家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

施主がプロに勝る知識

2005年08月03日 | 家について思ったことなど
家づくりにおいて、施主のほうがプロ(設計者や施工者)を上回っている知識がある。
それは「暮らし方」に関する知識である。
その知識は施主が日々の生活で蓄えてきたオリジナルのものである。あたりまえだが、施主家族こそ最も自分たちの暮らし方を知っているのだ。

暮らし方次第でハードとしての家の形・機能も変わってくるはずだ。
ところが、ネットや出版物の世界において、住宅の供給者側は自分たちの「家」哲学・理念こそが最高だと思っているせいか、個々の施主家族の暮らし方に言及せずに「こういう家のほうがいい」と断定してしまっていることがある。
施主はこうした言説をうのみにしてはならない。参考程度にとどめておくべきだ。その断定は、筆者が勝手な施主像を描いて一般論化している結果なのである。
腕のいいプロが建てたならば第三者的にはいい家と言ってもいい家ができあがるかもしれないが、その家に住む施主の暮らし方によっては「悪くはないけどしっくりこない家になった」なんてことだってあるのだ。
例えば、私も快適な家を望んだが、重要なポイントは「外が気持ちのいい時には窓を開けたくなる(いい)家」だった(関連エントリ)。
それがもし、「窓を閉めた状態での快適さを保証する(いい)家」を建てられたら、重点がずれて、どこかしらしっくりこなさを感じていただろう。

多くの人が「いい家」と思ってくれそうな家を目指すのではなく、何より自分の家族にとって「いい家」を目指したい。そのために施主は家族の持つ「暮らし方についての知識」をプロにどんどん教えるべきだ。
そしてその「知識」には自信を持っていい。その部分はプロもかなわないのである。


便利な道具の是非論

2005年08月03日 | 家について思ったことなど
ノアノアさんのblogエントリ「カーナビと食洗機」にトラックバック。

便利なモノを使うとき、その使う理由を自覚するという意見に同意。

道具に頼って、安易に「安きに流れる」と人間に備わっていたある能力や機能が退化または消失しかねない。ただし、合理化することによって生じた時間で別の刺激的な体験をするならば、別の能力をのばすことだって考えられる。

モノについての議論で、そのモノの持つ弊害の存在を断固完全否定したり、弊害があることを必要以上にあおって使用させないように導いたりという両極端な人々が議論を不毛化させている例をよく見る。
 是非を論じるのではなく、長所・短所、利点・欠点を洗い出し、使用を検討しているそれぞれの人間のそれぞれの理由で使用するかどうかを決めるべきだと思う。

世の中には、交通機関が発達して歩く必然性が減る一方、体力維持のためにジムでウオーキングするなんてこともある。賢い人は2駅分だけ歩く、なんてことをする。
人によって、どこかにいい落ち着きどころがあるはずだ。

便利な道具を使う意味を自覚していれば、弊害があったとしてもそれをフォローしやすいように思う。