このブログを手帳代わりにして、最近特に興味を持って読んでいるトランスパーソナル理論を下地に魂のことを考えてみたいと思います。
世界を全体的に把握しようとするとき、有神論も唯物論も唯心論も生命感に欠けます。精神的と物質的、それらは「宇宙・世界」の一面として重要ですが、「宇宙・世界」を生命的に見よう、それこそ全的把握である、というのが私の立場、視点です。世界精神や世界霊魂とかいう考え方がありますが、それはそれとして多くの真実を持っているのですが、ここでは「宇宙・世界」は「永遠(永遠なる全体者)」の「身体的・肉体的現象」という視点から考えてみたいと思います。いわば「世界生命論」です。「永遠」の体は一つです。仏教や量子論の(一部)にあるような、無死永劫や多世界多元宇宙的的世界観は魅力的ですが、あまりにも不経済な考え方で妄想というものでしょう。「時間」や「空間」を超えた「無」の次元での無死永劫や多世界宇宙を考える向きもあるかも知れませんが、「無」において時間や空間をいうこと自体矛盾です。「永遠」を生命体的存在と考えるとき、身体が同時的にたくさんあると考える必要性はないと思います。別の身体の存在を認めるとすれば必然的に無限の数の身体を認めるということになるでしょう。「永遠」を生き死にを繰り返す生命体としてみるとき、その目はどこにあるでしょうか。そのすべての生物の目がそれです。耳も鼻も舌も肌もそれです。神経組織や頭脳も生物たちのそれです。毛髪は植物や海草類、かどうかはともかく、「永遠」の「肉体」は大自然である、というように「宇宙・世界」をとらえます。ちょっと難しい言い方になりますが、色やにおい、暖かさを持った肉体としての大自然は生命の意識のなかにのみ現象します。つまり、太古の海に生命が誕生したときが「永遠」の「肉体」の発生と考えることができます。「永遠」の「身体」とは物理的エネルギー状態をいいます。生命は発達・成長します。しかしその究極の段階の後には何が来るでしょう。肉体は老化に向かいます。だから自然は老化するでしょう。それが「肉体」の原則だといえます。さてそれでは精神はどうでしょうか。精神も発達・成長するものですが、人間の場合は多くの場合精神も老化現象を起こします。なかには悟りの境地などのような至高の精神というものに達して死を迎える人もいます。「永遠」の一生にもそうした差異があるのでしょうか。この世界が痴呆化することがあるのでしょうか。あるいは自殺行為で消滅することがあるのでしょうか。現在、このまま行けば人類は滅亡してしまうのではないかと危惧している人も少なくないようです。僕は楽観派ですからそのようなことはないと考えます。「永遠」は、途中の経過は千変万化でしょうが、理想的スタイルでの一生を全うするものと思います。その理由は、人間の自我は「永遠」の自我だと考えるからです。人類とは「永遠」の自我現象で、いわば人類は「世界自我」です。「永遠の」自我なら必ず自己防御システムのようなものが働くでしょう。「永遠の自我」とはいわば神なのですから、常に相対的な力が働き、「理性」の失われることはないでしょう。
大自然という「永遠」の肉体はその進化の頂点を人類の誕生で極めたと考えていいでしょう。それ以降、火山活動の沈静化、種の絶滅化の進行を見ていると、大自然は老化に向かっているかに思われますが、実はまだ成長期にあるのかも知れません。進化は終わったのですが、成長は終わっていないのです。火山活動は新陳代謝機能の衰えかも知れません。人間の代謝機能は生まれたときから20歳くらいまで急速に衰え続けるものだそうです。20歳以降はチョロチョロパッパのようです。種の絶滅は人間の増加のせいかもしれません。肉体細胞自体は増加しているのでしょう。
このように、人類という「世界自我」は、ケン・ウイルバーの「意識のスペクトル」という考えのように、まだ少年期にあると考えられます。もちろん肉体的にも、地球規模での人口増加に見るように、人類はまだ成長期です。