忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

石原慎太郎氏死去、中国と台湾でも速報。扱いは真逆に

2022年02月02日 | 忘憂之物




親は泣き寄り他人は食い寄り。

不幸があれば「親身に泣いて寄る」のと「他人でメシに寄る」のと分かれる、という意味だが、メシ目当てに寄ったとしても「お悔み」くらいは言うことになっている。故人に対して憎々しく思っていても、お悔やみ申し上げます、くらいの挨拶してメシ喰って帰るのがよろしい。

日本ではあまり「安らかな眠りをお祈り申し上げます」と言うのはいない。これは教会で使う言葉だ。日本の葬儀は過半以上が仏式であるから「ご冥福をお祈りします」が一般的だが、これは仏式に限るから気を付けたい、というか、まあ、普通の常識であれば大丈夫だろう。思ったことを言ってもいい。

思った通りに言わないほうがいいのは、例えば昨日、2月1日付の朝日新聞だ。見出しは

『「外国人が凶悪な犯罪」「参拝して何が悪い」石原慎太郎氏の主な発言』

だった。「死去」とか「逝去」もない。一読、訃報かも不明だ。嬉しすぎて意味が通じない記事を発信している。たぶん、一報が入り、嬉しすぎて失禁したまま書いている。また、中身の記事も途中までしか読めない。有料だからだ。私は朝日に金を払うくらいならトイレに流すが、だから、余計に意味が分からなかった。ま、しかし読む必要もない。石原慎太郎氏の「過去発言」の特集だ。「三国人発言」やらを列挙しているだけだ。どうせネットの「まとめサイト」の劣化版だろう。

「天声人語」も相当らしいが、これまた同じ理由で全部読めない。寂しい話だと落ち込んでいたら、大韓民国を代表する通信社、韓国総合ニュースは「極右妄言製造機が死亡」と報じていた。まったく期待を裏切らない。さすがだ。朝日新聞はもっと真剣に真面目にやってほしい。もちろん読者ではないが、ネタにしてバカにする目的で楽しみにしている人もいるのだ。

それにしても「極右妄言製造機」である。ドラえもんの道具みたいだが、売っていたら欲しいと思ったほどだ。比して人民日報系の環球時報は「右翼の政治屋が死去した」。五輪前だからか、少々、朝鮮半島の南と比して物足りないが、北朝鮮メディアが報じるかもしれないから楽しみにしていよう。

ちなみに台湾のアップルデイリーは「友台人士(台湾に友好的な人物)として知られ、故・李登輝元総統のよき友人だった 」と速報した。どちらが日本国として価値観を共有できるか、どちらの国民性が日本国民に受け入れられるか、まだ、わからないという人は、例えば現在の社民党副党首である大椿裕子 氏とか、政治学者の山口二郎氏などに共感するのだろう。共に今回の訃報を受けてお悔やみ申し上げるどころではなく「批判」をツイートしていた。

社民党の副党首とやらは知らんが、この政治学者の人は有名だろう。2015年にも市民連合主催の抗議デモにおいて、現役の総理大臣に対し「安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる! 」と怒鳴っていた人だ。実に怖い。他にも「日本に生きる人間が人間であり続けたいならば、安保法制に反対しなければならない 」ともやった。

安保法制に反対じゃなければ人間じゃない。つまり、山口二郎氏に「たたき斬られる対象」ということだ。そこをなんとか「二郎無双」だけは勘弁してください、と言いたいところだが、安保法制、というか平和安全法制は国会審議を経て成立しているから、日本人の相当数は人間じゃないことになる。

山口二郎氏を街で見かけたら逃げたほうがいいが、この「死者に鞭打つ」という感覚は頭では理解できるが、心の中で「それはダメだ」と思うなら、それこそが日本人マインド、つまり、日本人としての国民性だ。大切にしたい。

例えば、中国に「清明節 」がある。ま、日本でいうところの「お盆」だ。このときはみんなで墓参り、墓前にて半日くらい宴会をして騒ぐ、という、実に中国らしい文化だが、2019年に中国人の若者が父親の墓を掘り起こし、父親の遺体と共に並んで写真を撮ってSNSに投稿した。芸術で供養とのことだ。

火葬と土葬の差異はあれども、日本人ならどういう反応があるか。ちなみに中国のネット上では「賛否両論」とのことで、評論家などは「今後、マネする若者が出なければいいが」と心配もしていた。すなわち、一定数の理解を得て、一定数が賛同していた。さて、日本で骨壺から父親を出し、標本みたいに並べて写真を撮り、ツイッターにあげて「お父さんの骨骨ロックは骨ロック、と思った方はリツイート」とすればどうなるか。

その結果が想像に難くないなら日本人マインドだが、そもそもの話からして死者を冒涜する、死者に鞭打つ、などこそが、山口二郎氏のいう「にんげんじゃねぇ」との感想に至らないか。あるいは極度の憤怒や歓喜によって「冷静ではない状態」との評価を受ける場合もあると思うが、この「死者に鞭打つ」の由来も同じく、鞭打った理由は民度だけでもなく、極度の感情の高まりの結果であるとわかる。つまり、感情を倫理や道徳よりも優先させて正当化できる。


中国の春秋時代、伍子胥は楚を破り平王に復讐するも父と兄が殺されてから17年が過ぎていた。仇の平王は既に死んでいたが、この墓を掘り起こして鞭で打った。「これに鞭打つこと三百」(史記)とのことだが、伍子胥の親友でもあり、楚の家臣だった申包胥はこの行為に対し「天道に悖る」と批判した。これに対する伍子胥の反論が「われ、日暮れて塗遠し。われ、故に倒行してこれを逆施するのみ 」だった。

復讐することを目的に生きてきたが、仇はもうすでに死んでいるから殺せない。だから、このように逆上して鞭で打っただけだ、くらいの意味になるか。

ま、要するに開き直りの逆切れだ。アチラの人らの原点はこれだ。



ところで、日本でいま「日暮れて途遠し」といえば「やることはまだまだあるのに、年老いてしまって、まだまだ先が見えない」ほどの意味になる。石原慎太郎氏は三島由紀夫が自裁してから45年後となる平成27年、雑誌「Voise」のインタビュー記事にて

「日本の国家としての真の独立を果たす、戦後の虚妄を暴くということは、ささやかながらも積み上げができたと思いますが、自分独りで完成するはずもないし、“日暮れて道遠し”のまま、私は死んでいくんでしょう」

と語っていた。いま、現実となってしまった。



愛国保守の巨匠がまたひとり、先に行った。謹んでご冥福を祈ると共に「途遠し」については、少しだけ、振り返ってみてほしい、とお願いしてみる。


あなたが歩いてきた道、まだ少し続くであろう道、あなたのうしろをよちよちと歩いてきた日本の若者は強くなっております。しっかり歩いてついてきた青年も、成長して逞しくなり、まだ歩いております。先頭の巨星が墜ちても、その次、その次と続いております。どうぞ、ご安心してお休みください。


身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂
吉田松陰 『留魂録』







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