ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「百姓一揆」

2017年08月01日 | 旅の豆知識
 近年、日本の近世にあたる江戸時代に関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、江戸時代のいろいろな足跡を訪ねてみるのも、興味深いものです。
 その中で今日は、あまり旅のテーマとする人が少ない「百姓一揆」について見てみたいと思います。
 旅先で、地方の寺院を訪ねると、墓地に「義民〇〇の墓」というのを見かけることがあります。これは江戸時代の百姓一揆の首謀者の場合が多いのです。当時、一揆は御法度で、首謀者は死罪とされていました。しかし、不作や物価高騰のためやむなく立ち上がり、訴えは聞き入れられたものの、処刑されたケースが多いのです。また、寺社に祀られたり、顕彰碑が建てられたり、資料館がある場合もあります。それらの人々は、義民として、末永く顕彰されて、代々語り継がれていったのです。
 そんな足跡に巡り合ったときは、江戸時代の農民の暮らしぶりやいろいろな思いが交錯して、感慨深いものです。

〇「百姓一揆」とは?
 江戸時代に、農民を中心に徒党を組み、幕府や大名などに対して行なった闘争で、江戸時代を通じて 3,000件以上に及ぶと言われています。その原因は、領主の苛政、検地、年貢増徴、専売制、特権商人の横暴、助郷負担の強化などでした。その形態は、暴動、強訴、越訴、逃散、打ち毀しなど様々でした。

☆「百姓一揆」関連のお勧め

(1)三閉伊一揆の関係地<岩手県下閉伊郡田野畑村>
 三閉伊一揆は、江戸時代後期の1847年(弘化4)および1853年(嘉永6)に南部藩で起きた百姓一揆で、参加者1万6千余、近世最大のものです。南部藩の悪政により、財政は困窮し、東海岸三閉伊通りの海産業に対し重税や御用金を課したことに端を発し、1847年(弘化4)に指導者弥五兵衛は盛岡から来た家老を拒否し、遠野南部家に対して新たに課された御用金の撤廃をはじめとする26ヶ条の要求を提出して一揆が起こります。大挙した農民軍に圧倒された南部藩家老新田小十郎は、善処することを約束しましたが、弥五兵衛は藩の差し向けた刺客に襲われ、囚われた弥五兵衛は打ち首にされたのです。その後も、税を取り立てる役人を増やし、さらにいろいろな物に税をかけ、農民たちの暮らしはいっそう苦しくなるばかりでした。そこで、1853年(嘉永6)、野田の代官所への押し入りを機に、田野畑の畠山太助らを先導者とし、2千人が決起し、再び一揆の狼煙を上げたのでした。そして、仙台藩のはからいで盛岡藩のこれら不始末は江戸へともたらされます。盛岡藩はあわやとりつぶしの形勢から、ようやくにして藩政を改めることになり、かくして一揆は成功に終わったのですが、のちに指導者太助は自害という結末で生涯を閉じます。「田野畑村民俗資料館」には、この一揆の資料、再現模型が展示してあり、一揆を物語にしたマルチスライドを見ることができます。また、資料館のある四方見山には一揆を顕彰する像が立てられ、畠山太助の生家跡にも碑があります。

(2)茂左衛門地蔵尊千日堂<群馬県利根郡みなかみ町>
 沼田藩主真田信利は、凶年続きで困苦のどん底にあえいでいる百姓から苛酷な取立てを行い滞納者には残酷な刑罰に処しました。この惨状を見るにしのびず利根、吾妻、勢多の3郡177ヶ村の領民のために一命を捨てる覚悟で立ち上がったのが月夜野の百姓茂左衛門で、江戸時代中期の1681年(天和元)正月、領主の非行、領民の惨状をしたためた訴状を懐にひそかに江戸に上り、上野輪王寺宮から将軍家へ巧妙な方法で直訴に成功しました。時の将軍(家綱)は取り調べの結果、罪状明確なので伊賀守は改易沼田城破却の運命となりました。茂左衛門は幕吏に捕らえられ江戸送りとなり、取調べの上所成敗となり、1682年(天和2)12月5日月夜野竹の下河原で磔刑に処せられたのです。領民はその死をいたみ刑場跡に地蔵尊を建て供養を続けました。そこに建てられているのが千日堂で、茂左衛門が祀られています。また、磔刑に処せられたところに“義人茂左衛門刑場跡”の碑が立っています。
 
(3)宗吾霊堂<千葉県成田市>
 鳴鐘山東勝寺のことで、義民・佐倉惣五郎の霊が祀られていることからこう呼ばれています。江戸時代前期の頃、佐倉惣五郎は、年貢の取り立てが年々厳しさを増す中で、佐倉藩領を代表して殿様への直訴を申し出ましたが聞き入れられませんでした。さらに、惣五郎は藩主である堀田氏の苛政を、藩や江戸役人、幕府老中にも訴えましたが、これも聞き入れられませんでした。このため、1653年(承応2)、上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴しました。その結果、藩主の苛政は収められましたが、惣五郎は磔となる一方、子供も死罪となってしまったのです。境内には、御廟(佐倉惣五郎父子の墓)や「宗吾霊宝殿」(惣五郎の遺品や関係文書などが展示)があります。また、「宗吾御一代記館」では、惣五郎の生涯を偲び、甚兵衛渡し・妻子との別れ・直訴から処刑に至るまでを人形66体13場面の立体パノラマで展示してあります。北へ2kmほど行ったところには、佐倉惣五郎の旧宅も残されています。

(4)貞享騒動の関係地<長野県安曇野市>
 貞享騒動は、江戸時代中期の1686年(貞享3)に信濃国松本藩で発生した百姓一揆で、中心となった多田加助の名前から、加助騒動とも呼ばれています。この年の安曇平における作柄は、例年と比べて不作だったにもかかわらず、松本藩は年貢を1.4倍以上増やすように命じました。これに対し、多田加助を中心とした同志11名は、松本の郡奉行所へ、年貢の減免を含む5か条の訴状を提出することになりました。この計画が藩内各組に伝わったため、1万とも伝えられる百姓が松本城周辺へ押し寄せる騒ぎとなったのです。藩側は、一端は要求をのむとして引き取らせながら、すぐに年貢減免の約束を反故にし、翌月関係者を捕縛しました。そして、多田加助ら磔8名、獄門20名の極刑に処したのです。騒動の後、年貢の減免は認められなかったものの、元通りにすることにはなりました。その後、犠牲者を義民として顕彰する動きが起こり、加助神社がつくられ、義民塚も設けられました。現在では、「貞享義民記念館」がつくられて、関係資料が展示されています。また、多田加助旧宅跡が長野県文化財に指定されています。

(5)郡上一揆の関係地<岐阜県郡上市>
 郡上一揆は、江戸時代中期の宝暦年間に郡上藩で起きた大規模な百姓一揆です。その結果、郡上藩主金森氏が改易され、幕閣中枢部の老中、若年寄の失脚を招きましたが、一揆の中心人物4名が獄門、次の10名が死罪、その他遠島1名、重追放6名、所払い33名など一揆側も大量処分を受けました。これに関して、郡上八幡城跡には郡上義民顕彰碑、年貢徴収法改正反対の結束を固めた南宮神社、庄屋、組頭が郡上藩側から呼び出された笠松陣屋跡、一揆の中心人物前谷村定次郎や歩岐島村四郎左衛門などの顕彰碑、一揆の中心人物の首が獄門にされた穀見刑場の跡などの関係地が、郡上市内に散在していて、当時の様子をうかがうことができます。

(6)武左衛門一揆の関係地<愛媛県北宇和郡鬼北町>
 武左衛門一揆は、江戸時代後期の1793年(寛政5)に伊予吉田藩(宇和島藩の分家で3万石)で、紙専売制に反対して起こった大規模な百姓一揆です。百姓武左衛門を指導者として、山奥地方8ヶ村の農民が蜂起し、全藩領を巻きこんで宮野下村に出て、さらに宗藩の宇和島藩に訴えるため、同城下に近い八幡河原に参集し、その数は約8千名にまで及びました。伊予吉田藩は家老の安藤継明(儀太夫)が八幡河原に出向き、責任をとって自決し、農民は貢租、専売制、夫役などについて全面的に勝利したのです。しかし、指導者の武左衛門は翌年捕らえられ処刑されました。武左衛門の出身地である日吉村(現在の北宇和郡鬼北町)では、武左衛門ら一揆の主導者を義農として崇敬顕彰していて、済世救民武左衛門及同志者碑(町指定有形文化財)や武左衛門堂(武左衛門の木像を安置)が建てられ、さらに近年「武座衛門一揆資料館」もできたのです。館内では、武左衛門が一揆を起こした経緯から、一揆を大成功に治め刑に処されるまでを、群像やモニターなどを使って分かりやすく展示しています。また隣接して、「歴史民俗資料館」や「大野作太郎地質館」、「明星草庵」、他の施設があります。尚、自決した家老安藤継明も、安藤神社(宇和島市吉田町)に祀られています。。

☆江戸時代の主要な百姓一揆一覧

・1603年(慶長8):滝山一揆<現在の高知県>
・1608年(慶長13):山代慶長一揆<現在の山口県>
・1614年(慶長19):北山一揆<現在の和歌山県・三重県>
・1615年(慶長20):紀州一揆<現在の和歌山県>
・1620年(元和6):祖谷山一揆<現在の徳島県>
・1637年(寛永14):島原・天草一揆(島原の乱)<現在の長崎県・熊本県>
・1652年(承応元):小浜藩領承応元年一揆<現在の福井県>
・1677年(延宝5):郡上一揆<現在の岐阜県>
・1686年(貞享3):貞享騒動(加助騒動)<現在の長野県>
・1690年(元禄3):山陰・坪谷村一揆<現在の宮崎県>
・1722年(享保7):越後質地騒動<現在の新潟県>
・1726年(享保11):美作津山八千人暴動<現在の岡山県>
・1739年(元文4):元文一揆(勘右衛門騒動)<現在の鳥取県>
・1748年(寛延2):姫路藩寛延一揆<現在の兵庫県>
・1753年(宝暦3):籾摺騒動<現在の栃木県>
・1761年(宝暦11):上田騒動<現在の長野県>
・1764年(明和元):伝馬騒動<現在の埼玉県他>
・1768年(明和5):新潟明和騒動<現在の新潟県>
・1771年(明和8):虹の松原一揆<現在の佐賀県>
・1771年(明和8):大原騒動<現在の岐阜県>
・1781年(天明元):絹一揆<現在の群馬県>
・1786年(天明6):宿毛一揆<現在の高知県>
・1793年(寛政5):武左衛門一揆<現在の愛媛県>
・1804年(文化元):牛久助郷一揆<現在の茨城県>
・1825年(文政8):赤蓑騒動<現在の長野県>
・1831年(天保2):長州藩天保一揆<現在の山口県>
・1836年(天保7):天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)<現在の山梨県>
・1838年(天保9):佐渡一国一揆<現在の新潟県>
・1842年(天保12):山城谷一揆<現在の徳島県>
・1842年(天保13):近江天保一揆<現在の滋賀県>
・1847年(弘化4):三閉伊一揆<現在の岩手県>

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