近年、日本の中世に、関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、この時代のいろいろな史跡を訪ねてみるのも、とても興味深いものです。
その中で今日は、旅のテーマとしてこの時期の「元寇」について見てみたいと思います。
鎌倉時代に、中国に於いて大帝国となった元から、服属を求める使者が何度か来日し、鎌倉幕府がそれにあたりましたが、服属を拒否したため、元軍の襲来を受けることになりました。それは、1274年(文永11)の文永の役、と1281年(弘安4)の弘安の役と2回ありましたが、いずれも元軍が敗退して、退散したのです。しかし、このことは鎌倉幕府の勢力を弱め、幕府滅亡へとつながっていきます。
とても興味深い歴史ですが、北部九州や壱岐・対馬などを旅すると結構、元寇関係の遺跡に巡り合うこともあり、いろいろと考えさせられるところです。歴史上の一大事件でしたので、ぜひ心がけて訪ねてみてはいかがでしょうか。
〇「元寇」とは?
鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。
1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んでいます。台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。
2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになりました。やむを得ず幕府は徳政令を発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。
☆「元寇」関連のお勧め
(1)対馬島<長崎県対馬市>
対馬島の西南側の海岸線に出ると小茂田の元寇古戦場があります。小茂田浜神社に立ち寄りましたが、ここには、1274年(文永11)の元寇の文永の役において、戦って散った対馬守護代の宗助國が祀られていました。なんでも、元の大軍3万人に対して、たった80騎で立ち向かって討ち死にしたと書かれていました。
(2)壱岐島<長崎県壱岐市>
玄界灘に浮かぶこの島は、鎌倉時代中期の元冦の悲劇を背負っています。元の大軍に攻められ、わずかばかりの武士団の奮闘むなしく、全滅しました。島民もほとんどが虐殺されたと伝えられています。まず、小弐公園へ行きましたが、ここは、1281年(弘安4)の弘安の役の激戦地で、当時の守護代小弐資時の墓があります。まだ19歳の若者だったそうですが、先頭になって戦い、全員討死したとのことです。次に、元寇千人塚にも立ち寄りましたが、こちらは1274年(文永11)の文永の役の方の古戦場とのことでした。近くに新城神社があって、ここには文永の役当時の守護代平景隆の墓がありました。これ以外にも古戦場や塚があり、全島外敵からの侵略の歴史といった感じで、そのたびに多くの武士や島民が犠牲になったと聞きました。その墓石や碑に悲哀を感じざるを得ませんでした。
(3)鷹島<長崎県松浦市>
この島は2度の元寇と深いかかわりを持っています。1274年(文永11)の文永の役では、元軍が鷹島に上陸して住民を虐殺しています。また続く、1281年(弘安4)の弘安の役では平戸島から鷹島に進出してきた元軍に対して、集結した日本軍が攻撃を仕掛けて海戦(鷹島沖海戦)となりました。この際に沈没した元軍船を巡って水中考古学の立場から調査が行われ、パスパ文字で作成された「管軍総把印」を始め船舶に関する遺物や武器・武具などが多く発見されており、遺物がある南岸一帯は埋蔵文化財包蔵地として登録されています。その一部は、「松浦市立鷹島歴史民俗資料館」や「鷹島埋蔵文化財センター」で見ることができます。
(4)筥崎宮<福岡県福岡市東区>
鎌倉時代の元寇の際には、敵国降伏の神として崇められましたが、これによって社殿を焼失したため、1275年(建治元)社殿を再建して正遷宮を行い、亀山上皇が祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられたことで有名です。この神社(旧官幣大社)の祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫命で、筑前国一宮として知られています。759年(天平宝字3)八幡神の神託を受け「しるしの松」の下に社殿が造営されたと伝えられる古社で、『延喜式神名帳』には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載されているのです。また、921年(延喜21)宇佐八幡宮を勧請し鎮座したとも伝えられています。宇佐神宮・石清水八幡宮と並び天下三大八幡といわれました。現在の本殿・拝殿は1546年(天文15)、楼門は1594年(文禄3)の再建で、いずれも国の重要文化財に指定されています。正月3日に行われる玉取祭は有名です。尚、境内に蒙古軍船の碇石(県指定文化財)が置かれています。
(5)元寇史料館<福岡県福岡市博多区>
ここは、1904年(明治37)に「元寇記念館」として設立されましたが、これを東公園内の日蓮上人銅像護持教会敷地に移築して、1986年(昭和61)に「元寇資料館」として再オープンしたのものです。館内には、元寇(文永の役・弘安の役)に関する両国の武具(モンゴル型の鎧など)や元寇に関する芸術品(矢田一嘯作の元寇絵など)、日蓮宗史、江戸期の刀剣、火縄銃などの展示があります。
(6)元寇防塁跡<福岡県福岡市>
元寇防塁跡(げんこうぼうるいあと)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた防塁の跡で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名です。1274年(文永11)に、第1回元寇(文永の役)にあった鎌倉幕府は、翌年から異国警護のために元寇防塁(石築地)を築造させました。総延長は約20kmに及んだとされ、1281年(弘安4)の第2回元寇(弘安の役)の際には、役に立ったということです。年代を経て風化が進み、地中に埋もれているところもありますが、今津地区(西区)、西新地区(早良区)、地行地区(中央区)、地蔵松原地区(東区)をはじめ、9地区に防塁が残っていて、1931年(昭和6)に国の史跡に指定され、1981年(昭和56)に追加指定がありました。
☆元寇関係の年表
<1266年(弘長元)>
・ 蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した。
<1268年(文永5)>
・1月 蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した。
<1269年(文永6)>
・2月 蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した。
・9月 拉致した対馬の住民を護送する使者が対馬を訪れる。
<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する。
・10月5日 対馬に上陸して、多くの島民を殺害する。
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する。(文永の役)
<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる。
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する。
<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する。
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける。
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する。
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する。
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する。
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する。
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する。
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する。
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する。
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する。
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する。(弘安の役が終わる)
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その中で今日は、旅のテーマとしてこの時期の「元寇」について見てみたいと思います。
鎌倉時代に、中国に於いて大帝国となった元から、服属を求める使者が何度か来日し、鎌倉幕府がそれにあたりましたが、服属を拒否したため、元軍の襲来を受けることになりました。それは、1274年(文永11)の文永の役、と1281年(弘安4)の弘安の役と2回ありましたが、いずれも元軍が敗退して、退散したのです。しかし、このことは鎌倉幕府の勢力を弱め、幕府滅亡へとつながっていきます。
とても興味深い歴史ですが、北部九州や壱岐・対馬などを旅すると結構、元寇関係の遺跡に巡り合うこともあり、いろいろと考えさせられるところです。歴史上の一大事件でしたので、ぜひ心がけて訪ねてみてはいかがでしょうか。
〇「元寇」とは?
鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。
1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んでいます。台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。
2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになりました。やむを得ず幕府は徳政令を発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。
☆「元寇」関連のお勧め
(1)対馬島<長崎県対馬市>
対馬島の西南側の海岸線に出ると小茂田の元寇古戦場があります。小茂田浜神社に立ち寄りましたが、ここには、1274年(文永11)の元寇の文永の役において、戦って散った対馬守護代の宗助國が祀られていました。なんでも、元の大軍3万人に対して、たった80騎で立ち向かって討ち死にしたと書かれていました。
(2)壱岐島<長崎県壱岐市>
玄界灘に浮かぶこの島は、鎌倉時代中期の元冦の悲劇を背負っています。元の大軍に攻められ、わずかばかりの武士団の奮闘むなしく、全滅しました。島民もほとんどが虐殺されたと伝えられています。まず、小弐公園へ行きましたが、ここは、1281年(弘安4)の弘安の役の激戦地で、当時の守護代小弐資時の墓があります。まだ19歳の若者だったそうですが、先頭になって戦い、全員討死したとのことです。次に、元寇千人塚にも立ち寄りましたが、こちらは1274年(文永11)の文永の役の方の古戦場とのことでした。近くに新城神社があって、ここには文永の役当時の守護代平景隆の墓がありました。これ以外にも古戦場や塚があり、全島外敵からの侵略の歴史といった感じで、そのたびに多くの武士や島民が犠牲になったと聞きました。その墓石や碑に悲哀を感じざるを得ませんでした。
(3)鷹島<長崎県松浦市>
この島は2度の元寇と深いかかわりを持っています。1274年(文永11)の文永の役では、元軍が鷹島に上陸して住民を虐殺しています。また続く、1281年(弘安4)の弘安の役では平戸島から鷹島に進出してきた元軍に対して、集結した日本軍が攻撃を仕掛けて海戦(鷹島沖海戦)となりました。この際に沈没した元軍船を巡って水中考古学の立場から調査が行われ、パスパ文字で作成された「管軍総把印」を始め船舶に関する遺物や武器・武具などが多く発見されており、遺物がある南岸一帯は埋蔵文化財包蔵地として登録されています。その一部は、「松浦市立鷹島歴史民俗資料館」や「鷹島埋蔵文化財センター」で見ることができます。
(4)筥崎宮<福岡県福岡市東区>
鎌倉時代の元寇の際には、敵国降伏の神として崇められましたが、これによって社殿を焼失したため、1275年(建治元)社殿を再建して正遷宮を行い、亀山上皇が祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられたことで有名です。この神社(旧官幣大社)の祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫命で、筑前国一宮として知られています。759年(天平宝字3)八幡神の神託を受け「しるしの松」の下に社殿が造営されたと伝えられる古社で、『延喜式神名帳』には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載されているのです。また、921年(延喜21)宇佐八幡宮を勧請し鎮座したとも伝えられています。宇佐神宮・石清水八幡宮と並び天下三大八幡といわれました。現在の本殿・拝殿は1546年(天文15)、楼門は1594年(文禄3)の再建で、いずれも国の重要文化財に指定されています。正月3日に行われる玉取祭は有名です。尚、境内に蒙古軍船の碇石(県指定文化財)が置かれています。
(5)元寇史料館<福岡県福岡市博多区>
ここは、1904年(明治37)に「元寇記念館」として設立されましたが、これを東公園内の日蓮上人銅像護持教会敷地に移築して、1986年(昭和61)に「元寇資料館」として再オープンしたのものです。館内には、元寇(文永の役・弘安の役)に関する両国の武具(モンゴル型の鎧など)や元寇に関する芸術品(矢田一嘯作の元寇絵など)、日蓮宗史、江戸期の刀剣、火縄銃などの展示があります。
(6)元寇防塁跡<福岡県福岡市>
元寇防塁跡(げんこうぼうるいあと)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた防塁の跡で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名です。1274年(文永11)に、第1回元寇(文永の役)にあった鎌倉幕府は、翌年から異国警護のために元寇防塁(石築地)を築造させました。総延長は約20kmに及んだとされ、1281年(弘安4)の第2回元寇(弘安の役)の際には、役に立ったということです。年代を経て風化が進み、地中に埋もれているところもありますが、今津地区(西区)、西新地区(早良区)、地行地区(中央区)、地蔵松原地区(東区)をはじめ、9地区に防塁が残っていて、1931年(昭和6)に国の史跡に指定され、1981年(昭和56)に追加指定がありました。
☆元寇関係の年表
<1266年(弘長元)>
・ 蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した。
<1268年(文永5)>
・1月 蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した。
<1269年(文永6)>
・2月 蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した。
・9月 拉致した対馬の住民を護送する使者が対馬を訪れる。
<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する。
・10月5日 対馬に上陸して、多くの島民を殺害する。
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する。(文永の役)
<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる。
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する。
<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する。
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける。
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する。
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する。
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する。
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する。
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する。
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する。
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する。
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する。
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する。(弘安の役が終わる)
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