企画展示室