心配するな!なんとかなる。

今起きていること、ちょっと立ち止まって考えてみよう。

名護市稲嶺市長におくる

2014-01-20 22:00:48 | 日記
2014/1/20

62年、昭島市に住んでいる。

自宅より僅か1.5Km先が横田基地である。

昭和26年生まれなので、丁度朝鮮戦争最中に生まれたことになる。

したがって、昭和28年の立川基地グローブマスター機墜落129名全員死亡の記憶は

無い。

記憶では、近所、我が家も含め粗末なバラック建てだった。

トタンで囲った壁、金網越しの窓、まるで鶏小屋のようであった。

それでも、ラジオに噛り付いて、そう「赤銅鈴之助やビリーパック」を聴いていた。

誰も貧しかった。

B29が毎日それも一日中東の空に下りて来た。

腹に染み渡る爆音残し。

美智子というオンリーに部屋を貸していた。

生まれて初めて、コーラを飲んだのは、美智子に連れられて行った牛浜の彼女の友人

宅。

当時ラムネを飲むのが精一杯だった自分には、何か薬のような苦い、でも甘い不思議な

飲み物だった。

美智子はボークという兵隊とともにアメリカに渡り、暫くして幸せそうな家族と自宅の

写真が送られてきた。

今健在なら75歳前後だろう。

やがて、ベトナム戦争、戦闘機が轟音劈き飛び回っていた。多くのベトナム戦争での犠

牲者は横田に運ばれてきたものと思う。

ジェットの爆音で立付けの悪い風呂屋の窓ガラスが割れた。

昭島近辺の子供は集中力がなく、出来が悪いと母校中学校の教師はのたまった。

死体洗いのアルバイトがあると人づてに聞いたのも、東京オリンピックの頃だった。

当時、進駐軍で働く大人も多かった。昭島、福生、羽村、瑞穂、武蔵村山、立川など。

福生赤線は賑やかだった。

三億円事件の容疑者グループと称される若者が闊歩した街。

今の福生赤線は外人も出歩かず、灯が消えたようでマンションが立ち並ぶ。

町興しに智恵を絞っている。

沖縄、嘉手納から辺野古への基地移転、産みの苦しみ。

それは、平時に基地など不要。

先の大戦での本土防衛の激戦地と首都近郊を同じと言うつもりは全く無いが…。

「横田」が首都を控え米軍にとって外せないのと同様、やはり「沖縄」も東シナ海を控

え地政学上外せはしないのだろう。

敗戦国日本としては、米国に頼らず自力で国防できないのであれば、必要な部分では、

淡々と米国と一体化して調和するしかない。

ただし、無理に迎合する必要もない、心の中に芯は持て。