近年、日本の近世にあたる江戸時代に関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、江戸時代の様々な歴史を考えながら、足跡を訪ねてみるのも、結構有意義なものです。
その中で今日は、「近世教育の遺産」について見てみたいと思います。
江戸時代の教育は、諸藩では藩校(会津藩の日新館、米沢藩の興譲館、水戸藩の弘道館、長州藩の明倫館、中津藩の進脩館、薩摩藩の造士館などが有名)、郷学、私塾(廣瀬淡窓咸宜園、シーボルトの鳴滝塾、吉田松陰の松下村塾、緒方洪庵の適塾など)等で行われました。また、一般庶民の個別指導教育として寺子屋(てらこや)がありました。これらは、我が国の学校制度の始まりとされています。
しかし、日本中にあったこれらの近世教育の遺産は、現存するものが少なく、藩校建築や私塾跡が残されているところもありますが、寺子屋の遺構はほとんど残されていません。その中で、いろいろと国内を旅した時に、こういう所にも立ち寄って、近世の教育についても考えてみたいものです。
〇「藩校」とは?
江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設けた藩の直轄学校で、藩学ともいいました。だいたいは、藩の城郭内や城下町等に設置されましたが、一部には江戸藩邸に併設されたものもあります。内容は儒学教育を主としましたが、国学・洋学・医学や武芸などの教授も行われる場合がありました。幕末に向けて開校する藩も結構あり、明治維新当時の 276藩の内 215藩が藩校を開設していたとされています。しかし、1871年(明治4)の廃藩置県により廃止されました。その後、この伝統を受け継いで旧制中学校などが設立され、名称が継承されているところもあります。
〇「寺子屋」とは?
江戸時代に一般庶民のの子弟に読み書き、計算や平易な道徳等を教育した民間教育施設が、寺子屋です。手習所や手習塾とも言われていましたが、江戸では「手習指南所」「手跡指南」等の呼び方が一般的でした。これらの教育の普及により、江戸における嘉永年間(1848~1854年)の就学率は70-86%と高く、当時日本の識字率は世界最高水準にあったと考えられています。
☆「近世教育の遺産」関連のお勧め
(1) 有備館<宮城県大崎市岩出山>
江戸時代に、岩出山伊達家の藩士の子弟を教育する学問所だったところです。この建物は、江戸時代前期の1663年(寛文3)に火災で岩出山城が燃えた後に、借り御殿として建てたものを現在地に移して、使用されてきたと考えられています。庭園は、1715年(正徳5)に仙台藩茶道頭、石州流三代清水道竿が造った池泉回遊式で、池の中に、兜島、鶴島、亀島、茶室のある茶呑島などの小島が浮かんでいました。明治維新後、一部改修されましたが、旧態をよく残しているので、1933年(昭和8)に「旧有備館および庭園」の名称で、国の史跡及び名勝に指定されています。1970年(昭和45)に岩出山伊達家より、旧岩出山町(現在:大崎市)へ移管され、一般公開されています。現在は、その裏手から内川の流れに沿って「学問の道」と名づけられた遊歩道がのびていて、散策することが可能です。
(2) 致道館<山形県鶴岡市>
東北地方に現存する唯一の江戸時代の藩校建造物です。1805年(文化2)に、庄内藩七代目藩主・酒井忠徳によって創設された学問所に始まりますが、当時は現在の鶴岡市日吉町にありました。それを、1816年(文化13)に八代目藩主の酒井忠器によって鶴ヶ岡城三の丸曲輪内の現在地に移されたものです。孔子を祀る聖廟、講堂、御入間、表御門などの建物とその敷地一帯は、1951年(昭和26)に国の史跡に指定されています。内部を見学することができ、当時の藩校の様子を彷彿とさせてくれます。
(3)弘道館<茨城県水戸市>
江戸時代後期に、水戸藩によって作られた藩校で、敷地は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、正庁、至善堂、正門の建物は、1964年(昭和39)に国の重要文化財に指定されていて公開されています。弘道館では藩士とその子弟が学び、学問と武芸の両方が重視されていました。文館では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武館では剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多彩な科目が教えられていたとのことです。館内には、これらの資料も展示されていて、見学できます。
(4)湯島聖堂<東京都文京区>
江戸時代中期の1690年(元禄3)に、江戸幕府五代将軍綱吉は、儒学を振興するため、林家私邸(上野忍岡)にあった孔子廟を移築したのが始まりで、湯島聖堂と呼ばれるようになりました。その後の1797年(寛政9)に、この地に江戸幕府直轄の「昌平坂学問所」が設置され、教学の中心地となったのです。それからも消長を経て、明治維新以後も建物が残され、1922年(大正11)に国の史跡に指定されたものの、翌年の関東大震災で、入徳門と水屋を残し、すべてを焼失してしまいました。現在の建物は、1935年(昭和10)に、寛政時代の建物を模して鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。受験シーズンになると、多くの受験生が合格祈願に来ることでも知られています。
(5)松代藩文武学校<長野県長野市>
松代藩文武学校は、松代藩の八代藩主真田幸貫が藩校の創設を計画し、九代藩主幸教が引き継いで、江戸時代後期の1855年(安政2)に開校したもので、文学所、剣術所、柔術所、弓術所、槍術所などがありました。この学校の特徴は、藩士に対し文武両道をめざし、漢学・国史・剣術・総術・柔術・弓術をはじめ、特に西洋医学・西洋砲術を教育したところで、他の藩校と違って、儒教に重きをおかず、孔子廟がないのです。明治時代以降、昭和初期まで、学校として使用されていたため、藩校敷地や建物がそのまま残っているのが貴重なので、1953年(昭和28)に国の史跡に指定されました。現在は、一般公開されていて、内部を見学することができ、当時の教育の様子を知る手かがりとなります。
(6)進徳館<長野県伊那市高遠町>
江戸時代後期の1680年(万延元)に、高遠藩第8代藩主内藤頼直によって開かれた藩校で、名称は、易経にある「君子は進徳脩業、忠信は徳の進む所以なり」という言葉からとったものです。8 歳から25 歳までの藩士子弟が、和学、漢学、洋学、算法、柔術、兵学などを学びました。廃藩置県により、1872年(明治5)に進徳館は廃止されましたが、その後は、学制発布後の小学校の校舎として使用され、1886年(明治16)まで続きました。江戸時代の藩校の遺構として、貴重なものなので、1973年(昭和48)に、「高頭城址」の一部として国の史跡に指定されました。現在は、一般公開されていて、内部を見学することもできます。
(7)旧閑谷学校<岡山県備前市>
岡山藩によって、江戸時代前期に開かれた庶民のための学校です。現在も建物が残されていて、校地は1954年(昭和29)に国の特別史跡に、講堂は1953年(昭和28)国宝に、それ以外の建物と関係資料4,041点が、1938年(昭和13)国の重要文化財に指定されて、公開されています。隣接して、「閑谷学校資料館」があって、教育関係の貴重な資料を見ることができます。
(8)松下村塾<山口県萩市>
江戸時代後期に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾です。松陰神社の境内には、修復された当時の建物が残り、1922年(大正11)に国の史跡に指定されています。短期間しか存続しませんでしたが、久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など尊王攘夷を掲げて京都で活動した人や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出しましました。境内には、「吉田松陰歴史館」もあって、吉田松陰の足跡を知ることができます。また、2015年(平成27)には、松下村塾を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されています。
(9)咸宜園<大分県日田市>
咸宜園は、江戸時代後期の1805年(文化2)に、儒学者・廣瀬淡窓が長福寺の学寮で開塾したのが始まりです。その後、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、現在地に「咸宜園」が開かれました。全寮制で、身分、学歴を問わずに広く門戸が開放され、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されたのです。明治維新後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。その中には、高野長英(蘭学者・蘭医)、岡研介(蘭医)、大村益次郎(兵部大輔・日本陸軍の創始者)、上野彦馬(日本最初期の写真家)、横田国臣(法律家・検事総長)、清浦奎吾(政治家・内閣総理大臣)などの著名な人々がいます。今でも建物の一部、秋風庵・遠思楼が現存し、江戸時代後期の大規模な私塾の跡として貴重なので、1932年(昭和7)に「咸宜園跡」として国の史跡になっています。また、2015年(平成27)には「近世日本の教育遺産群」のひとつとして日本遺産にも指定されました。2010年(平成22)には、隣接地に「咸宜園教育研究センター」が開館し、咸宜園や廣瀬淡窓、門下生等に関する調査研究と展示を行っていて、見学できます。
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その中で今日は、「近世教育の遺産」について見てみたいと思います。
江戸時代の教育は、諸藩では藩校(会津藩の日新館、米沢藩の興譲館、水戸藩の弘道館、長州藩の明倫館、中津藩の進脩館、薩摩藩の造士館などが有名)、郷学、私塾(廣瀬淡窓咸宜園、シーボルトの鳴滝塾、吉田松陰の松下村塾、緒方洪庵の適塾など)等で行われました。また、一般庶民の個別指導教育として寺子屋(てらこや)がありました。これらは、我が国の学校制度の始まりとされています。
しかし、日本中にあったこれらの近世教育の遺産は、現存するものが少なく、藩校建築や私塾跡が残されているところもありますが、寺子屋の遺構はほとんど残されていません。その中で、いろいろと国内を旅した時に、こういう所にも立ち寄って、近世の教育についても考えてみたいものです。
〇「藩校」とは?
江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設けた藩の直轄学校で、藩学ともいいました。だいたいは、藩の城郭内や城下町等に設置されましたが、一部には江戸藩邸に併設されたものもあります。内容は儒学教育を主としましたが、国学・洋学・医学や武芸などの教授も行われる場合がありました。幕末に向けて開校する藩も結構あり、明治維新当時の 276藩の内 215藩が藩校を開設していたとされています。しかし、1871年(明治4)の廃藩置県により廃止されました。その後、この伝統を受け継いで旧制中学校などが設立され、名称が継承されているところもあります。
〇「寺子屋」とは?
江戸時代に一般庶民のの子弟に読み書き、計算や平易な道徳等を教育した民間教育施設が、寺子屋です。手習所や手習塾とも言われていましたが、江戸では「手習指南所」「手跡指南」等の呼び方が一般的でした。これらの教育の普及により、江戸における嘉永年間(1848~1854年)の就学率は70-86%と高く、当時日本の識字率は世界最高水準にあったと考えられています。
☆「近世教育の遺産」関連のお勧め
(1) 有備館<宮城県大崎市岩出山>
江戸時代に、岩出山伊達家の藩士の子弟を教育する学問所だったところです。この建物は、江戸時代前期の1663年(寛文3)に火災で岩出山城が燃えた後に、借り御殿として建てたものを現在地に移して、使用されてきたと考えられています。庭園は、1715年(正徳5)に仙台藩茶道頭、石州流三代清水道竿が造った池泉回遊式で、池の中に、兜島、鶴島、亀島、茶室のある茶呑島などの小島が浮かんでいました。明治維新後、一部改修されましたが、旧態をよく残しているので、1933年(昭和8)に「旧有備館および庭園」の名称で、国の史跡及び名勝に指定されています。1970年(昭和45)に岩出山伊達家より、旧岩出山町(現在:大崎市)へ移管され、一般公開されています。現在は、その裏手から内川の流れに沿って「学問の道」と名づけられた遊歩道がのびていて、散策することが可能です。
(2) 致道館<山形県鶴岡市>
東北地方に現存する唯一の江戸時代の藩校建造物です。1805年(文化2)に、庄内藩七代目藩主・酒井忠徳によって創設された学問所に始まりますが、当時は現在の鶴岡市日吉町にありました。それを、1816年(文化13)に八代目藩主の酒井忠器によって鶴ヶ岡城三の丸曲輪内の現在地に移されたものです。孔子を祀る聖廟、講堂、御入間、表御門などの建物とその敷地一帯は、1951年(昭和26)に国の史跡に指定されています。内部を見学することができ、当時の藩校の様子を彷彿とさせてくれます。
(3)弘道館<茨城県水戸市>
江戸時代後期に、水戸藩によって作られた藩校で、敷地は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、正庁、至善堂、正門の建物は、1964年(昭和39)に国の重要文化財に指定されていて公開されています。弘道館では藩士とその子弟が学び、学問と武芸の両方が重視されていました。文館では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武館では剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多彩な科目が教えられていたとのことです。館内には、これらの資料も展示されていて、見学できます。
(4)湯島聖堂<東京都文京区>
江戸時代中期の1690年(元禄3)に、江戸幕府五代将軍綱吉は、儒学を振興するため、林家私邸(上野忍岡)にあった孔子廟を移築したのが始まりで、湯島聖堂と呼ばれるようになりました。その後の1797年(寛政9)に、この地に江戸幕府直轄の「昌平坂学問所」が設置され、教学の中心地となったのです。それからも消長を経て、明治維新以後も建物が残され、1922年(大正11)に国の史跡に指定されたものの、翌年の関東大震災で、入徳門と水屋を残し、すべてを焼失してしまいました。現在の建物は、1935年(昭和10)に、寛政時代の建物を模して鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。受験シーズンになると、多くの受験生が合格祈願に来ることでも知られています。
(5)松代藩文武学校<長野県長野市>
松代藩文武学校は、松代藩の八代藩主真田幸貫が藩校の創設を計画し、九代藩主幸教が引き継いで、江戸時代後期の1855年(安政2)に開校したもので、文学所、剣術所、柔術所、弓術所、槍術所などがありました。この学校の特徴は、藩士に対し文武両道をめざし、漢学・国史・剣術・総術・柔術・弓術をはじめ、特に西洋医学・西洋砲術を教育したところで、他の藩校と違って、儒教に重きをおかず、孔子廟がないのです。明治時代以降、昭和初期まで、学校として使用されていたため、藩校敷地や建物がそのまま残っているのが貴重なので、1953年(昭和28)に国の史跡に指定されました。現在は、一般公開されていて、内部を見学することができ、当時の教育の様子を知る手かがりとなります。
(6)進徳館<長野県伊那市高遠町>
江戸時代後期の1680年(万延元)に、高遠藩第8代藩主内藤頼直によって開かれた藩校で、名称は、易経にある「君子は進徳脩業、忠信は徳の進む所以なり」という言葉からとったものです。8 歳から25 歳までの藩士子弟が、和学、漢学、洋学、算法、柔術、兵学などを学びました。廃藩置県により、1872年(明治5)に進徳館は廃止されましたが、その後は、学制発布後の小学校の校舎として使用され、1886年(明治16)まで続きました。江戸時代の藩校の遺構として、貴重なものなので、1973年(昭和48)に、「高頭城址」の一部として国の史跡に指定されました。現在は、一般公開されていて、内部を見学することもできます。
(7)旧閑谷学校<岡山県備前市>
岡山藩によって、江戸時代前期に開かれた庶民のための学校です。現在も建物が残されていて、校地は1954年(昭和29)に国の特別史跡に、講堂は1953年(昭和28)国宝に、それ以外の建物と関係資料4,041点が、1938年(昭和13)国の重要文化財に指定されて、公開されています。隣接して、「閑谷学校資料館」があって、教育関係の貴重な資料を見ることができます。
(8)松下村塾<山口県萩市>
江戸時代後期に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾です。松陰神社の境内には、修復された当時の建物が残り、1922年(大正11)に国の史跡に指定されています。短期間しか存続しませんでしたが、久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など尊王攘夷を掲げて京都で活動した人や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出しましました。境内には、「吉田松陰歴史館」もあって、吉田松陰の足跡を知ることができます。また、2015年(平成27)には、松下村塾を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されています。
(9)咸宜園<大分県日田市>
咸宜園は、江戸時代後期の1805年(文化2)に、儒学者・廣瀬淡窓が長福寺の学寮で開塾したのが始まりです。その後、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、現在地に「咸宜園」が開かれました。全寮制で、身分、学歴を問わずに広く門戸が開放され、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されたのです。明治維新後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。その中には、高野長英(蘭学者・蘭医)、岡研介(蘭医)、大村益次郎(兵部大輔・日本陸軍の創始者)、上野彦馬(日本最初期の写真家)、横田国臣(法律家・検事総長)、清浦奎吾(政治家・内閣総理大臣)などの著名な人々がいます。今でも建物の一部、秋風庵・遠思楼が現存し、江戸時代後期の大規模な私塾の跡として貴重なので、1932年(昭和7)に「咸宜園跡」として国の史跡になっています。また、2015年(平成27)には「近世日本の教育遺産群」のひとつとして日本遺産にも指定されました。2010年(平成22)には、隣接地に「咸宜園教育研究センター」が開館し、咸宜園や廣瀬淡窓、門下生等に関する調査研究と展示を行っていて、見学できます。
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