中学の卒業アルバムを開いてみた。校長や教頭の顔に覚えがない。3年間の担任の顔はさすがに覚えていた。3年生の時バスケット部だったが先生の顔は覚えていない。もっとも印象に残っている先生は美術の白山先生だった。3段に整列した18人の先生たち、その最上段で一人天を仰ぎ見ていた。彼の絵画理論はシューリズムだったと思う。彼には自画像や樹木の書き方をほめられた記憶がある。もう一つ思い出したことがある。1年生の時だったと思うが、国語の時間に自分の名前について感想を書くということがあった。僕は自分の名前を意味のないもののように思っていた。父は源三郎という名だったが、その源の字をもらって源弘というのが僕の名である。一時もらっただけの意味のない名だと思っていたのである。国語の先生は「一字もらうのは立派に意味のあることです」と添削してくれた。何の意味があるのかと僕は先生に反発を感じた。しかし、今考えてみると、兄弟の中で源という字を持っているものは一人も居ない。名は体を表すというが、自分の人生のあり方、思想性に通じることもあり、不思議なことのようにも思える。父が死んだのはその先生の家の前であった。
中学校の修学旅行には参加できた。おそらく遺族年金のおかげだろう。腹違いの兄の戦没者遺族年金をもらうようになったのは昭和33年ころだかと思ったが、戦後停止されていた恩給法が再開されたのは僕が小学6年生だった昭和28年8月だそうである。孤立無援の母がそれを知ったのはもっと遅いだろうが、少なくとも1、2年後、中学2年生の頃にはもらっていたのかもしれない。徴兵であり、上海の病院で24才で病死したのだから金額はそれほど多くなかっただろうが、暮らしは少し楽になったようだ。その頃の母の日課は仏壇に向かって浄土真宗のお経を読むことだったように思う。
修学旅行の行き先は鎌倉、箱根、東京だった。覚えているのは下痢と東京踊りである。下痢は無茶食いのせいだったかもしれない。空腹時代の反動だろう。扁桃腺肥大もあって悲惨な旅だったように思う。
3年生の時、卒業した先輩から受け継ぐ形で新聞配達を始めた。この先輩には恩がある。隣村の神社の祭りで上映された映画を鑑賞中、大声でしゃべっている連中がいたので、静かにするように注意したら建物の裏に連れ込まれてリンチされそうになった。今から思うといわゆるチンピラ連中だっただろう。それを止めてくれたのがその先輩だった。彼の兄がやくざの幹部だったから連中も引き下がったようだ。彼の話では死んだ父に命を助けられた恩があるらしい。父は貧しい家からは金を取らなかった医者らしい。そういう話をする人は少なくなかった。新聞配達中に野菜をくれた人もいた。それも僕が悪にならなかった原因かもしれない。
さて中学卒業後の進路問題である。僕としては就職を覚悟していた。勉強は夜間に通えばいいくらいに思っていた。しかし母は高校進学を主張した。それも兄の年金のおかげだろう。新聞配達をしながら公立高校へ通うことになった。