ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「元寇」

2017年08月10日 | 旅の豆知識
 近年、日本の中世に、関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、この時代のいろいろな史跡を訪ねてみるのも、とても興味深いものです。
 その中で今日は、旅のテーマとしてこの時期の「元寇」について見てみたいと思います。
 鎌倉時代に、中国に於いて大帝国となった元から、服属を求める使者が何度か来日し、鎌倉幕府がそれにあたりましたが、服属を拒否したため、元軍の襲来を受けることになりました。それは、1274年(文永11)の文永の役、と1281年(弘安4)の弘安の役と2回ありましたが、いずれも元軍が敗退して、退散したのです。しかし、このことは鎌倉幕府の勢力を弱め、幕府滅亡へとつながっていきます。
 とても興味深い歴史ですが、北部九州や壱岐・対馬などを旅すると結構、元寇関係の遺跡に巡り合うこともあり、いろいろと考えさせられるところです。歴史上の一大事件でしたので、ぜひ心がけて訪ねてみてはいかがでしょうか。

〇「元寇」とは?
 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。
 1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んでいます。台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。
 2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになりました。やむを得ず幕府は徳政令を発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆「元寇」関連のお勧め

(1)対馬島<長崎県対馬市>
 対馬島の西南側の海岸線に出ると小茂田の元寇古戦場があります。小茂田浜神社に立ち寄りましたが、ここには、1274年(文永11)の元寇の文永の役において、戦って散った対馬守護代の宗助國が祀られていました。なんでも、元の大軍3万人に対して、たった80騎で立ち向かって討ち死にしたと書かれていました。

(2)壱岐島<長崎県壱岐市>
 玄界灘に浮かぶこの島は、鎌倉時代中期の元冦の悲劇を背負っています。元の大軍に攻められ、わずかばかりの武士団の奮闘むなしく、全滅しました。島民もほとんどが虐殺されたと伝えられています。まず、小弐公園へ行きましたが、ここは、1281年(弘安4)の弘安の役の激戦地で、当時の守護代小弐資時の墓があります。まだ19歳の若者だったそうですが、先頭になって戦い、全員討死したとのことです。次に、元寇千人塚にも立ち寄りましたが、こちらは1274年(文永11)の文永の役の方の古戦場とのことでした。近くに新城神社があって、ここには文永の役当時の守護代平景隆の墓がありました。これ以外にも古戦場や塚があり、全島外敵からの侵略の歴史といった感じで、そのたびに多くの武士や島民が犠牲になったと聞きました。その墓石や碑に悲哀を感じざるを得ませんでした。
 
(3)鷹島<長崎県松浦市>
 この島は2度の元寇と深いかかわりを持っています。1274年(文永11)の文永の役では、元軍が鷹島に上陸して住民を虐殺しています。また続く、1281年(弘安4)の弘安の役では平戸島から鷹島に進出してきた元軍に対して、集結した日本軍が攻撃を仕掛けて海戦(鷹島沖海戦)となりました。この際に沈没した元軍船を巡って水中考古学の立場から調査が行われ、パスパ文字で作成された「管軍総把印」を始め船舶に関する遺物や武器・武具などが多く発見されており、遺物がある南岸一帯は埋蔵文化財包蔵地として登録されています。その一部は、「松浦市立鷹島歴史民俗資料館」や「鷹島埋蔵文化財センター」で見ることができます。

(4)筥崎宮<福岡県福岡市東区>
 鎌倉時代の元寇の際には、敵国降伏の神として崇められましたが、これによって社殿を焼失したため、1275年(建治元)社殿を再建して正遷宮を行い、亀山上皇が祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられたことで有名です。この神社(旧官幣大社)の祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫命で、筑前国一宮として知られています。759年(天平宝字3)八幡神の神託を受け「しるしの松」の下に社殿が造営されたと伝えられる古社で、『延喜式神名帳』には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載されているのです。また、921年(延喜21)宇佐八幡宮を勧請し鎮座したとも伝えられています。宇佐神宮・石清水八幡宮と並び天下三大八幡といわれました。現在の本殿・拝殿は1546年(天文15)、楼門は1594年(文禄3)の再建で、いずれも国の重要文化財に指定されています。正月3日に行われる玉取祭は有名です。尚、境内に蒙古軍船の碇石(県指定文化財)が置かれています。

(5)元寇史料館<福岡県福岡市博多区>
 ここは、1904年(明治37)に「元寇記念館」として設立されましたが、これを東公園内の日蓮上人銅像護持教会敷地に移築して、1986年(昭和61)に「元寇資料館」として再オープンしたのものです。館内には、元寇(文永の役・弘安の役)に関する両国の武具(モンゴル型の鎧など)や元寇に関する芸術品(矢田一嘯作の元寇絵など)、日蓮宗史、江戸期の刀剣、火縄銃などの展示があります。

(6)元寇防塁跡<福岡県福岡市>
 元寇防塁跡(げんこうぼうるいあと)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた防塁の跡で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名です。1274年(文永11)に、第1回元寇(文永の役)にあった鎌倉幕府は、翌年から異国警護のために元寇防塁(石築地)を築造させました。総延長は約20kmに及んだとされ、1281年(弘安4)の第2回元寇(弘安の役)の際には、役に立ったということです。年代を経て風化が進み、地中に埋もれているところもありますが、今津地区(西区)、西新地区(早良区)、地行地区(中央区)、地蔵松原地区(東区)をはじめ、9地区に防塁が残っていて、1931年(昭和6)に国の史跡に指定され、1981年(昭和56)に追加指定がありました。

☆元寇関係の年表

<1266年(弘長元)>
 ・ 蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した。
<1268年(文永5)>
 ・1月 蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した。
<1269年(文永6)>
 ・2月 蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した。
 ・9月 拉致した対馬の住民を護送する使者が対馬を訪れる。
<1274年(文永11)>
 ・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する。
 ・10月5日 対馬に上陸して、多くの島民を殺害する。
 ・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する。(文永の役)
<1275年(建治元)>
 ・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる。
 ・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する。
<1281年(弘安4)>
 ・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する。
 ・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける。
 ・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する。
 ・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する。
 ・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する。
 ・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する。
 ・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する。
 ・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する。
 ・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する。
 ・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する。
 ・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する。(弘安の役が終わる)

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旅の豆知識「中世城郭跡」

2017年08月09日 | 旅の豆知識
 近年、日本の戦国時代から安土桃山時代の群雄割拠から天下統一期に、関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、この時代のいろいろな史跡を訪ねてみるのも、面白いものです。
 その中で今日は、旅のテーマとしてこの時期の「中世城郭跡」について見てみたいと思います。
 戦国時代以前の中世の城は山城といわれ、数十から数百m位の山の上に作られた、防御的機能に重点を置いたものが多く、城下町の発達も余りみられませんでした。また、天守閣というような大きな建物もなく、現在の遺跡としてもあまり見るべきものが残っていません。しかし、土塁や堀跡、建物跡等を見ると当時の城郭がよみがえってくるようなところもあり、興味深いのです。最近話題となっている「日本のマチュピチュ」と呼ばれる天空の城・竹田城跡(兵庫県朝来市和田山町竹田)も中世の城郭跡です。また、近年中世城郭跡を復元しようという動きがあり、塀や櫓などの一部が木造で復元されている所もあります。

☆「中世城郭跡」関連のお勧め

(1)逆井城跡公園<茨城県坂東市>
 ここは、戦国時代の末期に後北条氏が常陸、下野方面へ侵攻するための最前線基地として築いた城で、茨城県の史跡に指定されています。現在は、計画的な発掘調査と本格的な保存・復元整備事業により、「逆井城跡公園」として、多くの建築遺構が再現されました。櫓、土塀、櫓門、木橋などが復元されていますが、これらは発掘調査に基づいた時代考証を行い復元されたものです。中世城郭の姿を可能な限り忠実に基づいて再現しているので、戦国時代の城郭の様子を知る上では、貴重なものです。

(2)鉢形城跡<埼玉県大里郡寄居町>
 ここは、室町時代~戦国時代の城跡で、平安末~鎌倉初期に築かれたという伝承もありますが、史料的には、1473年(文明5)から翌々年にかけて長尾景春が築城したとされています。その後間もなくして、山内上杉氏の城となりますが、1546年(天文15)の「河越夜戦」で北条氏が勝って、この地域の支配権が移りました。1564年(永禄7)には、北条氏邦が入城し、城の大改修が行なわれ、北条氏の北関東支配の拠点として、現在のような広大な城に拡張されました。1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めでは、豊臣方の前田利家、上杉景勝らの連合軍3万5千人に攻められ、北条方3千人が籠城戦を行いましたが、約1ヵ月後に降伏・開城し、その後は廃城となったのです。この城の北西側は荒川に面した高さ100mほどの断崖で、深沢川がつくる深い谷に背後と前面をはさまれた天然の要害となっていました。構造は連郭式平山城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、諏訪曲輪、秩父曲輪、外曲輪などが配され、土塁と堀で区切られています。この遺構が良く残っているので、1932年(昭和7)には、国の史跡に指定されました。現在は鉢形城公園として整備され、特に、三の曲輪では戦国時代の築城技術を今に伝える石積み土塁や四脚門、池などが復元され、園内の「鉢形城歴史館」では、この城の史料や出土物などを保存展示し、往時の姿が紹介されています。

(3)一乗谷朝倉氏遺跡<福井県福井市>
 戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡です。一乗谷城と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなります。遺跡全体(面積278ha)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けています。また、発掘結果や史料等を参考に200mにわたって当時の町並みが復元され、公開されていて、戦国時代の城下町を知る上ではとても貴重です。何度も来訪しているのですが、年々遺跡の発掘が進み、以前なにもなかったところに戦国時代の町が復元されているのです。前に来たときには、遺跡の跡だけを見て、ここにどんな人々が生活し、どんな建物があったのだろうかと想像していたのですが、当時の武家屋敷や町屋が立体復元されていて、生活の様子が一部再現されていました。江戸時代の建物や集落を復元しているところは結構あるのですが、戦国時代は極めて少なく、貴重なものです。武家屋敷の中で、人形が2人で将棋を指している様子も復元されていてとても面白かったです。実は、この遺跡からは多数の将棋の駒が発掘されていて、当時から将棋を楽しんでいたことが分かったとのことです。私は、歴史も将棋も好きなのでとても興味深かったのです。近くには「福井県立一乗谷朝倉氏資料館」があって、出土品や一乗谷についての展示があります。
 
(4)大高城跡<愛知県名古屋市緑区大高町>
 中世の城跡で、築城年代は定かではありませんが、南北朝時代には、池田頼忠が城主を務め、戦国時代の永正年間(1504~21年)に花井氏、天文・弘治年間(1532~58年)には水野忠氏が居城したと伝えられています。織田信秀の支配下にあった1548年(天文17)に、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めましたが、落とすことができず政兼は戦死しました。しかし、信秀の死後は、息子の織田信長に背いた鳴海城主山口教継の調略で、この城は沓掛城とともに今川方の手に落ちてしまったのです。これに脅威を感じた織田信長は、牽制するために近くに丸根砦、鷲津砦を築きました。1559年(永禄2)には、今川義元の命をうけ朝比奈輝勝が大高城の守りに入り、翌年には、包囲網を破って、今川義元の妹婿である鵜殿長照が守備につきました。しかし、糧道を絶たれそうになった中で、松平元康(後の徳川家康)が、織田方の隙をついて敵中を突破して兵糧を入れ、大高城を守ったのです。ところが、1560年(永禄3)5月19日(新暦6月12日)の桶狭間の戦いにより今川義元が討ち死にして今川方が負け、松平元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田方のものとなりました。その後まもなくして、廃城となりましたが、尾張藩家老の志水家が、1616年(元和2)にここに館を設けてから代々住むようになったのです。その館も1870年(明治3)に売却されました。その後も曲輪と堀が残されていて、1938年(昭和13)に「大高城跡 附丸根砦跡 鷲津砦跡」として国の史跡に指定され、現在は「大高城址公園」として整備されています。

(5)月山富田城跡<島根県安来市>
 月山富田城の築城は、平安時代後期に遡るとされていますが、以後、この地を治めた守護の拠点となり、佐々木氏、塩冶氏,山名氏などが居城としました。なによりも有名なのは、戦国時代170年間(1396年~1566年)に渡って、山陰の覇者尼子氏の本拠となったことです。尼子氏滅亡後は毛利氏の手に渡り、関ヶ原の戦いの後は、 堀尾吉晴が出雲・隠岐24万石の大名として入場しましたが、1611年(慶長16)、松江城に移ったため、廃城となりました。この城は、月山(標高197m)に営まれた天然の要害で、「天空の城」とも呼ばれていました。1934年(昭和9)、国の史跡に指定され、石垣や石畳の古道が整備され、花ノ壇には、建物も一部復元されていて、山中鹿介の銅像や供養塔と共に戦国時代の面影を偲ばせてくれるところです。

(6)今帰仁城跡<沖縄県国頭郡今帰仁村>
 ここは、中世の城跡ですが、旧琉球王国の領域にあった奄美・沖縄諸島では、「城」を「グスク」または「グシク」と呼んでいます。これは、城郭としての役割だけでなく、石囲の聖地でもあって、祖霊神ニライカナイの拝所、村落共同体の御嶽でもあると考えられています。この城は、13世紀末ごろから築城が始まったと考えられ、三山分立時代(北山・中山・南山)の北山王の城でした。しかし、1420年前後に尚巴志によって北山が滅ぼされた後は、統治のため監守が派遣されるようになり、1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残されたのです。標高約100mに位置し、範囲は南北約350m、東西約800mにも及び、堅牢な石垣を有して、本丸・二ノ丸・北殿跡など10もの郭からなる複雑な構造で、面積は約3万7千平方mあります。1972年(昭和47)に、国の史跡に指定されると、石垣も整備され、2000年(平成12)には、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されています。尚、2006年(平成18)に、日本100名城に選定されました。

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旅の豆知識「一向一揆」

2017年08月08日 | 旅の豆知識
 近年、日本の戦国時代から安土桃山時代の群雄割拠から天下統一期に、関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、この時代のいろいろな史跡を訪ねてみるのも、面白いものです。
 その中で今日は、旅のテーマとしてこの時期の「一向一揆」について見てみたいと思います。
 室町時代には政治が乱れ、土一揆、一向一揆、国一揆など全国で民衆の抵抗がおこり、特に、近畿地方では国一揆、土一揆が頻発し、借金を棒引きにする徳政令が出されたりしました。この地方では当時から続く、寺院を中心に周辺に壕や土塁をめぐらした寺内町の遺構を見いだすことができます。また、加賀国では一向一揆が守護大名富樫氏を排除して、100年に渡って自治を守りました。北陸地方を旅すると、今でも浄土真宗(一向宗)関係の史跡が多くあります。
 この時代に、門徒を中心とした民衆がなぜに大きな力を持ちえたのが、とても興味深いところです。中部地方から近畿地方にらかけて旅するとそんな史跡に巡り合う機会も多いかと思います。ぜひ心がけて訪ねてみてはいかがでしょうか。

〇「一向一揆」とは?
 一向一揆は、室町時代から戦国時代にかけて、北陸・近畿・東海などの各地で、浄土真宗(一向宗)門徒が起こしたものです。特に、本願寺第8世蓮如の出現によって,僧侶、門徒の農民を中心に、名主・地侍が連合して、守護大名や荘園領主と戦いました。1488年(長享2)に、加賀国の守護富樫氏を倒し100年近く加賀一国を支配した加賀一向一揆や,徳川家康・織田信長と戦った三河一向一揆,伊勢長島一揆が有名ですが、1580年(天正8)の石山本願寺に対抗する織田信長勢との石山合戦を最後に幕を閉じました。

☆「一向一揆」関連のお勧め

(1)鳥越城跡<石川県白山市>
 加賀国では一向一揆が守護大名富樫氏を排除して、100年に渡って自治を守りましたが、織田信長の軍勢に攻められ、鳥越城が最後の拠点として戦いました。最後は、織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が磔に処せられた言います。加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓門徒たちの記録として歴史上の意義をもつので、国の史跡に指定されています。現在では、石垣や塀、建物の一部等が復元されていて、見学することができます。また、山麓の道の駅「一向一揆の里」には、「鳥越一向一揆歴史館」が併設されていて、加賀一向一揆の資料や鳥越城跡の発掘品などが展示され、興味深く学ぶことができます。

(2)吉崎御坊跡<福井県あわら市>
 吉崎御坊は、室町時代の1471年(文明3)に、本願寺第8世の蓮如上人が創建しました。浄土真宗(一向宗)布教の北陸の拠点となり、一山隆盛を極めましたが、1474年(文明6)に火災で本坊などを焼失し、さらに翌年の戦火によって、すべてを失って、蓮如上人は吉崎を退去することになります。その後、一向宗は大きな力を持つようになり、ついに一向一揆として、1488年(長享2)に、守護富樫氏を追い出して、加賀一国を支配するようになります。しかし、1506年(永正3)に、一向一揆勢は朝倉貞景と争って敗北し、吉崎御坊は廃坊となりました。山上の吉崎御坊跡は、1975年(昭和50)に国の史跡に指定され、公園として整備されていて、吉崎御坊跡の石碑が立ち、御坊の本堂跡、蓮如上人銅像(高村光雲作)、蓮如上人御腰掛石などがあります。また山麓に、本願寺維持財団が運営する「吉崎御坊蓮如上人記念館」があって、蓮如上人の足跡を学ぶことができます。
 
(3)本証寺<愛知県安城市>
 浄土真宗の寺で、上宮寺、勝鬘寺と並んで三河触頭三ヶ寺として知られ、戦国時代には三河一向一揆の拠点となり、徳川家康と敵対し、1563年(永禄6)から翌年にかけて戦いました。こうした経緯から、櫓のような鼓楼・鐘楼や土塁を備え、水濠に囲まれた城郭寺院(城郭伽藍)となっています。 現在でも、境内は城郭伽藍の遺構が良好に保存されているので国指定の史跡となっていますし、本堂は愛知県指定有形文化財です。

(4)願証寺・長島城跡<三重県桑名市>
 願証寺は、伊勢国桑名郡長島(現在の三重県桑名市)にあった浄土真宗の寺院で、長島一向一揆の拠点となりました。この一揆は、1570年(元亀元)頃から1574年(天正8)にかけて戦われた、石山合戦に伴なって、伊勢長島を中心とした一向一揆で、激しく織田信長と対峙しました。1571年(元亀2)、1573年(天正元)、1574年(天正2)と三度に渡る合戦が起こり、織田信長方は苦戦し、氏家卜全、林通政、織田秀成(織田信長の弟)などの有力武将が討ち死にします。しかし、最後には、長島城に立て籠もった一揆勢を追い詰め、皆殺しにして終わりました。願証寺は、その後再興され、河川改修のため現在地に移転しましたが、1975年(昭和50)に、一向一揆の400年の追悼法要がここで行われ、境内に“長島一向一揆殉教の碑”も建立されました。また、長島城の跡は、長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われましたが、東側に石垣および堀が残り、本丸の南西隅にあった樹齢300年以上の黒松があり、案内板も立てられています。

(5)山科本願寺跡<京都府京都市山科区>
 山科本願寺は、戦国時代に、山科(現在の京都市山科区)にあった浄土真宗(一向宗)の寺院です。本願寺第8世法主蓮如が、1475年(文明7)に吉崎御坊を去り、近畿の布教に従事した後、1478年(文明10)に山科野村に坊舎の造営をはじめ、5年をかけて完成しました。周囲には、堀と土塁を築いて、御本寺・内寺内・外寺内の3郭を持ち、8町の寺内町も形成していたのです。しかし、1532年(天文元)に、細川晴元・六角定頼・京都の法華一揆の連合軍と一向一揆との間で、山科本願寺の戦いが起こり、堂舎が焼かれて、本願寺は大坂の石山に移されました。その後廃墟となっていましたが、江戸時代中期の1732年(享保17)に、その跡地に山科別院が建てられたのです。近くに蓮如(8世)、実如(9世)、証如(しょうにょ)(10世)の墓があり、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園に残っていて、2002年(平成14)に、「山科本願寺南殿跡 附 山科本願寺土塁跡」として、国の史跡に指定されました。

(6)石山本願寺跡<大阪府大阪市>
 石山本願寺は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、大坂にあった浄土真宗(一向宗)の寺院で、1533年(天文2)に浄土真宗の本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となり、各地の一向一揆とも連携しました。しかし、織田信長との間で石山合戦が戦われ、その結果、1580年(天正8)に顕如が明け渡し、その直後に焼亡しました。その跡は、大阪城周辺にあったとされていますが、諸説あり、現在はその推定地(大坂城二の丸の修道館の東)に石碑が立っています。また、蓮如上人袈裟懸けの松根(大坂城二の丸)などの伝承地も残されています。

☆一向一揆関係の年表

・1465年(寛正6)近江金森一揆が始まる
・1467年(応仁元)応仁の乱が始まる
         近江金森一揆が終わる
・1471年(文明3)蓮如、吉崎に滞在し、浄土宗派を統轄
・1474年(文明6)加賀一向一揆(文明一揆)、加賀守護富樫家の家督争いに介入し、1480年まで政親を支援する
・1477年(文明9)応仁の乱が終わる
・1481年(文明13)越中一向一揆、国人領主石黒氏を倒す
・1488年(長享2)加賀一向一揆(長享一揆)、富樫政親を高尾城に滅ぼす
・1493年(明応2)細川政元、将軍義稙を追放、義澄を擁し自ら管領となる
・1506年(永正3)畿内・北陸の大一揆が蜂起、越前朝倉氏(朝倉氏)と戦って敗北する
         越中一向一揆、越後守護代長尾能景を敗死させる(永正一揆)
・1531年(享禄4)大小一揆(享禄錯乱)、大一揆勝利する
・1532年(天文元)天文畿内一揆、堺に三好元長を討つ
・1535年(天文4)細川晴元、本願寺と和議をする
・1563年(永禄6)三河一向一揆が徳川家康と戦い始める
・1564年(永禄7)三河一向一揆が徳川家康に屈服する
・1570年(元亀元)石山戦争が開始される
         伊勢長島一向一揆が起こり、小木江城を攻め織田信興を自害させる
・1572年(元亀3)越前一向一揆、一国支配を実現する
・1573年(天正元)伊勢長島一向一揆が織田軍を退け、氏家卜全を敗死させる、
・1574年(天正2)伊勢長島一向一揆が織田信長に敗れる
・1575年(天正3)越前一向一揆が織田軍に敗北する
・1577年(天正5)紀伊雑賀衆、織田信長に屈服する
・1580年(天正8)顕如が織田信長と和議し、石山戦争が終結する
         加賀一向一揆が織田軍の柴田勝家に平定される

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旅の豆知識「古戦場」

2017年08月07日 | 旅の豆知識
 近年、日本の戦国時代から安土桃山時代の群雄割拠から天下統一期に、関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、この時代のいろいろな史跡を訪ねてみるのも、興味深いものです。
 その中で今日は、旅のテーマとしてこの時期の「古戦場」について見てみたいと思います。
 戦国時代から安土桃山時代にかけては、戦国大名間で、あるいは、家臣が主家を倒すような合戦が日本中で行われました。また、土一揆、一向一揆、国一揆など全国で民衆の抵抗がおこり、戦国大名と対峙した場合もあります。
 そのような中で、徐々に有力な戦国大名による天下統一の方向へと向かっていくことになります。
 その場合には、楽市楽座や関所の廃止、治山治水、鉱山開発など経済の発展や民衆の期待を担えるような戦国大名が勝ち残っていくことにもなりました。
 戦国時代から安土桃山時代にかけての古戦場は、日本中にありますが、石碑があるだけで、目ぼしいものが残っていない場合もあります。しかし、本陣や砦の跡とか、死んだ武将の墓や首塚とか、激戦地の跡とか、いろいろ巡ってみると自ずと戦いの様子が目に浮かんできたりします。また、死者の血で川が真っ赤になったとか、亡霊が出るようになったので鎮めたとかの伝説が残っていたりします。
 残酷な戦場の跡ではありますが、人間の歩んできた歴史を振り返るという点で、そういう史跡を巡って、その時代に思いを馳せることも必要なことのように思えるのです。

☆「古戦場」関連のお勧め

(1)三増峠の古戦場<神奈川県愛甲郡愛川町>
 1569年(永禄12)に、相模国三増峠付近(神奈川県愛甲郡愛川町)で、約2万人の武田信玄軍と約2万人の北条氏照・氏邦軍により行われた合戦で、武田信玄軍が勝利しました。序盤では、武田軍が苦戦し、武田の将浅利信種が戦死したりしましたが、最後は北条軍が総崩れとなって退却したのです。武田軍も勝利後は、兵をまとめて甲府へ戻っていきました。現在では、合戦の行われたと考えられる場所に三増合戦場の碑と慰霊碑が立ち、近くには、戦死した武田の将浅利信種を弔っている浅利明神、首塚、胴塚等があり、ゴルフ場の上の方に武田信玄が本陣を置いたと言われる旗立て松の碑があります。

(2)川中島古戦場<長野県長野市>
 越後の上杉謙信軍対甲斐の武田信玄軍による川中島の戦いは、1553年(天文22)から 1564年(永禄7)までに、主なものは、①1553年(天文22)、②1555年(天文24)、③1557年(弘治3)、④1561年(永禄4)、⑤1564年(永禄7)の5回あったとされていますが、その4回目の1561年(永禄4)の合戦(八幡原の戦い)が一番有名で、武田軍2万と上杉軍1万2千が激突しました。武田軍は信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなどして序盤劣勢でしたが持ち直し、結局この戦いによる死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、上杉軍は越後へ引き上げることになります。現在は、武田軍が本陣を置いたとされる場所が、八幡原史跡公園となっています。その周辺には、首塚や信玄・謙信両雄一騎討ちの像、「三太刀七太刀跡」の石碑、執念の石、逆槐などがあり、公園の一角に「長野市立博物館」があって、川中島合戦のことも展示されているのです。また少し離れて、典厩寺(信玄の弟・典厩信繁の墓がある)、山本勘助の墓、胴合橋、赤川の碑 などもあり、巡ってみることができます。
 
(3)三方ヶ原の古戦場<静岡県浜松市北区>
 これは、1573年(元亀3)に、三方ヶ原で起こった、武田信玄軍と徳川家康・織田信長連合軍との間で行われた戦いです。武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えており、徳川軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まりましたが、武田信玄軍が勝利しました。徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ帰ったといわれています。現在では、三方原霊園の駐車場の一角に三方原古戦場の碑が立っており、少し北に行ったところに武田信玄が本陣を置いたといわれる根洗松跡がありました。また、多くの戦死者が出た犀ヶ崖古戦場には、史跡碑と宗円堂があります。宗円堂は三方ヶ原の戦いにおいて両軍の死者を祀るために建てられたお堂で、現在は犀ヶ崖資料館となっています。ここには、その戦死者を供養するために始まったといわれる遠州大念仏や、三方ヶ原の戦いに関する資料が展示されていて興味深いです。

(4)長篠の戦い関係古戦場<愛知県新城市>
 長篠の戦いは、1575年(天正3)に、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍38,000人と武田勝頼軍15,000人との間で勃発した戦いで、織田・徳川連合軍が勝利し、敗北した武田軍は甚大な被害を受けました。決戦地は、設楽原で、武田の騎馬隊に対して、織田・徳川連合軍は、馬防柵を作り、鉄砲3,000丁による3段構えを作って、勝利したと言われています。鉄砲中心の戦術への移行と戦国乱世から天下統一へ向かう重要な戦いでした。現地には、長篠城跡が1929年(昭和4)に国の史跡に指定されていて保存され、その一角に「新城市立長篠城址史蹟保存館」があって、いろいろと資料を見ることができます。また、決戦地となった設楽原には、「新城市設楽原歴史資料館」があって、合戦の様子を学ぶことができますし、周辺には、復元された馬防柵や有力武将の墓、激戦地跡や陣地跡などもあって、散策することも可能です。

(5)桶狭間の古戦場<愛知県名古屋市緑区>
 1560年(永禄3)に、駿河の今川義元軍と尾張の織田信長軍との間で尾張の桶狭間を中心に戦われた合戦です。約2万5千もの大軍を率いて尾張に侵攻した今川軍に対して、少数の織田軍が本陣を強襲し、今川義元の首を取って、今川軍を敗走させました。織田信長が、それ以後領地を広げ天下統一を目指す転機となった重要な戦いでした。古戦場跡の公園周辺は宅地開発され、住宅が立ち並んでいて往時の面影はなく、まるで都市公園のようになっていました。しかし、公園の木陰にいくつかの石碑が立っていて、その中に今川義元の墓標もありました。あたりはとても静かで、空気が冷たいのです。かつての戦いを偲ぶには良い雰囲気かも知れません。公園を一回りした後、高徳院にも上ってみましたが、資料館も開館していなかったので、境内を巡っただけにしました。桶狭間以外にも徳川家康が兵糧を入れた大高城跡、前哨戦で織田方が全滅した鷲津・丸根砦跡、今川義元が前日に宿泊した今川方の沓掛城跡などが散在していて、見どころがいろいろとあります。

(6)関ヶ原古戦場<岐阜県不破郡関ヶ原町>
 1600年(慶長5)に、東軍(徳川家康方)と西軍(石田三成方)によって天下分け目の関ヶ原の戦いが行われたところで、1931年(昭和6)に国の史跡になっています。この戦いでは、東軍(徳川家康方)の勝利となり、これによって徳川家康の天下となっていきました。関ヶ原には、いたるところに武将の陣の跡や首塚、墓標などがあり、巡ってみると、当時の戦闘のすさまじさを追憶させてくれます。また、近くに「関ヶ原町歴史民俗資料館」があって、この合戦の模様を詳しく展示しています。

(7)姉川の古戦場<滋賀県長浜市>
 1570年(元亀元)に、近江国姉川付近(現在の滋賀県長浜市)で、約2万1千人の浅井・朝倉軍と約3万4千人の織田・徳川軍との間で合戦が行われ、織田・徳川軍が勝利したところです。序盤では浅井・朝倉軍が優勢でしたが、家康軍の奮闘により、形勢が逆転しました。この結果、千人以上の死者が出て、姉川は血に染まり、朝倉軍は越前に敗走し、浅井軍も小谷城に逃げ込み、その後の浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となったのです。姉川周辺には、野村の姉川戦死者之碑やちはら公園の姉川古戦場跡の碑、浅井氏の家臣三田村氏館跡、織田軍の本陣があった龍ヶ鼻陣所(茶臼山古墳)、浅井長政の家臣遠藤直経の墓などがあって、巡ってみると古の激しい闘いを追想することができます。

(8)厳島の古戦場<広島県廿日市市>
 1555年(弘治元)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢とで戦われ、毛利方が勝った日本三大奇襲戦の一つ、厳島の戦いが行われたところです。1551年(天文20)に、中国地方7ヵ国を領した守護大名大内義隆は、家臣陶晴賢に襲われて自殺しました。その主君の仇を毛利元就が取った形ですが、これが毛利氏が中国地方を制覇する足がかりとなったのです。当時、厳島は瀬戸内水運の要衝で、ここにあった毛利方の宮尾城が、2万余の陶晴賢軍に攻められていたのを、毛利軍3千余が、荒天に乗じて奇襲上陸し、陶軍を壊滅させ、陶晴賢も自刃させました。現在、島内には毛利方の宮尾城跡、陶晴賢本陣が置かれていた塔の岡、包ヶ浦の毛利元就上陸之跡碑、高安ヶ原の陶晴賢敗死之所碑などがあって見て回ることができます。

☆戦国時代から安土桃山時代の主要な合戦一覧

・1467年 - 1477年 : 応仁の乱(山城国、近江国、河内国など)
・1525年 : 岩槻城の戦い(武蔵国 - 埼玉県岩槻市)○北条軍×●上杉軍
・1532年 : 山科本願寺の戦い(山城国 - 京都府京都市)○柳本軍×●山科本願寺軍
・1546年 : 河越城の戦い(武蔵国 - 埼玉県川越市)○北条軍×●上杉軍
・1548年 : 第二次小豆坂の戦い(三河国 - 愛知県岡崎市)○今川・松平軍×●織田軍
・1548年 : 上田原の戦い(信濃国 - 長野県上田市)○村上軍×●武田軍
・1550年 : 砥石城の戦い(信濃国 - 長野県上田市)○村上軍×●武田軍
・1551年 : 坂戸城の戦い(越後国 - 新潟県南魚沼市)○長尾景虎×●長尾政景
・1555年 : 厳島の戦い(安芸国 - 広島県廿日市市)○毛利軍×●陶軍
・1560年 : 桶狭間の戦い(尾張国 - 愛知県名古屋市・豊明市)○織田軍×●今川軍
・1560年 - 1561年 : 小田原城の戦い(相模国、上野国、武蔵国)△北条軍×△上杉・長尾軍
・1561年 : 第四次川中島の戦い(信濃国 - 長野県長野市)△武田軍×△上杉軍
・1563年 : 三河一向一揆(三河国)○徳川軍×●三河一向一揆
・1565年 : 永禄の変(山城国)○三好・松永軍×●足利義輝軍
・1567年 : 稲葉山城の戦い(美濃国 - 岐阜県岐阜市)○織田軍×●斎藤軍
・1568年 : 薩埵峠の戦い(駿河国 - 静岡県静岡市)○武田軍×●今川・北条軍
・1569年 : 三増峠の戦い(相模国 - 神奈川県愛甲郡愛川町)○武田軍×●北条軍
・1570年 - 1574年 : 長島一向一揆(伊勢国- 三重県桑名市)○織田軍×●長島一向一揆
・1570年 - 1580年 : 石山合戦(摂津国 - 大阪府大阪市)○織田軍×●石山本願寺軍
・1570年 : 金ヶ崎の戦い(越前国 - 福井県敦賀市)○朝倉軍×●織田軍
・1570年 : 姉川の戦い(近江国 - 滋賀県長浜市)○織田軍×●浅井・朝倉軍
・1571年 : 比叡山焼き討ち(山城国・近江国 - 京都府京都市・滋賀県大津市)○織田軍×●比叡山延暦寺
・1572年 : 三方ヶ原の戦い(遠江国 - 静岡県浜松市)○武田軍×●徳川・織田軍
・1573年 : 槇島城の戦い(山城国 - 京都府京都市・宇治市)○織田軍×●足利義昭軍
・1573年 : 一乗谷城の戦い(越前国 - 福井県福井市)○織田軍×●朝倉軍
・1573年 : 小谷城の戦い(近江国 - 滋賀県長浜市)○織田軍×●浅井軍
・1575年 : 長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)(三河国 - 愛知県新城市)○織田・徳川軍×●武田軍
・1575年 : 岩村城の戦い(美濃国 - 岐阜県恵那市)
・1576年 : 七尾城の戦い(能登国 - 石川県七尾市)○上杉軍×●畠山軍
・1577年 : 手取川の戦い(加賀国 - 石川県白山市・能美市・川北町)○上杉軍×●織田軍
・1577年 : 信貴山城の戦い(大和国 - 奈良県平群町)○織田軍×●松永軍
・1578年 : 上月城の戦い(播磨国 - 兵庫県佐用郡佐用町)○毛利軍×●尼子軍
・1578年 - 1580年 : 三木合戦(播磨国 - 兵庫県三木市)○織田軍×●別所軍
・1581年 : 鳥取城の戦い(因幡国 - 鳥取県鳥取市)○秀吉軍×●毛利軍
・1582年 : 備中高松城の戦い(備中国 - 岡山県岡山市)○秀吉軍×●毛利軍
・1578年 : 耳川の戦い(日向国 - 宮崎県木城町)○島津軍×●大友軍
・1582年 : 高遠城の戦い(信濃国 - 長野県高遠町)○織田軍×●武田軍
・1582年 : 天目山の戦い(甲斐国 - 山梨県甲州市)○織田・徳川軍×●武田軍
・1582年 : 魚津城の戦い(越中国 - 富山県魚津市)○織田軍×●上杉軍
・1582年 : 本能寺の変(山城国 - 京都府京都市)○明智軍×●織田軍
・1582年 : 山崎の戦い(山城国 - 京都府大山崎町、摂津国 - 大阪府島本町)○秀吉軍×●明智軍
・1582年 : 神流川の戦い(上野国 - 埼玉県児玉郡上里町)○北条軍×●滝川軍
・1583年 : 賤ヶ岳の戦い(近江国 - 滋賀県長浜市)○秀吉軍×●柴田軍
・1584年 : 小牧・長久手の戦い(尾張国- 愛知県小牧市・長久手市)△秀吉軍×△徳川軍
・1585年 : 羽柴軍の四国攻め(四国地方)○秀吉軍×●長曾我部軍
・1585年 : 第一次上田合戦(信濃国- 長野県上田市)○真田軍×●徳川軍
・1587年 : 九州平定(九州地方)○秀吉軍×●島津軍
・1589年 : 摺上原の戦い(陸奥国 - 福島県磐梯町・猪苗代町)○伊達軍×●蘆名軍
・1590年 : 小田原征伐(関東地方)○秀吉軍×●北条軍
・1600年 : 関ヶ原の戦い(美濃国 -岐阜県不破郡関ヶ原町 )○東軍×●西軍

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旅の豆知識「近世教育の遺産」

2017年08月06日 | 旅の豆知識
 近年、日本の近世にあたる江戸時代に関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、江戸時代の様々な歴史を考えながら、足跡を訪ねてみるのも、結構有意義なものです。
 その中で今日は、「近世教育の遺産」について見てみたいと思います。
 江戸時代の教育は、諸藩では藩校(会津藩の日新館、米沢藩の興譲館、水戸藩の弘道館、長州藩の明倫館、中津藩の進脩館、薩摩藩の造士館などが有名)、郷学、私塾(廣瀬淡窓咸宜園、シーボルトの鳴滝塾、吉田松陰の松下村塾、緒方洪庵の適塾など)等で行われました。また、一般庶民の個別指導教育として寺子屋(てらこや)がありました。これらは、我が国の学校制度の始まりとされています。
 しかし、日本中にあったこれらの近世教育の遺産は、現存するものが少なく、藩校建築や私塾跡が残されているところもありますが、寺子屋の遺構はほとんど残されていません。その中で、いろいろと国内を旅した時に、こういう所にも立ち寄って、近世の教育についても考えてみたいものです。

〇「藩校」とは?
 江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設けた藩の直轄学校で、藩学ともいいました。だいたいは、藩の城郭内や城下町等に設置されましたが、一部には江戸藩邸に併設されたものもあります。内容は儒学教育を主としましたが、国学・洋学・医学や武芸などの教授も行われる場合がありました。幕末に向けて開校する藩も結構あり、明治維新当時の 276藩の内 215藩が藩校を開設していたとされています。しかし、1871年(明治4)の廃藩置県により廃止されました。その後、この伝統を受け継いで旧制中学校などが設立され、名称が継承されているところもあります。

〇「寺子屋」とは?
 江戸時代に一般庶民のの子弟に読み書き、計算や平易な道徳等を教育した民間教育施設が、寺子屋です。手習所や手習塾とも言われていましたが、江戸では「手習指南所」「手跡指南」等の呼び方が一般的でした。これらの教育の普及により、江戸における嘉永年間(1848~1854年)の就学率は70-86%と高く、当時日本の識字率は世界最高水準にあったと考えられています。

☆「近世教育の遺産」関連のお勧め

(1) 有備館<宮城県大崎市岩出山>
 江戸時代に、岩出山伊達家の藩士の子弟を教育する学問所だったところです。この建物は、江戸時代前期の1663年(寛文3)に火災で岩出山城が燃えた後に、借り御殿として建てたものを現在地に移して、使用されてきたと考えられています。庭園は、1715年(正徳5)に仙台藩茶道頭、石州流三代清水道竿が造った池泉回遊式で、池の中に、兜島、鶴島、亀島、茶室のある茶呑島などの小島が浮かんでいました。明治維新後、一部改修されましたが、旧態をよく残しているので、1933年(昭和8)に「旧有備館および庭園」の名称で、国の史跡及び名勝に指定されています。1970年(昭和45)に岩出山伊達家より、旧岩出山町(現在:大崎市)へ移管され、一般公開されています。現在は、その裏手から内川の流れに沿って「学問の道」と名づけられた遊歩道がのびていて、散策することが可能です。

(2) 致道館<山形県鶴岡市>
 東北地方に現存する唯一の江戸時代の藩校建造物です。1805年(文化2)に、庄内藩七代目藩主・酒井忠徳によって創設された学問所に始まりますが、当時は現在の鶴岡市日吉町にありました。それを、1816年(文化13)に八代目藩主の酒井忠器によって鶴ヶ岡城三の丸曲輪内の現在地に移されたものです。孔子を祀る聖廟、講堂、御入間、表御門などの建物とその敷地一帯は、1951年(昭和26)に国の史跡に指定されています。内部を見学することができ、当時の藩校の様子を彷彿とさせてくれます。

(3)弘道館<茨城県水戸市>
 江戸時代後期に、水戸藩によって作られた藩校で、敷地は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、正庁、至善堂、正門の建物は、1964年(昭和39)に国の重要文化財に指定されていて公開されています。弘道館では藩士とその子弟が学び、学問と武芸の両方が重視されていました。文館では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武館では剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多彩な科目が教えられていたとのことです。館内には、これらの資料も展示されていて、見学できます。

(4)湯島聖堂<東京都文京区>
 江戸時代中期の1690年(元禄3)に、江戸幕府五代将軍綱吉は、儒学を振興するため、林家私邸(上野忍岡)にあった孔子廟を移築したのが始まりで、湯島聖堂と呼ばれるようになりました。その後の1797年(寛政9)に、この地に江戸幕府直轄の「昌平坂学問所」が設置され、教学の中心地となったのです。それからも消長を経て、明治維新以後も建物が残され、1922年(大正11)に国の史跡に指定されたものの、翌年の関東大震災で、入徳門と水屋を残し、すべてを焼失してしまいました。現在の建物は、1935年(昭和10)に、寛政時代の建物を模して鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。受験シーズンになると、多くの受験生が合格祈願に来ることでも知られています。
 
(5)松代藩文武学校<長野県長野市>
 松代藩文武学校は、松代藩の八代藩主真田幸貫が藩校の創設を計画し、九代藩主幸教が引き継いで、江戸時代後期の1855年(安政2)に開校したもので、文学所、剣術所、柔術所、弓術所、槍術所などがありました。この学校の特徴は、藩士に対し文武両道をめざし、漢学・国史・剣術・総術・柔術・弓術をはじめ、特に西洋医学・西洋砲術を教育したところで、他の藩校と違って、儒教に重きをおかず、孔子廟がないのです。明治時代以降、昭和初期まで、学校として使用されていたため、藩校敷地や建物がそのまま残っているのが貴重なので、1953年(昭和28)に国の史跡に指定されました。現在は、一般公開されていて、内部を見学することができ、当時の教育の様子を知る手かがりとなります。

(6)進徳館<長野県伊那市高遠町>
 江戸時代後期の1680年(万延元)に、高遠藩第8代藩主内藤頼直によって開かれた藩校で、名称は、易経にある「君子は進徳脩業、忠信は徳の進む所以なり」という言葉からとったものです。8 歳から25 歳までの藩士子弟が、和学、漢学、洋学、算法、柔術、兵学などを学びました。廃藩置県により、1872年(明治5)に進徳館は廃止されましたが、その後は、学制発布後の小学校の校舎として使用され、1886年(明治16)まで続きました。江戸時代の藩校の遺構として、貴重なものなので、1973年(昭和48)に、「高頭城址」の一部として国の史跡に指定されました。現在は、一般公開されていて、内部を見学することもできます。

(7)旧閑谷学校<岡山県備前市>
 岡山藩によって、江戸時代前期に開かれた庶民のための学校です。現在も建物が残されていて、校地は1954年(昭和29)に国の特別史跡に、講堂は1953年(昭和28)国宝に、それ以外の建物と関係資料4,041点が、1938年(昭和13)国の重要文化財に指定されて、公開されています。隣接して、「閑谷学校資料館」があって、教育関係の貴重な資料を見ることができます。

(8)松下村塾<山口県萩市>
 江戸時代後期に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾です。松陰神社の境内には、修復された当時の建物が残り、1922年(大正11)に国の史跡に指定されています。短期間しか存続しませんでしたが、久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など尊王攘夷を掲げて京都で活動した人や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出しましました。境内には、「吉田松陰歴史館」もあって、吉田松陰の足跡を知ることができます。また、2015年(平成27)には、松下村塾を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されています。

(9)咸宜園<大分県日田市>
 咸宜園は、江戸時代後期の1805年(文化2)に、儒学者・廣瀬淡窓が長福寺の学寮で開塾したのが始まりです。その後、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、現在地に「咸宜園」が開かれました。全寮制で、身分、学歴を問わずに広く門戸が開放され、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されたのです。明治維新後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。その中には、高野長英(蘭学者・蘭医)、岡研介(蘭医)、大村益次郎(兵部大輔・日本陸軍の創始者)、上野彦馬(日本最初期の写真家)、横田国臣(法律家・検事総長)、清浦奎吾(政治家・内閣総理大臣)などの著名な人々がいます。今でも建物の一部、秋風庵・遠思楼が現存し、江戸時代後期の大規模な私塾の跡として貴重なので、1932年(昭和7)に「咸宜園跡」として国の史跡になっています。また、2015年(平成27)には「近世日本の教育遺産群」のひとつとして日本遺産にも指定されました。2010年(平成22)には、隣接地に「咸宜園教育研究センター」が開館し、咸宜園や廣瀬淡窓、門下生等に関する調査研究と展示を行っていて、見学できます。

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旅の豆知識「キリシタン遺跡」

2017年08月05日 | 旅の豆知識
 近年、日本の近世にあたる江戸時代に関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、江戸時代の様々な歴史を考えながら、足跡を訪ねてみるのも、意義深いものです。
 その中で今日は、「キリシタン遺跡」について見てみたいと思います。
 九州の天草・島原地方を旅すると、キリシタン関係の遺跡に巡り会います。島原の乱(1637-1638年)で幕府軍と戦い、全滅した原城跡をはじめ、過酷なキリシタン弾圧の数々がありました。しかし、その一方で密かに裏に隠れ、江戸時代を通じ、脈々と伝えられてきた隠れキリシタンの事実も存在します。そこに、民衆の抵抗力の強さと継続を見ます。
 この地方では、現在集落の中心にキリスト教会堂がそびえ、何百年も受け継がれてきた信仰のシンボルとして、今でも多くの村人の尊崇を集めているのです。そんなところを旅してみると、弾圧にも耐えて脈々として受け継がれてきた民衆の信仰心の深さに驚かされるばかりです。

〇「キリスト教伝来から禁教令」への推移とは?
 1549年(天文18)に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、鹿児島に来航して、キリスト教は伝来しました。その後、大内義隆や大内義鎮などの保護もあって、機内や九州北部を中心に広がりました。
 各地に南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師学校)、セミナリオ(神学校)なども建てられ、高山右近などのキリシタン大名(洗礼を受けた大名)も登場して、天正遣欧使節も送られたりしたのです。
 しかし、豊臣秀吉により、1587年(天正15)にバテレン追放令が出されるなどして、次第にキリシタン弾圧が始まります。
 江戸時代になると、1612年(慶長17)に幕府直轄領に禁教令が出され、翌年には全国に及ぶようになります。この後は、宣教師や信者の処刑や海外追放などの激しい迫害が始まります。

〇「フランシスコ・ザビエル」とは?
 戦国時代に日本へ初めてキリスト教を伝えたスペインの宣教師です。1506年に、ナバラ王国(1515年スペインに併合)ザビエルの名門貴族の家に生まれました。19歳のとき、パリ大学の聖バルバラ学院に学び、1534年に、イグナチウス・デ・ロヨラらとともにイエズス会をおこすのです。1537年には司祭となり、1540年にポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣されました。
 1545年から47年にかけて、マラッカからモルッカ諸島まで布教に従事し、マラッカで会った日本人アンジローの案内で、1549年(天文18)鹿児島へ来航することになります。
 これが、日本へのキリスト教伝来の最初となり、以後2年間、九州・中国・近畿の各地で伝道しました。その後、インドに戻り、さらに中国への伝道の途次、広東付近の上川島で、1552年に46歳で亡くなりなったのです。1622年には、カトリック教会の聖人の位に列せられました。

☆「キリシタン遺跡」関連のお勧め

(1)原城跡<長崎県南島原市>
 島原の乱(1637-1638年)で、幕府軍とキリスト教徒中心の一揆勢が戦ったところで、本丸跡には首領天草四郎時貞の像が立っています。今はとても静かな所ですが、380年近く前の全滅したキリシタン勢を思うと胸が熱くなります。城跡をつれづれに、大手門跡、板倉重昌碑、本丸跡、ホネカミ地蔵、天草四郎像、天草四郎墓と巡ってみました。現在は、国指定史跡となっていますが、ほとんどが農耕地となっていて、しかも海の眺望が良く、のどかな田園地帯なのです。ここで、天草の乱があり、3万数千人が死んだとは思えないくらいなのです。それだけになおさら歴史の語らいを強く感じました。海を臨みながら天草四郎は何を考えていたのか....。

(2)天草の大江<熊本県天草市>
 ここは、隠れキリシタンの中心地の一つで、「天草ロザリオ館」ではキリシタン弾圧の凄まじさを物語り、それに抵抗して代々受け継がれてきた信仰の強さと知恵を見せてくれます。館内では、永禄年間から始まる天草キリシタンたちの生活や文化を如実に物語る遺品を数多く展示しています。現在では、丘の上に白い教会堂(大江天主堂)が聳えていて、キリスト教徒によって守られています。

(3)天草四郎メモリアルホール<熊本県上天草市>
 大久野島の「天草四郎メモリアルホール」に立ち寄ってみましたが、丘の上の協会風の建物で、中に入って、ここがかの天草四郎の出身地だと知れました。江戸時代前期の一大事件、島原の乱(1637-1638年)の首謀者、あのキリシタン弾圧の最大の悲劇はこの地方の農民たちによって引き起こされたのです。幕府、大名による過酷な弾圧は、キリシタンたちを団結させ、一揆に立ち上がらせました。その時代に、神を最高のものとして、崇めることは異端でした。幕府側の徹底した反撃に、最後は島原半島の原城に拠っての長期の抵抗の末、全員虐殺されたのです。しかし、それによってキリシタン信仰を根絶やしにすることは出来ず。陰に隠れ、連綿として受け継がれていくことになります。あの江戸時代の長きにわたって、信仰を守り通したことは、驚異といっても良いと思います。そんな、思いを抱きながら、館内を見て回りました。最後に、なんとも不思議な部屋「瞑想のホール」があって、音と光の中で、静かに回想できるのです。床には、奇妙なクッションが置いてあって、座りながらしばらくくつろいでみましたが、何とも言えない異空間を体験しました。外に出たら、強風が吹いていて、天草四郎之像とキリシタン墓の向こうに天草の海が、波立っていました。
 
(4)堂崎天主堂キリシタン資料館<長崎県五島市>
 江戸時代からの禁教令の高札が撤去されて6年後の1879年(明治12)、下五島担当のマルマン神父が奥浦村大泊に常駐して、仮小聖堂を建てたのに始まり、1880年(明治13)には、ここ堂崎に五島列島では初めて教会堂が建てられました。現在の建物は、1908年(明治41)にペルー神父が新築し、宣教の拠点としたものです。1974年(昭和49)に堂崎教会の名称で長崎県指定有形文化財に指定され、現在は堂崎天主堂キリシタン資料館として活用されています。天主堂内部には、帳方(隠れキリシタンの役職者)に受け継がれてきた「お帳(太陽暦)」やド・ロ聖教木版画(長崎県指定文化財)などのキリシタン禁教時代から明治時代以降のキリシタン資料が展示されています。また、日本二十六聖人のひとり、五島出身の聖ヨハネ五島の聖骨がマカオから里帰りして堂内に安置されています。外の庭園にはアルメイダが五島に布教したときの様子を描いたレリーフや聖ヨハネ五島の像、マルマン、ペルー像などがあります。堂崎天主堂は長く厳しい弾圧を絶え抜いた五島キリシタン受難と勝利のシンボルですので、見学していても、敬虔な気持ちになります。

(5)日本二十六聖人記念館<長崎県長崎市>
 日本二十六聖人は、1597年(慶長元)、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者のことで、日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてでした。この出来事を「二十六聖人の殉教」といい、26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになりました。「日本二十六聖人記念館」は、日本二十六聖人の顕彰を目的としてカトリック教会によって設立された博物館で、1962年(昭和37)、日本二十六聖人の列聖100周年を記念して開館しました。記念館の前には日本二十六聖人記念碑が建っていて、二十六聖人のレリーフは舟越保武の制作によるものです。

(6)大浦天主堂<長崎県長崎市>
 江戸時代末期の1865年(元治2)、長崎県長崎市に建立された日本最古の現存するキリスト教建築物です。フランス人宣教師プティジャンらの指導により建設されたもので、正式名称は日本二十六聖殉教者堂といいます。教会完成後、浦上地区の村民たちが、ここのプチジャン司教を訪ね、カトリックの信者(江戸時代の間信仰を守った隠れキリシタン)であることを告白し、「信徒発見」とよばれる歴史的事件となりました。1975年(明治8)には、木造からレンガ造りに改築され、洋風のゴシック様式建造物となったのです。現存する日本最古の洋風建造物として、とても貴重なので、1933年(昭和8)に、国の重要文化財(旧国宝)となり、1953年(昭和28)には、国宝となりました。

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旅の豆知識「中山道69次」

2017年08月04日 | 旅の豆知識
 近年、日本の近世にあたる江戸時代に関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、江戸時代のいろいろな足跡を訪ねてみるのも、興味深いものです。
 その中で今日は、「中山道」について見てみたいと思います。
 現在の東京から京都へ向かうだいたい国道17号・18号・142号・19号・21号・8号線のルート沿いに、江戸時代の五街道の一つ旧中山道が残されています。途中で途切れている所もいくつかありますが、おおむねは旧街道をたどって、今でも旅をすることができるのです。中山道は69次といって、その途中に69の宿場(草津宿、大津宿は東海道と共通)があり、昔の人はそこに泊まりながら歩いて行きました。
 近年は、昔のように旧中山道を徒歩で旅してみようとする人も増加してきていますので、そんな足跡をたどってみると、江戸時代の旅人の気分になって、とても面白いのではないでしょうか。

〇「五街道」とは?
 江戸時代の主要陸上交通路のことで、江戸日本橋を起点とする東海道・中山道・奥州道中・甲州道中・日光道中のことをいい、幕府が直接支配をしました。当時最も整備されていた街道で、おもに公用に使われました。

〇「中山道」とは?
 江戸時代の五街道の一つで、東海道に次ぐ江戸~京都間の重要な街道でした。日本橋を起点に武蔵国、上野国、信濃国、美濃国、近江国を通り、草津宿で東海道と合流して京都に至るルートです。日本橋から草津宿の間に67の宿場が置かれていましたが、東海道と重なる草津宿、大津宿を加えて、中山道69次とも言っていました。1601年(慶長6)から街道の整備が本格化したと考えられますが、すぐにすべての宿場が整ったわけではなく、一番遅かった伏見宿が置かれたのは、1694年(元禄7)のことになります。また、碓氷と福島には関所が置かれ、旅人を取り締まりました。尚、正徳年間 (1711~16) 以前には中仙道とも書かれていました。東海道の53次よりも宿次が多くて、距離も六里余り長く、和田峠、鳥居峠、塩尻峠、碓氷峠などの峠越えの難所もありましたが、東海道のような川留めを避けることができる利点から女性の旅人も多かったのです。幕末の公武合体策のために江戸幕府14代将軍・徳川家茂への和宮の降嫁もこの道が使われました。

☆「中山道69次」関連のお勧め

(1)芦田宿<長野県北佐久郡立科町>
 中山道の江戸・日本橋から数えて26番目の宿場でした。この宿場の中ほどに「金丸土屋旅館」という江戸時代から続く旅籠が残されていて、現在でも泊まることができます。玄関の上には「津ちや」と書いた庵看板が下がり、腕木の雲形の彫刻、出桁造りなどに昔からの旅籠の雰囲気が感じられました。玄関を入り、案内された部屋は宿の一番奥で、廊下の突き当たり右にあり、上ノ間にあたる8畳間で裏庭が良く見え、床の間も立派で付け書院まであるのです。他の部屋を開けてみると、8畳間が4室縦に連なっていて、襖だけで仕切られている典型的な江戸時代旅籠の造りでした。ここから少し歩くと、交差点の角に本陣跡がありますが、「金丸土屋旅館」の本家筋にあたる土屋家です。堂々とした門が残っており、中に入ると左手奥に江戸時代のままに立派な玄関と客殿が残され、県宝に指定されていました。なかなかみごとなものですが、右手奥の母屋は新しくなっていたのが残念です。さらに少し歩くと、かなり改築された家が目立つようになり、そのまま宿場をはずれてしまいます。この宿場から、次の長久保宿へと向かう途中には、笠取峠がありそこの松並木は有名です。

(2)奈良井宿<長野県塩尻市>
 中山道の江戸・日本橋から数えて34番目の宿場でした。その昔ながらの風景に感動するのですが、江戸時代の街道や宿場の雰囲気がとても良く残されているのです。大変貴重な町並みなので、1978年(昭和53)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。町並みの中には、上問屋資料館、旅籠えちごや、高札場、元櫛問屋中村邸、水場、楢川歴史民俗資料館、道標などがあって、江戸時代の街道の様子を学ぶことができます。また、次の藪原宿までの鳥居峠(標高1,197m)越えの道(約8km)は、江戸時代以来の旧中山道を信濃路自然歩道として整備されていて、3時間半ほどで歩いて行くことも可能です。

(3)妻籠宿<長野県木曽郡南木曽町>
 中山道の江戸・日本橋から数えて42番目の宿場でした。その昔ながらの風景に感動するのですが、これほど、江戸時代の街道や宿場の雰囲気がそのまま残されているところは他にありません。復元されたものも含めて、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠、茶屋、高札場、石畳、道標などの昔の街道の要素をすべて見られ、大変貴重な町並みなので、1976年(昭和51)に、最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。江戸時代の街道について知るにはうってつけのところで、歴史の雰囲気を強く感じ取れるのです。
 
(4)細久手宿<岐阜県瑞浪市>
 御嵩宿から細久手宿に至る旧中山道は、東海道自然歩道の一部として整備され、昔の街道の面影をよくとどめている所です。そこを通って、謡坂の石畳、十本木立場跡、一呑の清水、唄清水、御殿場と越えてきて、やっと日が沈みかけた頃に細久手宿へと入ってきましたが、入口に開元院という大きな寺があります。ここは、中山道の江戸・日本橋から数えて48番目の宿場で、その中程に卯達の上がる、「大黒屋」の古い建物(国登録有形文化財)を見つけましたが、ここは今でも宿泊できる江戸時代からの旅籠なのです。玄関前に大きな旅籠行灯があり、観音開きの門の中の玄関に広くて立派な式台が見えました。さすがに尾張藩の定本陣となっていただけあって堂々とした構えです。声をかけると若女将が出てきて、ていねいに応対してくれ、とても感じがいいのです。玄関を上がると、吹き抜けとなった中の間に古風な箱階段が目に付きました。そこを上がった、2階の奥の部屋に通されましたが、吹き抜けとなった周りを廊下がぐるりと巡らされていて、まるで時代劇でも見ているような感じです。江戸時代末期の建物で、すでに130年以上は経ているので、少々きしむのはいたしかたないですが、掃除が行き届いていて、廊下や柱は黒光りしていてとても風情があります。しかし、よく昔のままに残されたものです!ほんとうに感心させられます。とても印象深く、江戸時代の旅人の気分 にさせてくれる数少ない宿だと感じました。

(5)垂井宿<岐阜県不破郡垂井町>
 中山道の江戸・日本橋から数えて57番目の宿場でした。相川の本流に架かる相川橋のたもとからが垂井宿のはじまりのようで案内板がありました。そこから、旧中山道に沿って宿場の街並みに入っていくと程なくして道の正面に古風な建物が見えてきました。それが、旅籠「亀丸屋」で道はそこで枡形となって曲がっています。近づいてみると東側2階には鉄砲窓、南側には格子があり、建物の前の案内板には安永7年(1778)に建てられ、浪速講、文明講の指定宿とあります。そこに泊まったのですが、中に入ると所々改造が見られますが、骨組みは昔のままでとても風情があり、江戸時代から続く旅籠なのです。そこから、さらに歩いて西の見付(広重の浮世絵に描かれた所)を目指しましたが、南宮大社の大鳥居、油屋卯吉家跡、本龍寺(山門や元の書院の玄関は旧脇本陣からの移築)など、とぎれとぎれに残る古い街並みとともに結構見所があります。特に、本龍寺内にあった時雨庵は、松尾芭蕉ゆかりの地で、芭蕉が1691年(元禄4)にこの寺の住職を訪ね、冬籠して詠んだ句「作り木の 庭をいさめる 時雨かな」にちなんで建てられた物で、脇にその句碑が立っていました。

(6)草津宿<滋賀県草津市>
 東海道と中山道とが分かれる追分のあるところで、今でも本陣の建物が現存しています。その田中七左衛門本陣は別名木屋本陣とも呼ばれ、兼業で材木商を営んでいました。現在の建物は18世紀末以降の再建で、1843年(天保14)の資料では、建坪468坪、門構え、玄関付、敷地1,305坪と記され、五街道でも最大級のものです。現在、国の史跡に指定され、7年間の保存整備事業を終えて一般公開されていて、その偉容を見学することができます。

☆中山道69次一覧

1. 板橋宿(東京都板橋区) 川越街道との追分
2. 蕨宿 (埼玉県蕨市)
3. 浦和宿 (埼玉県さいたま市浦和区)
4. 大宮宿 (埼玉県さいたま市大宮区)
5. 上尾宿 (埼玉県上尾市)
6. 桶川宿 (埼玉県桶川市)
7. 鴻巣宿 (埼玉県鴻巣市)
8. 熊谷宿 (埼玉県熊谷市)
9. 深谷宿 (埼玉県深谷市)
10. 本庄宿 (埼玉県本庄市) 下仁田道との追分
11. 新町宿 (群馬県高崎市)
12. 倉賀野宿 (群馬県高崎市)日光例幣使街道との追分
13. 高崎宿 (群馬県高崎市)三国街道との追分
14. 板鼻宿 (群馬県安中市)
15. 安中宿 (群馬県安中市)
16. 松井田宿 (群馬県安中市)
17. 坂本宿 (群馬県安中市)
18. 軽井沢宿 (長野県北佐久郡軽井沢町)
19. 沓掛宿 (長野県北佐久郡軽井沢町)
20. 追分宿 (長野県北佐久郡軽井沢町)北国街道との追分
21. 小田井宿 (長野県北佐久郡御代田町)
22. 岩村田宿 (長野県佐久市)
23. 塩名田宿 (長野県佐久市)
24. 八幡宿 (長野県佐久市)
25. 望月宿 (長野県佐久市)
26. 芦田宿 (長野県北佐久郡立科町)
27. 長久保宿 (長野県小県郡長和町)
28. 和田宿 (長野県小県郡長和町)
29. 下諏訪宿 (長野県諏訪郡下諏訪町) 甲州街道との追分
30. 塩尻宿 (長野県塩尻市) 三州街道との追分
31. 洗馬宿 (長野県塩尻市)北国西街道との追分
32. 本山宿 (長野県塩尻市)
33. 贄川宿 (長野県塩尻市)
34. 奈良井宿 (長野県塩尻市)
35. 藪原宿 (長野県木曽郡木祖村)
36. 宮ノ越宿 (長野県木曽郡木曽町)
37. 福島宿 (長野県木曽郡木曽町)
38. 上松宿 (長野県木曽郡上松町)
39. 須原宿 (長野県木曽郡大桑村)
40. 野尻宿 (長野県木曽郡大桑村)
41. 三留野宿 (長野県木曽郡南木曽町)
42. 妻籠宿 (長野県木曽郡南木曽町)
43. 馬籠宿 (岐阜県中津川市)
44. 落合宿 (岐阜県中津川市)
45. 中津川宿 (岐阜県中津川市)
46. 大井宿 (岐阜県恵那市)
47. 大湫宿 (岐阜県瑞浪市)
48. 細久手宿 (岐阜県瑞浪市)
49. 御嶽宿 (岐阜県可児郡御嵩町)
50. 伏見宿 (岐阜県可児郡御嵩町)
51. 太田宿 (岐阜県美濃加茂市)
52. 鵜沼宿 (岐阜県各務原市)
53. 加納宿 (岐阜県岐阜市)
54. 河渡宿 (岐阜県岐阜市)
55. 美江寺宿 (岐阜県瑞穂市)
56. 赤坂宿 (岐阜県大垣市)
57. 垂井宿 (岐阜県不破郡垂井町) 美濃路との追分
58. 関ヶ原宿 (岐阜県不破郡関ケ原町)
59. 今須宿 (岐阜県不破郡関ケ原町)
60. 柏原宿 (滋賀県米原市)
61. 醒井宿 (滋賀県米原市)
62. 番場宿 (滋賀県米原市)北陸道との追分
63. 鳥居本宿 (滋賀県彦根市)
64. 高宮宿 (滋賀県彦根市)
65. 愛知川宿 (滋賀県愛知郡愛知川町)
66. 武佐宿 (滋賀県近江八幡市)
67. 守山宿 (滋賀県守山市)
68. 草津宿 (滋賀県草津市) 東海道と共通(東海道との追分)
69. 大津宿 (滋賀県大津市) 東海道と共通


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8月の見沼田んぼの散策

2017年08月03日 | 散策
今日は天気は曇りだったが、雨は降らないとの予報だったので、川口市内の「かっぱ寿司」で、昼食を取ってから、車で北上し、見沼たんぼへ行って、蝶の写真を撮りながら散策することにした。
 最初に、さいたま市緑区にある「見沼自然公園」へ行ってみることにしたが、空は曇っていて、いくぶん暑さも和らいでいる気がした。園内の駐車場へ到着したが、平日なのに、結構混んでいて、少し探して公園に一番近いところの木陰に駐車した。
 今年は4度目の訪問となるが、いつものように、手や足に防虫スプレーを噴きつけ、カメラを携えて、散策を開始した。
 まず、中央の池に向かったが、そこには、水連の花がきれいに咲いていたので、望遠で撮影し、オオバンとカルガモもいたので、カメラに収めた。
 その後、園内を散策したが、曇りの性か、蝶の姿はほとんど見られないものの、ヤマトシジミだけは、カタバミの花の周辺をいくつか飛んでいたので、シャッターを切った。そうしていると、クロアゲハが勢いよく飛んできたものの、どこにも止まらずに行ってしまったので、撮り逃がした。
 それから、湿地帯の上の木道を歩いているとナガサキアゲハのオスが飛んできたが、これも上空を飛び去っただけだったので、撮り逃がした。
 仕方がないので、公園を抜け出すと、雑草のたくさん生い茂っている所で、ヤマトシジミは見つけたものの、他の種類は全く目にしないので、注意深く畑地を探してみたが、何も見つからなかった。
 しかし、天気は曇っていて、暑くもなく比較的楽に散策できるのを救いに、田んぼ道を歩いて行った。そうすると、モンシロチョウが2頭、花の近くを舞っていたものの、止まらないので、カメラに収め損なった。
 しばらく、見沼たんぼの中を歩いて行くと万年寺の寺林に至ったが、途中はヤマトシジミくらいしか見つけられなかった。さらに林縁を注意深く探したものの、何も発見することができずがっかりした。
 それでも、万年寺に入って、本堂に手を合わせておいたが、境内にも蝶の姿がなく、端境期なのかと残念に思うばかりだ。
 再び、見沼自然公園へ戻る途中で、ウラギンシジミを見つけたが、これも撮り逃がした。
 やむを得ず、見沼自然公園の近くまで戻ってくると、ベニシジミが1頭だけ、葉上に止まっていたので、接写しておいた。その周辺を丹念に探してみたら、ウラギンシジミが飛び出してきたものの、またもや撮り逃がした。しかし、近くにいたヒメウラナミジャノメだけは、なんとか撮影することができた。
 それから、見沼自然公園内へと入っていくとヤマトシジミは目につくものの、他の種類にはなかなか巡り合えない。そうこうしていると、またもナガサキアゲハのオスが勢いよく飛んでいったが、これも撮り逃がした。
 こんな状態では、これ以上期待できないと判断し、1時間半で散策を終えることにして、駐車場へと戻っていった。
 結局、7種類の蝶としか出会えず、この時期としては少ない感じがしたが、やむを得ないと考え、これでここは出ることにした。
 その後は、南下していって、「さいたま市園芸植物園」へ行ってみることにした。ここは、花と緑を通した、農業と市民の交流の場、自然科学の観察の場として約1万本の樹木などを育成してあり、隣接する緑の広場とともに多くの市民の憩いの場となっていて、無料で入園することができる。
 その中に、花き展示温室があり、大、中、小の三棟の温室で構成されていて、大温室にはヤシ等の熱帯に自生する植物が植栽されており、冬でも南国の気分が味わえるところだ。中温室はバナナ、カカオ、パパイヤといった熱帯果樹が見られる。小温室は洋ラン温室で花の盛りの12月から3月ごろまでは、温室内は花の香りでいっぱいになるのだ。そんなところを巡りながら、樹木や花の写真を撮ったが、薔薇がきれいに咲いていたのが印象的だった。
 それからは帰途に着いたが、スムーズに走って、途中のスーパーマーケットで買い物をしてから、自宅に帰着した。


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旅の豆知識「東海道53次」

2017年08月02日 | 旅の豆知識
 近年、日本の近世にあたる江戸時代に関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、江戸時代のいろいろな足跡を訪ねてみるのも、楽しいものです。
 その中で今日は、「東海道」について見てみたいと思います。
 現在の東京から京都へ向かう国道1号線のルート沿いに、江戸時代の五街道の一つ旧東海道が残されています。途中で途切れている所も少しありますが、だいたいは旧街道をたどって、今でも旅をすることができるのです。東海道は53次といって、その途中に53の宿場があり、昔の人はそこに泊まりながら歩いて行きました。
 近年は、昔のように旧東海道を徒歩で旅してみようとする人も増えてきていますので、そんな足跡をたどってみると、江戸時代の旅人の気分になって、感慨深いものではないでしょうか。

〇「五街道」とは?
 江戸時代の主要陸上交通路のことで、江戸日本橋を起点とする東海道・中山道・奥州道中・甲州道中・日光道中のことをいい、幕府が直接支配をしました。当時最も整備されていた街道で、おもに公用に使われました。

〇「東海道」とは?
 元々は律令制における五機七道の一つで、そこを通る道として、古代や中世にもありましたが、江戸時代には五街道の一つで、江戸~京都間の最も重要な街道でした。日本橋を起点に武蔵国、相模国、駿河国、遠江国、三河国、尾張国、伊勢国、近江国、山城国を通り、京都に至るルートです。日本橋から京都の間に53の宿場が置かれ、東海道53次と言っていました。しかし、これを大坂までのルートとし、京都から大坂まで4つの宿場を加え、東海道57次と言う場合もありました。東海道では、1601年(慶長6)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道53次が始まりました。しかし、全部の宿場が一度に設置されたわけではなく、順次整備されて一番最後に庄野宿ができたのは、1624年(寛文元)でした。また、箱根と新居には関所が置かれ、旅人を取り締まったのです。東海道には、七里の渡し(宮~桑名)や大井川、安倍川、酒匂川等での川留めがあり、それを避けるために女性の旅人は中山道を使うことも多くありました。幕末の公武合体策のために江戸幕府14代将軍・徳川家茂への和宮の降嫁も中山道が使われたのです。

☆「東海道53次」関連のお勧め

(1)箱根関跡<神奈川県足柄下郡箱根町>
 東海道に設けられた主要な関所の跡です。江戸時代以前にもあったとのことですが、江戸幕府によって、1615年(元和5)に設置されて、1869年(明治2)まで街道の通行者を取り締まっていました。東海道では、新居の関と共に重要なもので、「入鉄炮に出女」と言われたように、江戸幕府を守るために、箱根では特に、江戸から出る女性(出女)を監視していたのです。また、周辺の脇往還5ヶ所(根府川、矢倉沢、川村、仙石原、谷ヶ村)にもこれに準ずる脇関所が設けられました。1869年(明治2)の関所廃止後は、建物も失われましたが、1922年(大正11)に国の史跡に指定され、1996年(平成8)には、追加指定がありました。その後、1999年(平成11)から2年かけて発掘調査が行われ、箱根関所の遺構が確認されたのです。それに基づいて、大番所や上番休息所などが木造で復元され、2004年(平成16)から、一般に公開されるようになり、さらに石垣等の大規模な復元工事が行われて、2006年(平成18)には、全面公開されるに至ったのです。現在では、当時の関所の様子が人形によって復元され、隣接して「箱根関所資料館」もあって、関所のことを知るにはうってつけです。

(2)大井川の川越遺跡<静岡県島田市>
 ここは、かつての旧東海道沿いに、川会所や札場、番屋などが復元してあり、なかなか面白いもので、1966年(昭和41)に国指定史跡になっています。次に大井川の川越しについて学ぶために、近くにある「島田市博物館」へと向かいました。ここは、かつて人足による渡しが行われていた場所の堤防の下にありましたが、結構立派な外観です。展示は、もちろん川越しに関するものが中心で、その歴史や方法などについて学ぶことが出来ましたが、川越しに使った蓮台なども展示してあって、とても興味深いものでした。

(3)日坂宿<静岡県掛川市>
 東海道の江戸・日本橋から数えて25番目の宿場でした。現在この宿場では、旅籠「川坂屋」が一般公開されていて、江戸時代の名残を留めています。また、近くに旅籠「萬屋」というのも復元されて、一般公開していますが、こちらは、飯盛旅籠(接客用の飯盛女を置く旅籠)だったようで、面影も感じられ、平旅籠(飯盛女を置かない旅籠)の「川阪屋」との対比が興味深かいのです。さらに、近くにある商家「藤文」も一般公開されていて、江戸時代の旅を追想するには最適です。
 
(4)新居宿<静岡県湖西市>
 東海道の江戸・日本橋から数えて31番目の宿場でした。まず旅籠「紀伊国屋」を見学しましたが、この旅籠で出されていた夕食を再現したレプリカが展示されていて、興味深かったのです。館内の案内の方とも言葉を交わし、当時の食事について、批評しました。それから、新居関所の方も見学しましたが、江戸時代の関所建物が残され、1955年(昭和30)に国の特別史跡になっています。史料館も見学して、当時の旅の様子を思い浮かべてみました。

(5)二川宿<愛知県豊橋市>
 東海道の江戸・日本橋から数えて33番目の宿場でした。ここには、「二川宿本陣資料館」があって、二川宿本陣が復元されていたのですが、近年それに隣接して、旅籠「清明屋」も復元されたのです。まず、資料館の方から見学しましたが、江戸時代の旅の様子を知るには、とても良い展示がされていました。いろいろと知見を得てから、本陣の建物も見て回ったのです。その後、旅籠「清明屋」にも行ってみましたが、五右衛門風呂が2ヶ所設置されていたのに興味を持ちました。1人用の狭いものなので、泊まり客の多いときは、なかなか風呂の番が回ってこなかったんじゃないかと、想像してみました。しかし、本陣の立派な建物との比較で、庶民の旅籠を見るのも面白いものだと思います。尚、2015年11月より商家「駒屋」も一般公開され、本陣、旅籠、商家の3つが見学できるようになりました。

(6)御油の松並木<愛知県豊川市>
 東海道の御油の松並木は、今でも旧東海道の両側にうっそうとした松並木が約600mにわたって続き、国の天然記念物に指定されていて、現在でも夜中ならばきつねの出てきそうな雰囲気があります。このように昔の街道脇には、松や杉などの木が並べて植栽されて、並木と呼ばれていましたが、夏には暑さを避け、冬には寒風を防ぎ、また、木陰を作って旅人の絶好の休息場所ともなっていました。尚、近くには、「御油の松並木資料館」があって、御油の松並木と御油宿に関する資料が展示されています。

(7)関宿<三重県亀山市>
 東海道の江戸・日本橋から数えて47番目の宿場で、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する交通の要衝として、以前は栄えたのです。その昔ながらの風景が残っていて、江戸時代の街道や宿場の雰囲気に感動するのです。東海道では一番往時の町並みを色濃く残していることから、1984年(昭和59)に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。町並みの中には、関まちなみ資料館(江戸末期の町家を公開)、旅籠玉屋歴史資料館(旅籠建築を公開)、鶴屋脇本陣(波田野家)、川北本陣跡、百六里庭、伊藤本陣跡、深川屋(銘菓「関の戸」販売)、地蔵院(鐘楼が国の重要文化財)、伊勢鳥居、道標などがあって、江戸時代の街道の様子を知りながら散策することができます。

(8)草津宿<滋賀県草津市>
 東海道と中山道とが分かれる追分のあるところで、今でも本陣の建物が現存しています。その田中七左衛門本陣は別名木屋本陣とも呼ばれ、兼業で材木商を営んでいました。現在の建物は18世紀末以降の再建で、1843年(天保14)の資料では、建坪468坪、門構え、玄関付、敷地1,305坪と記され、五街道でも最大級のものです。現在、国の史跡に指定され、7年間の保存整備事業を終えて一般公開されていて、その偉容を見学することができます。

☆東海道53次一覧

1. 品川宿 2里 (東京都品川区)
2. 川崎宿 2里半 (神奈川県川崎市川崎区)
3. 神奈川宿 2里半 (神奈川県横浜市神奈川区)
4. 程ヶ谷宿 1里9丁 (神奈川県横浜市保土ケ谷区)
5. 戸塚宿 2里9丁 (神奈川県横浜市戸塚区)
6. 藤沢宿 1里30丁 (神奈川県藤沢市)
7. 平塚宿 3里半 (神奈川県平塚市)
8. 大磯宿 27丁 (神奈川県中郡大磯町)
9. 小田原宿 4里 (神奈川県小田原市) 小田原城下
10. 箱根宿 4里8丁 (神奈川県足柄下郡箱根町) 箱根関跡
11. 三島宿 3里28丁 (静岡県三島市)
12. 沼津宿 1里半 (静岡県沼津市)
13. 原宿 1里半 (静岡県沼津市)
14. 吉原宿 3里6丁 (静岡県富士市)
15. 蒲原宿 2里30丁 (静岡県静岡市清水区)
16. 由比宿 1里 (静岡県静岡市清水区) 本陣公園
17. 興津宿 2里12丁 (静岡県静岡市清水区)
18. 江尻宿 1里3丁 (静岡県静岡市清水区)
19. 府中宿 2里29丁 (静岡県静岡市葵区) 駿府城下
20. 鞠子宿 1里半 (静岡県静岡市駿河区)
21. 岡部宿 1里29丁 (静岡県藤枝市)
22. 藤枝宿 1里29丁 (静岡県藤枝市)
23. 島田宿 2里8丁 (静岡県島田市) 川越遺跡
24. 金谷宿 1里 (静岡県島田市)
25. 日坂宿 1里24丁 (静岡県掛川市)
26. 掛川宿 1里19丁 (静岡県掛川市)掛川城下
27. 袋井宿 2里16丁 (静岡県袋井市)
28. 見付宿 1里半 (静岡県磐田市) 姫街道と分岐
29. 浜松宿 4里7丁 (静岡県浜松市中区)浜松城下
30. 舞坂宿 2里30丁 (静岡県浜松市西区) 脇本陣
31. 新居宿 1里 (静岡県湖西市) 新居関所
32. 白須賀宿 1里24丁 (静岡県湖西市)
33. 二川宿 2里16丁 (愛知県豊橋市) 本陣資料館
34. 吉田宿 1里20丁 (愛知県豊橋市)吉田城下
35. 御油宿 2里22丁 (愛知県豊川市) 姫街道と分岐
36. 赤坂宿 16丁 (愛知県豊川市)
37. 藤川宿 2里9丁 (愛知県岡崎市) 本陣跡広場
38. 岡崎宿 1里25丁 (愛知県岡崎市)岡崎城下
39. 池鯉鮒宿 3里30丁 (愛知県知立市)
40. 鳴海宿 2里30丁 (愛知県名古屋市緑区)
41. 宮宿 1里半 (愛知県名古屋市熱田区)熱田神宮周辺。
<海上七里の渡し>
42. 桑名宿 3里 (三重県桑名市) 桑名城下
43. 四日市宿 3里8丁 (三重県四日市市)
44. 石薬師宿 2里27丁 (三重県鈴鹿市)
45. 庄野宿 27丁 (三重県鈴鹿市)
46. 亀山宿 2里 (三重県亀山市) 亀山城下
47. 関宿 1里半 (三重県亀山市)重要伝統的建造物群保存地区
48. 坂下宿 1里24丁 (三重県亀山市)
49. 土山宿 2里半 (滋賀県甲賀市)
50. 水口宿 2里25丁 (滋賀県甲賀市)
51. 石部宿 3里12丁 (滋賀県湖南市)
52. 草津宿 2里25丁 (滋賀県草津市) 田中七左衛門本陣 中山道と分岐
53. 大津宿 3里24丁 (滋賀県大津市)

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旅の豆知識「百姓一揆」

2017年08月01日 | 旅の豆知識
 近年、日本の近世にあたる江戸時代に関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、江戸時代のいろいろな足跡を訪ねてみるのも、興味深いものです。
 その中で今日は、あまり旅のテーマとする人が少ない「百姓一揆」について見てみたいと思います。
 旅先で、地方の寺院を訪ねると、墓地に「義民〇〇の墓」というのを見かけることがあります。これは江戸時代の百姓一揆の首謀者の場合が多いのです。当時、一揆は御法度で、首謀者は死罪とされていました。しかし、不作や物価高騰のためやむなく立ち上がり、訴えは聞き入れられたものの、処刑されたケースが多いのです。また、寺社に祀られたり、顕彰碑が建てられたり、資料館がある場合もあります。それらの人々は、義民として、末永く顕彰されて、代々語り継がれていったのです。
 そんな足跡に巡り合ったときは、江戸時代の農民の暮らしぶりやいろいろな思いが交錯して、感慨深いものです。

〇「百姓一揆」とは?
 江戸時代に、農民を中心に徒党を組み、幕府や大名などに対して行なった闘争で、江戸時代を通じて 3,000件以上に及ぶと言われています。その原因は、領主の苛政、検地、年貢増徴、専売制、特権商人の横暴、助郷負担の強化などでした。その形態は、暴動、強訴、越訴、逃散、打ち毀しなど様々でした。

☆「百姓一揆」関連のお勧め

(1)三閉伊一揆の関係地<岩手県下閉伊郡田野畑村>
 三閉伊一揆は、江戸時代後期の1847年(弘化4)および1853年(嘉永6)に南部藩で起きた百姓一揆で、参加者1万6千余、近世最大のものです。南部藩の悪政により、財政は困窮し、東海岸三閉伊通りの海産業に対し重税や御用金を課したことに端を発し、1847年(弘化4)に指導者弥五兵衛は盛岡から来た家老を拒否し、遠野南部家に対して新たに課された御用金の撤廃をはじめとする26ヶ条の要求を提出して一揆が起こります。大挙した農民軍に圧倒された南部藩家老新田小十郎は、善処することを約束しましたが、弥五兵衛は藩の差し向けた刺客に襲われ、囚われた弥五兵衛は打ち首にされたのです。その後も、税を取り立てる役人を増やし、さらにいろいろな物に税をかけ、農民たちの暮らしはいっそう苦しくなるばかりでした。そこで、1853年(嘉永6)、野田の代官所への押し入りを機に、田野畑の畠山太助らを先導者とし、2千人が決起し、再び一揆の狼煙を上げたのでした。そして、仙台藩のはからいで盛岡藩のこれら不始末は江戸へともたらされます。盛岡藩はあわやとりつぶしの形勢から、ようやくにして藩政を改めることになり、かくして一揆は成功に終わったのですが、のちに指導者太助は自害という結末で生涯を閉じます。「田野畑村民俗資料館」には、この一揆の資料、再現模型が展示してあり、一揆を物語にしたマルチスライドを見ることができます。また、資料館のある四方見山には一揆を顕彰する像が立てられ、畠山太助の生家跡にも碑があります。

(2)茂左衛門地蔵尊千日堂<群馬県利根郡みなかみ町>
 沼田藩主真田信利は、凶年続きで困苦のどん底にあえいでいる百姓から苛酷な取立てを行い滞納者には残酷な刑罰に処しました。この惨状を見るにしのびず利根、吾妻、勢多の3郡177ヶ村の領民のために一命を捨てる覚悟で立ち上がったのが月夜野の百姓茂左衛門で、江戸時代中期の1681年(天和元)正月、領主の非行、領民の惨状をしたためた訴状を懐にひそかに江戸に上り、上野輪王寺宮から将軍家へ巧妙な方法で直訴に成功しました。時の将軍(家綱)は取り調べの結果、罪状明確なので伊賀守は改易沼田城破却の運命となりました。茂左衛門は幕吏に捕らえられ江戸送りとなり、取調べの上所成敗となり、1682年(天和2)12月5日月夜野竹の下河原で磔刑に処せられたのです。領民はその死をいたみ刑場跡に地蔵尊を建て供養を続けました。そこに建てられているのが千日堂で、茂左衛門が祀られています。また、磔刑に処せられたところに“義人茂左衛門刑場跡”の碑が立っています。
 
(3)宗吾霊堂<千葉県成田市>
 鳴鐘山東勝寺のことで、義民・佐倉惣五郎の霊が祀られていることからこう呼ばれています。江戸時代前期の頃、佐倉惣五郎は、年貢の取り立てが年々厳しさを増す中で、佐倉藩領を代表して殿様への直訴を申し出ましたが聞き入れられませんでした。さらに、惣五郎は藩主である堀田氏の苛政を、藩や江戸役人、幕府老中にも訴えましたが、これも聞き入れられませんでした。このため、1653年(承応2)、上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴しました。その結果、藩主の苛政は収められましたが、惣五郎は磔となる一方、子供も死罪となってしまったのです。境内には、御廟(佐倉惣五郎父子の墓)や「宗吾霊宝殿」(惣五郎の遺品や関係文書などが展示)があります。また、「宗吾御一代記館」では、惣五郎の生涯を偲び、甚兵衛渡し・妻子との別れ・直訴から処刑に至るまでを人形66体13場面の立体パノラマで展示してあります。北へ2kmほど行ったところには、佐倉惣五郎の旧宅も残されています。

(4)貞享騒動の関係地<長野県安曇野市>
 貞享騒動は、江戸時代中期の1686年(貞享3)に信濃国松本藩で発生した百姓一揆で、中心となった多田加助の名前から、加助騒動とも呼ばれています。この年の安曇平における作柄は、例年と比べて不作だったにもかかわらず、松本藩は年貢を1.4倍以上増やすように命じました。これに対し、多田加助を中心とした同志11名は、松本の郡奉行所へ、年貢の減免を含む5か条の訴状を提出することになりました。この計画が藩内各組に伝わったため、1万とも伝えられる百姓が松本城周辺へ押し寄せる騒ぎとなったのです。藩側は、一端は要求をのむとして引き取らせながら、すぐに年貢減免の約束を反故にし、翌月関係者を捕縛しました。そして、多田加助ら磔8名、獄門20名の極刑に処したのです。騒動の後、年貢の減免は認められなかったものの、元通りにすることにはなりました。その後、犠牲者を義民として顕彰する動きが起こり、加助神社がつくられ、義民塚も設けられました。現在では、「貞享義民記念館」がつくられて、関係資料が展示されています。また、多田加助旧宅跡が長野県文化財に指定されています。

(5)郡上一揆の関係地<岐阜県郡上市>
 郡上一揆は、江戸時代中期の宝暦年間に郡上藩で起きた大規模な百姓一揆です。その結果、郡上藩主金森氏が改易され、幕閣中枢部の老中、若年寄の失脚を招きましたが、一揆の中心人物4名が獄門、次の10名が死罪、その他遠島1名、重追放6名、所払い33名など一揆側も大量処分を受けました。これに関して、郡上八幡城跡には郡上義民顕彰碑、年貢徴収法改正反対の結束を固めた南宮神社、庄屋、組頭が郡上藩側から呼び出された笠松陣屋跡、一揆の中心人物前谷村定次郎や歩岐島村四郎左衛門などの顕彰碑、一揆の中心人物の首が獄門にされた穀見刑場の跡などの関係地が、郡上市内に散在していて、当時の様子をうかがうことができます。

(6)武左衛門一揆の関係地<愛媛県北宇和郡鬼北町>
 武左衛門一揆は、江戸時代後期の1793年(寛政5)に伊予吉田藩(宇和島藩の分家で3万石)で、紙専売制に反対して起こった大規模な百姓一揆です。百姓武左衛門を指導者として、山奥地方8ヶ村の農民が蜂起し、全藩領を巻きこんで宮野下村に出て、さらに宗藩の宇和島藩に訴えるため、同城下に近い八幡河原に参集し、その数は約8千名にまで及びました。伊予吉田藩は家老の安藤継明(儀太夫)が八幡河原に出向き、責任をとって自決し、農民は貢租、専売制、夫役などについて全面的に勝利したのです。しかし、指導者の武左衛門は翌年捕らえられ処刑されました。武左衛門の出身地である日吉村(現在の北宇和郡鬼北町)では、武左衛門ら一揆の主導者を義農として崇敬顕彰していて、済世救民武左衛門及同志者碑(町指定有形文化財)や武左衛門堂(武左衛門の木像を安置)が建てられ、さらに近年「武座衛門一揆資料館」もできたのです。館内では、武左衛門が一揆を起こした経緯から、一揆を大成功に治め刑に処されるまでを、群像やモニターなどを使って分かりやすく展示しています。また隣接して、「歴史民俗資料館」や「大野作太郎地質館」、「明星草庵」、他の施設があります。尚、自決した家老安藤継明も、安藤神社(宇和島市吉田町)に祀られています。。

☆江戸時代の主要な百姓一揆一覧

・1603年(慶長8):滝山一揆<現在の高知県>
・1608年(慶長13):山代慶長一揆<現在の山口県>
・1614年(慶長19):北山一揆<現在の和歌山県・三重県>
・1615年(慶長20):紀州一揆<現在の和歌山県>
・1620年(元和6):祖谷山一揆<現在の徳島県>
・1637年(寛永14):島原・天草一揆(島原の乱)<現在の長崎県・熊本県>
・1652年(承応元):小浜藩領承応元年一揆<現在の福井県>
・1677年(延宝5):郡上一揆<現在の岐阜県>
・1686年(貞享3):貞享騒動(加助騒動)<現在の長野県>
・1690年(元禄3):山陰・坪谷村一揆<現在の宮崎県>
・1722年(享保7):越後質地騒動<現在の新潟県>
・1726年(享保11):美作津山八千人暴動<現在の岡山県>
・1739年(元文4):元文一揆(勘右衛門騒動)<現在の鳥取県>
・1748年(寛延2):姫路藩寛延一揆<現在の兵庫県>
・1753年(宝暦3):籾摺騒動<現在の栃木県>
・1761年(宝暦11):上田騒動<現在の長野県>
・1764年(明和元):伝馬騒動<現在の埼玉県他>
・1768年(明和5):新潟明和騒動<現在の新潟県>
・1771年(明和8):虹の松原一揆<現在の佐賀県>
・1771年(明和8):大原騒動<現在の岐阜県>
・1781年(天明元):絹一揆<現在の群馬県>
・1786年(天明6):宿毛一揆<現在の高知県>
・1793年(寛政5):武左衛門一揆<現在の愛媛県>
・1804年(文化元):牛久助郷一揆<現在の茨城県>
・1825年(文政8):赤蓑騒動<現在の長野県>
・1831年(天保2):長州藩天保一揆<現在の山口県>
・1836年(天保7):天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)<現在の山梨県>
・1838年(天保9):佐渡一国一揆<現在の新潟県>
・1842年(天保12):山城谷一揆<現在の徳島県>
・1842年(天保13):近江天保一揆<現在の滋賀県>
・1847年(弘化4):三閉伊一揆<現在の岩手県>

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