魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

中学卒業

2014-03-24 10:22:39 | Weblog

 中学の卒業アルバムを開いてみた。校長や教頭の顔に覚えがない。3年間の担任の顔はさすがに覚えていた。3年生の時バスケット部だったが先生の顔は覚えていない。もっとも印象に残っている先生は美術の白山先生だった。3段に整列した18人の先生たち、その最上段で一人天を仰ぎ見ていた。彼の絵画理論はシューリズムだったと思う。彼には自画像や樹木の書き方をほめられた記憶がある。もう一つ思い出したことがある。1年生の時だったと思うが、国語の時間に自分の名前について感想を書くということがあった。僕は自分の名前を意味のないもののように思っていた。父は源三郎という名だったが、その源の字をもらって源弘というのが僕の名である。一時もらっただけの意味のない名だと思っていたのである。国語の先生は「一字もらうのは立派に意味のあることです」と添削してくれた。何の意味があるのかと僕は先生に反発を感じた。しかし、今考えてみると、兄弟の中で源という字を持っているものは一人も居ない。名は体を表すというが、自分の人生のあり方、思想性に通じることもあり、不思議なことのようにも思える。父が死んだのはその先生の家の前であった。

 中学校の修学旅行には参加できた。おそらく遺族年金のおかげだろう。腹違いの兄の戦没者遺族年金をもらうようになったのは昭和33年ころだかと思ったが、戦後停止されていた恩給法が再開されたのは僕が小学6年生だった昭和28年8月だそうである。孤立無援の母がそれを知ったのはもっと遅いだろうが、少なくとも1、2年後、中学2年生の頃にはもらっていたのかもしれない。徴兵であり、上海の病院で24才で病死したのだから金額はそれほど多くなかっただろうが、暮らしは少し楽になったようだ。その頃の母の日課は仏壇に向かって浄土真宗のお経を読むことだったように思う。

 修学旅行の行き先は鎌倉、箱根、東京だった。覚えているのは下痢と東京踊りである。下痢は無茶食いのせいだったかもしれない。空腹時代の反動だろう。扁桃腺肥大もあって悲惨な旅だったように思う。

 3年生の時、卒業した先輩から受け継ぐ形で新聞配達を始めた。この先輩には恩がある。隣村の神社の祭りで上映された映画を鑑賞中、大声でしゃべっている連中がいたので、静かにするように注意したら建物の裏に連れ込まれてリンチされそうになった。今から思うといわゆるチンピラ連中だっただろう。それを止めてくれたのがその先輩だった。彼の兄がやくざの幹部だったから連中も引き下がったようだ。彼の話では死んだ父に命を助けられた恩があるらしい。父は貧しい家からは金を取らなかった医者らしい。そういう話をする人は少なくなかった。新聞配達中に野菜をくれた人もいた。それも僕が悪にならなかった原因かもしれない。
 さて中学卒業後の進路問題である。僕としては就職を覚悟していた。勉強は夜間に通えばいいくらいに思っていた。しかし母は高校進学を主張した。それも兄の年金のおかげだろう。新聞配達をしながら公立高校へ通うことになった。 


中学時代3

2014-03-14 10:37:49 | Weblog

 近頃はインフルエンザとかノロとかやたらに流行する、それも次々と変異を繰り返しワクチンが追いつかない。僕は一度もワクチンを打ったことがない。手洗いも消毒剤なしで雑なものである。床にこぼれたパンくずなども拾って食べる。床は滅多に掃除しない。飲料水は水道ではなく、畑の野菜程度の細菌のいる井戸水である。それで病気になったこともない。滅菌状態で育てられた現代の子供は弱い。精神もまた。現代夫婦は出生前診断で障害児の生まれる危険を避けるそうだ。人間社会に障害児が存在するのは大切な自然の摂理だろうと僕は思う。その経験は精神を発達させる。そして、逃げるものにはさらなる不幸が襲いかかるだろう。

 小学校の同級会が3年に1度くらいの割合である。奇妙なことだが中学の同級会には出ないが小学校のには出るという人もいる。おそらくいい思い出がないのだろう。小学校時代は成績優秀でも、中学ではあまりふるわなかったということもあるのだろう。いじめ大将株だったらしいやつはどちらにも出ない。僕は彼らに対する記憶もほとんどない。
 Yくんの両親は教師でキリスト教徒だったらしい。彼にいわせると僕は彼が貸してくれた聖書を一生懸命読んだようだ。神社やお寺にも興味があって、近くに住んでいた祢宜さんを訪問して祝詞のことを聞いたような記憶もある。漫画本も好きだった。あらゆるジャンルの本を読みまくっていたようだ。図書室にもよく通った。美人の先輩が受付にいたりして、羞恥心の塊のような僕は地に足がつかない思いだった。

 好奇心、知識欲は旺盛だったのだ。しかし記憶するということが嫌いだった。数学の公式を覚えるのが苦手で、テストでは論理だけで正解を導いた。教師の採点には公式を使ってくださいとあった。僕には1+1=2という公式が理解できなかった。計算ができないわけではなかった。公式の成り立ちが不思議だったのである。おそらく世の中に対する不信感、懐疑心が裏にあったのかもしれない。
 中学校の卒業アルバムで見ると明るい顔をしていた。明るい顔をしていたのは見せかけや人に好かれたいからではなかったように思う。そのときそのときを楽しんでいたように思う。どんないやなこともさっさと忘れて前に進むのが僕の生き方だった。忘れることが僕の特技と言ってもいいだろう。


無差別殺人、愛されたい魂の転落

2014-03-10 10:06:44 | Weblog

 子供の代わりに婚活だって。大学受験にも両親が付き添う時代だ。世も末といいたいが死語だろうか。そして、手に負えなくなったら見捨てる、さんざん甘やかしておいてそれはないだろう。

 イギリスのハリー王子が一生懸命にボランティアして賞賛されているらしい。王室廃止論が強まっているのだから一生懸命いい人でなければ未来が危うい。

 いい人であり続けるのは大変、浅田真央はその意識が強すぎたから自分自身になりきれなかった。自意識過剰は、幼少期からスターだったせいもあるだろう。マスコミが持ち上げすぎたせいもあるだろう。ベートーベンのまねものに過ぎない曲を、まるで名曲かのように喧伝してもらった佐村河内(醜悪な記者会見だった)のことでもいえるが、マスコミの嫌悪すべき詐欺的な負の面である。古代ローマ帝国以来、スターを作り出して金や権力を得、維持しようとするのが権力者の常である。

 人面のいい人間にろくなやつはいないというが、スターの転落人生は少なくない。真生は最後にスター性を取り戻してよかった。義足の英雄の妻殺しもある。三重の少女殺害は評判のいい18才の高校生だった。金目的かは疑問だ。彼は挫折していたので花火でのぼせ上がり、鬱憤のはけ口を求めて引きずり込んだのだろう。

  名古屋の暴走車無差別殺人未遂事件についてのその後の報道はない。頭のけがによる人格障害(解離性障害に似ている)が 明らかになったからだろうか。精神の障害だとすれば、この容疑者の家族は無責任にも彼から逃げ、病院にも入れず孤立させていたことになる。甘やかして育て、手に負えなくなると逃げ出す無責任な親たちは少なくない。柏市の通り魔竹井聖寿も人格障害、精神疾患だろう。人のためによくしたいといい、よい人を志した彼が殺人者になったのは挫折が引き金になったと考えられる。幼少期に甘やかされた様子が見える。武器に執着するところに破壊欲が現れている。過保護の親への依存心が、成長に従って自立を促され無意識の殺意となったのだろう。そして異常性の発現とともに見放されたのだ。いや、過保護の囲いを破壊したいという欲望が第一原因かもしれない。奇しくも聖の字を共有する酒鬼薔薇聖人のフアンだという。


 

酒鬼薔薇の筆跡や文章のうまさ、利き腕の違いなどによる冤罪疑惑については二重人格や多重人格のように、この人格の時は優れた能力、違った能力を発揮できたのかもしれないと考えられる。酒鬼薔薇には解離性障害はないと診断されたようだが、診断ミスではないだろうか。特定不能の解離性障害という症例もあるようだ。


  身勝手な事件が多いという、身勝手でない事件とは何だろう。いじめなどの原因があるという意味だろう。甘やかされて育った子が大きくなって他人との関係に、愛されないという怒りから起こす事件であろう。自分を破壊する代わりに他人を破壊しようとすることが多いようだ。僕の場合は幼児期から愛されることに絶望していた。そのために破壊欲が強く、剣や銃に強くあこがれていたように思う。しかし、元から愛されていないので愛されていることの喪失感による殺意ではない。とはいえ殺人者になる可能性は大きかっただろう。
 男の子は皆武器が好きである。男の子はものを分解するのが好きなようだが、探求心も破壊欲の一種ではないかと思う。愛するということは破壊心に似ている。幼児期、僕は自分の糞をいじくる癖があったと誰かに聞いた覚えがある。この探求心が僕を救ったのではないだろうか。 


中学時代2

2014-03-06 09:37:20 | Weblog

 NHK「ダーウインがきた」を見て生命の神秘を思う人は多いだろう。美しくも悲しく、けなげな生命の宴である。本能で生きる、それを無邪気ということもできる。しかし人間は本能的欲望をあからさまに見せるのを恥じる。人間の場合は邪気があるのである。本能に邪気が混じるのである。邪気とは物の怪が原意だろう。肉体は物の怪に憑かれて病気になる。心が物の怪に憑かれると人に害を与えようとする悪意を持つ。そのように昔は考えられていた。現代人は身体、心の歪み、身心の病と考えている。歪みや病はエゴという精神活動によって生まれる。それ故に古の聖人はエゴから離れようとした。しかし、エゴという精神活動、生命的にいえば精神の代謝活動もまた神秘ではないか。エゴを離れて人類という生命は存在しない。人は歴史物語に感動する。人間の歴史とはエゴという精神的代謝活動の歴史でもある。現代も人類はエゴの争いが休み無く続けている。これも歴史の一コマ、大国同士の角突き合い、あるいはご近所トラブル、喧嘩も、水牛の角突き合い、蝸牛角上の争いも生命運動と眺めれば感動すら覚えるだろう。自分自身の歴史に対してもそうありたいと思う。
 しかし自分自身のこととなると忸怩たる思いがある。


じくじたる(恥じ入る様)という言葉は、恥を忘れた現代日本ではもう死語かもしれない。


 記憶にないが、同級生によると僕は親孝行で表彰されたことがあるらしい。仕事で帰りの遅い母に代わって食事を作ったりして兄弟の面倒を見、畑仕事を手伝った。夏冬の休みにはタイル工場の仕事も手伝うこともあったからだろう。表彰状をどうしたか、破って捨ててしまったのではないだろうか。世間だけではなく母親からも愛されることに絶望していてひねくれていたのである。先生に対する尊敬心もなかった。3年間級長を務めたのが不思議なくらいである。外面的には結構明るかったように思う。遊びも運動もしっかりやったように思う。同級生と相撲を取ったりもした。劣等感の裏返しで何でも一番志向が強かったように思う。飛び馬では実力以上の最高段に挑戦して股関節を痛めてしまった。これも終生の欠陥となってしまった。関節炎の手で鉄棒の大車輪に挑戦して転落したことがあったような気もする。

 話し方大会というのだっただろうか、宮沢賢治について話した。赤面屋の僕は上の空で、けっきょっく原稿を読み切る前に時間切れになった気がする。英語での話し方大会にも出たような気がするが、どうなったかは覚えていない。