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忘憂之物

高市早苗氏追及の構図崩壊か放送法文書問題、圧力や解釈変更を図った有無が確認されず「謀略な…





例えば、私がセルフサービスのうどん店で天ぷらを落とす。そのまま知らん顔するのも気が引けるので拾ってトレーに戻す。とはいえ、口にするのも抵抗があるから、端に寄せて食べないようにする。うどんを載せて、他の天ぷらも取って皿に載せる。おいなりさんもひとつくらい。そして会計に並ぶ。

店員が気づく前に言うかもしれない。「このカボチャは下に落としてしまって・・・」。

無表情の店員が「ああ、そうですか」と言って会計を続ける。もしくは「あ、それじゃあ、こちらで廃棄しておきます」と下げてくれるかもしれない。その店員がアルバイトではなく、責任者に足る社員などなら商売を優先して「あ、こちらの天ぷらは会計から外しときますね」とか言ってくれるかもしれない。そして、私は言うだろう。「いやいや、自分で落としたんだから払いますよ」。レジの店員はそれでもにこやかに言う。「いえいえ、結構です。ごゆっくり」。なんか悪いね、ありがとう、くらいの感謝を述べてお仕舞いだ。

もちろん、そのままスルーされても普通のことだ。何も言わないどころか、何も思わないと思う。何事もなかったように、というか、何事もなかったんだから、ふつうにうどんを美味しく頂いてから、落とした天ぷらを載せたまま、トレーを返却して店を出るだけのことだ。ここで「サービスが悪いな」とか「こういうのは店が負担するんじゃないの?」とSNSなどでやれば、世間の反応がどういうものになるか、ふつうは想像もつく。

10年ほど前、岩手県の県議が病院にて「番号で呼ぶな」として支払いをせずに病院を出た、と自身のブログで威張っていた。自身のことを何万円も使う上客だ、待たせて番号で呼んで、窓口まで支払いに来いとは何事か、と病院を誹った。ブログの読者には「このブログをご覧の皆さん私が間違っていますか。岩手県立中央病院の対応が間違っていると思いますか!」と問うている。

おそらく、ブログ読者からは賛意を得ると思っていた。周囲からも共感されると思っていた。よくぞ言ってくれたと、勇気ある発信だと、それでこそ民主党員だと、さすがは震災翌年、陸前高田での追悼行事にて、小沢一郎の後姿を写真に撮れたとはしゃいで載せて「祭壇を撮るふりをしてとっさに小沢氏に焦点を当てる。ご本人は祭壇献花後、まもなく退席したので本当にラッキーな写真」とか書くだけのことはある、と持ち上げられると思っていた。

しかし、予想に反して大炎上。マスコミからも玩具にされた挙句、一戸町平糠大志田ダム近くで倒れているところを発見される。死後二日ほど経っていたが、体内からは高濃度のアルコールが検出された。自殺とみられている。ブログも削除して謝罪会見までもしたが、世間は飽きるまで許してくれない。とっくに「プライドお化け」になった自分は、世間から白眼視されて嘲笑されることに耐えられない。だから浴びるほど飲んでダムから落ちて死んだのかもしれない。せめて安らかに眠ってほしいと改めて思う。本当に気の毒な人だった。


「屈服することがない意思」のことをエリッヒ・フロムは「悪性のナルシズム」とした。健全な精神ならば、神や仏、真理でも道理でもよいが、人は自分より優れたモノ、優れた人、優れたコトについて屈服する。自分が真実であってほしいと願うことではなく、明白な真実にこそ屈服する。健全な人なら自分の中にこそ良心があるからだ。

良心は罪悪感に替えてもいい。健全な大人ならば、自分に都合の良い言動だけを取ることの結果、他の誰かが貶められたり、被害を受けたりするなら「罪の意識」が芽生える。もちろん、連中にも芽生えることくらいはあるかもしれないが、それは芽生えるだけのことで、必ず、その敗者は罪悪感になる。「天使と悪魔」の漫才ではないが、常に私やあなたの中でも衝突している。普通、健全な状態なら圧倒的に天使が強い。嘘はいけないとか、盗んだら駄目だとか、ずるいことは恥ずかしいと感じることで、己の身勝手な意思を抑制することができている。人間が本能に従って生きているだけではない証左だ。

真実にも屈服しない。正義にも屈服しない。良心にも屈服しないなら、それはもう傲岸不遜のモンスターになる。一定数、いまのところ少数なのが救いだが、それらは確実にいる。

健全な人らは「なぜこの人は、こんなあからさまな嘘をついて平然としていられるのだろう」と不思議に思う。もしかして嘘だと気付いていないのかな、それほどたくさんお金なんかがもらえるのかな、もしかして誰かに、どこかに脅されているのかしら、と心配までする。

もちろん、そういう人もいるかもしれないが、いま、国会で高市大臣を吊るしている連中は、単なる「プライドお化け」だと思う。間違いも認めない、謝らない、恥も知らない。自分だけが正しくて、自分だけは許されて、自分だけは責任もない。優秀なのも自分。苦労しているのも自分。迷惑しているのも自分。自分自分自分。自分お化けだ。

国会中継を見た人はわかると思うが、あの一連のやり取りをみているご自身の目を思い出してほしい。まるで深夜の歌舞伎町におけるゴミだらけの町を見る目、オラついたチンピラが集団でいちびりながら騒いでいるのを見る目、女性や子供に容赦のない暴力を振るうDV男を見る目などに近い目ではなかったか。つまり、知性の欠片も感じられない、汚らわしく愚かなこと、邪悪で低能なケダモノの所業を見る目である。

高市大臣は健全だから、ちゃんと国会の権威に屈服もする。この部分は撤回します、とか言える。しかし、他の自民党議員のように簡単に邪悪には屈しない。

もう「小西文書」についての云々は必要ない。優秀な人らが「歪な悪意」を木端微塵に砕いている。総務省が出した3月17日の調査結果「作成者および同席者のいずれも、この時期に、放送部局から高市大臣に対して、放送法の解釈を変更するという説明を行ったと認識を示す者はいなかった」「高市大臣から安倍総理又は今井秘書官への電話のいずれについても、その有無について確認されなかった」を出すまでもない。あの立憲民主党議員らの無様な国会質問がすべてだ。実に醜悪で卑怯で、短絡で浅薄な連中だと認識できる。



『子曰く、徳孤ならず、必ず鄰あり』

論語だ。「徳」は孤立しない。必ず、隣に同志がいる。一見すると、高市大臣は自民党内で誰も味方せず、どころか、高市下げに動く連中の企てに曝されているようにもみえる。孤立しているじゃないか、と思うかもしれないが、いま、ここを読んでくれている人の多くはどうだろう。その志の隣にいないだろうか。SNSのアンケートもいくつかみたが、圧倒的に立憲の分が悪い。そらそうだと誰でも思う。健全なのはどちらなのか、子供でも分かる。

立憲民主党は多くのモノ言わぬ日本人を舐めていた。識者の何人かも「私は高市氏支持ではないが」を枕に立憲の無様を質している。世間は相当に憤っている。記事にもあるように特別審議を開いて証人喚問すべき、という声も広がるだろう。

「隣に誰もいないのは誰なのか」。国会が閉じたら目に見えてくる。




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