ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「源平合戦」

2017年08月17日 | 旅の豆知識
 日本の貴族政権から武士政権に移行する過程(古代から中世への移行)に起こった、源氏と平氏の戦いは、「源平合戦」と呼ばれ、昔から、興味を持たれてきましたが、近年、これらの史跡を訪ねる人も増えてきています。
 源氏と平氏の最初は、794年(延暦13)に桓武天皇が平安京に遷都したころまでさかのぼります。源氏で最も勢いが強く、武家の棟梁筋と言われていたのは清和天皇の代から出た清和源氏で、鎌倉幕府を開いた源頼朝はこの系統にあたります。また、平氏の中で最も勢いが強かったのは桓武天皇の代から出た桓武平氏でした。平清盛を中心とした平家は、桓武平氏の一派です。
 有名な『平家物語』は平家一門の栄華から筆を起こしていますが、その後の源平合戦が話の中心で、これを巡ることは必然的に、「源平合戦」の戦跡を回ることになります。前半の源氏の挙兵から京の都へ攻め上るところも興味深いのですが、平氏が都を落ち延びる後半の部分に哀惜があり、西日本にその場面を訪ねて旅した時にとりわけ、「盛者必衰の理」を感じ取ることができます。一ノ谷、屋島、壇ノ浦と平氏が次々と負けて敗走していく情景が走馬燈のように浮かんでくるのです。
 ぜひ一度、『平家物語』を携えながら、これら「源平合戦」の古戦場を巡ってみることをお勧めします。現在でもいろいろな伝承地や陣の跡、その戦いで没した武士の墓などがあって、結構興味深く回ることができます。

〇「源平合戦」とは?
 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになりましたが、この一連の兵士と源氏の戦いが、「源平合戦」と呼ばれています。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

〇『平家物語』とは?
 平清盛を中心とした平家一門の栄華から滅亡までの源平合戦を描いた軍記物語です。歴史的事実を描いた反面、フィクションも盛り込まれていまが、軍記物語中の最高の作品で、日本文学の中でも重要なものです。著者は信濃前司行長で、鎌倉時代前期の成立とされていますが、はっきりしません。盲目の琵琶法師による平曲(平家琵琶)にのせた独特の語りによって、世間に流布され、広く国民の中に浸透していったのです。

☆「源平合戦」関連のお勧め

(1)石橋山古戦場<神奈川県小田原市>
 1180年(治承4)8月に、伊豆に流されていた源頼朝と平氏方の大庭景親らとが戦った石橋山の戦い(源平合戦の一つ)が行われたところです。小田原市南部にあり、この周辺で源頼朝軍300騎と大庭景親ら3,000余騎が戦ったのですが、多勢に無勢で源頼朝軍の大敗に終わり、敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びることになりました。戦いのあった場所に石橋山古戦場の碑が立ち、近くにこの戦いで死んだ佐奈田与一を祀る佐奈田霊社と与一塚や同じく戦死した陶山文三家康を祀る文三堂などがあります。

(2)富士川古戦場<静岡県富士市>
 源平の古戦場の一つで、1180年(治承4)10月に源頼朝・武田信義軍と平維盛軍が、富士川の河口付近で戦ったのです。夜陰に乗じて、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れると、水鳥が反応し一斉に飛び立ちました。これに驚いた平家方は大混乱に陥って、敗走したといわれています。古戦場跡の伝承地には、「平家越」の碑(静岡県富士市)が建てられました。また、戦の後で、離れ離れになっていた源頼朝と義経の劇的な対面があったと言われ、その伝承地である黄瀬川八幡神社(静岡県駿東郡清水町)に対面石があります。
 
(3)倶利伽羅峠古戦場<石川県津幡町・富山県小矢部市>
 源平の古戦場の一つで、1183年(寿永2)5月に源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われました。この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという奇策を行い、平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅し、平維盛は命からがら京へ逃げ帰ったとされています。周辺には、平維盛の本陣が置かれた猿ヶ馬場や倶利伽羅不動寺、五社権現、源平供養塔などがあります。

(4)一ノ谷古戦場<兵庫県神戸市須磨区>
 言わずと知れた源平の古戦場で、1184年(寿永3)2月に源義経・範頼軍が再挙を計った平氏軍を一ノ谷に襲い、海上に敗走させた戦いで、義経の鵯越の奇襲戦法が知られています。また、須磨海岸の波打ち際での平敦盛と熊谷直実一騎打ちによって打たれた敦盛の話は、「平家物語」中でも最も悲しく哀れを誘う場面として有名です。須磨寺には敦盛愛用の青葉の笛、合戦時に弁慶が安養寺から長刀の先に掛けて担いできて陣鐘の代用にしたという弁慶の鐘などの宝物があります。また、境内には、敦盛の首塚、義経の腰掛け松などの史跡があり、古来から「平家物語」を偲んで文人墨客が訪れている所です。それを示すように松尾芭蕉、正岡子規、与謝蕪村、尾崎放哉などの句碑や歌碑が建てられています。須磨浦公園には、敦盛塚や源平合戦800年記念碑などあって当時の合戦を思い出させてくれます。

(5)屋島古戦場<香川県高松市>
 1185年(文治元)2月、屋島に留まっていた平氏軍を源頼朝軍が急襲し、海上に追いやった戦いの場所です。ここでは、那須与一が、船上の扇の的を射抜いたことで有名ですが、屋島からは瀬戸内海と古戦場が一望でき、屋島寺などに遺跡や遺品が残されていて、この合戦の情景を思い浮かべるには最適の場所です。また、周辺には、菊王丸の墓、佐藤継信の碑、駒立岩、祈り岩、義経由美流し跡、義経鞍掛松、獅子の霊巌、射落畠などの伝承地が残されています。

(6)壇ノ浦古戦場<山口県下関市>
 1185年(文治元)3月に、平氏軍と源義経を総大将とする源氏軍が戦い、平家滅亡となった最後の一戦が行われた場所です。この時に、幼い安徳天皇は母の平徳子と共に船から海に飛び込みましたが、徳子だけが助けられました。下関市には安徳天皇を祭った赤間神宮があり、この合戦で亡んだ平家一門の墓があります。有名な耳なし芳一の話もここを舞台にしたものです。また、隣接して、安徳天皇阿弥陀寺稜もあり、毎年、5月2日の安徳天皇の命日より3日間に亘って、先帝祭も行われています。

☆源平合戦関係の年表

<1156年(保元元)>
 ・保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
 ・崇徳上皇は讃岐に流される
<1159年(平治元)>
 ・平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び藤原信西を殺害し、さらに平清盛と六条河原で戦うが敗北して、信頼は斬首される
<1160年(永暦元)>
 ・源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される
 ・源頼朝が、伊豆へ流される
<1167年(仁安2)>
 ・平清盛が太政大臣に就任する
<1170年(嘉応2)>
 ・藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される
<1172年(承安2)>
 ・平徳子が、高倉天皇の中宮となる
<1177年(治承元)>
 ・鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する
<1179年(治承3)>
 ・平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる
<1180年(治承4)>
 ・以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出し、源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
 ・平家、福原遷都を強行する
 ・源頼朝が、伊豆で挙兵するものの、石橋山の戦いで敗れる
 ・源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
 ・源(木曽)義仲が挙兵する
 ・富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
 ・源頼朝が、鎌倉に侍所を設置する
 ・平重衡が、東大寺・興福寺を焼く
<1181年(養和元)>
 ・平清盛が病没する
<1183年(寿永2)>
 ・倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
 ・木曽義仲が、京都に入る
 ・源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する
<1184年(寿永3)>
 ・宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
 ・一の谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
 ・源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する
<1185年(寿永4)>
 ・屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
 ・壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、平氏は滅亡する
 ・源頼朝が、諸国に守護・地頭を設置する
 ・源義経と源頼朝の対立が始まる
<1187年(文治3)>
 ・源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
 ・藤原秀衡が病没する
<1189年(文治5)>
 ・衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
 ・源頼朝が、奥州を平定する

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