韓国ではW杯予選敗退の選手を侮辱するためにサポーターが出迎えた。改めて韓国人について考えさせられた。
安倍首相は軍事力を背景にした平和主義を唱えている。軍事強国でなければ世界平和に資することができないというのであろう。もちろん本心は富国強兵で世界に君臨することであろう。中国の覇権主義はそれを正当化できる好機である。中国に命を狙われている(と思っている?)金正恩には安倍晋三は頼れる強者に映るのかもしれない。
戦争放棄の理想を守る国であり続けるか、戦争のできる国にするのか。もちろん戦争をしない国である方がいいに決まっている。しかし理想を守り続けるには優れた包容力や外交力が必要だ。無軍隊主義で行くとしたら、外国から侵略されたときは、ゲリラ戦法で反撃するしかない。しかし竹島や尖閣のように島をかすめ取られるような事例にはゲリラ戦は無能である。そうならないためには優れた外交力が必要なのである。
軍事国家としてやって行くには優れた闘争心や身体能力が必要だ。徴兵制度も必要になる。スマホにグルメにスターにと、列をなし惚けている現代日本の若者には無理な相談だろう。
日本の若者の自己評価は先進国の中で最も低いらしい。自分に自信がないということは強者に依存する性格ということだろう。それが小泉を誕生させたし、その後の政局の混迷を招き、安部登場にとって都合のいい状況であった。しかし、それ故に安部の理想とする国家は実現しないだろう。それでも日本は軍事国家へ向かうだろう。滑稽で悲劇である。
中国と韓国が握手した。それほど日本人が憎いのだろう。日本への併合はそれほど彼らにとって屈辱だったのだ。その気持ちはわかる。日本人は中国を脅威と感じているが、本当は韓国の方が恐しい相手かもしれない。日中戦争になれば韓国は火事場泥棒を狙うだろう。彼らにとって日本は悪の国である。悪に対してはどんなことをしてもいいと彼らは思っているらしい。だからといって軍事力で彼らを抑えるのは賢明ではない。それでは恨みはいつまでも消えないからだ。永遠の戦闘状態に陥ってしまう。温かい心と忍耐と努力のみが凍った心を溶かすことができる。このまま安部を許せば道は戦争に通じることだろう。それを止めることができるのは政権与党だけだが、口では批判しても誰もその行動をとらない。
大泣き記者会見によって世界中で有名になった政治家がいる。悪さを見つかったガキそのものだった。これが現代日本における政治家の資質というものだろう。ひいては国民の資質というものであろう。
1時間に1回くらい白色透明の痰が出る。呼吸器疾患は老化現象とともにウイルスの力が勝り、慢性気管支炎化したのではないだろうか。
38才頃までの僕は唯物論的世界観に支配されていただろう。神が死んだ現代世界において、倫理は社会的に恵まれたものたちのためのものでしかなかった。彼らの私有財産、地位、権力を守るためのものでしかなかった。それ故現代世界に横行する挫折者たちの無差別殺人も理解できる。「この先生きていてもいいことはない。それなら社会を抹殺しよう」というのが彼らの意志だろう。僕が彼らと違うのは絶望という感覚とは無縁だったからだろう。ランボーの「もとより希望があるものか、願いのすじがあるものか」(永遠)という句を思い出す。僕はそのときそのときの欲望に生きていた。人類とか自然とかの過去現在未来を夢見ていたが、自分自身を振り返らなかった。それゆえ僕には自分を殺すという発想も社会を破壊するという発想もなかった。叩きのめすという衝動に駆られることはあったが、実行に移したのは1,2回だけだった。後悔と哀れみの混じった不愉快の思いしかなかった。弱いものいじめの嫌いな僕には小林一茶に共感するところが多かったのである。
僕は唯物論的に「物理的エネルギーは常に調和・平安を求めているものである。自殺や殺人はもとより喧嘩もその物理法則に反するのである。」と考えていた。古代の唯物論者ともいわれるエピクロスのような自然主義の快楽主義者であった。
共産主義者としての僕は私有財産が諸悪の根源、人間疎外の始まりだと思っていたので、私有財産制度を支える結婚制度にも反対だった。自由恋愛主義者で、子供は社会で育てるという考え方だった。しかし共産主義社会の可能性は信じていなかった。
愛国者としての僕はスイス的国民皆兵制度を思っていた。私有財産制度反対の愛国者とは全体主義者だ。自然主義・快楽主義者と共産主義・全体主義者は矛盾する。共産主義と愛国主義も矛盾するだろう。
もう一つ僕には神秘主義者的な面もあった。幼少期の超自然への恐怖やあこがれの延長である。SFのような科学的神秘主義にあこがれていた。占いや占星術にこったことがある。ビギナーズラックで当たる確率が高かったこともある。多重人格のせいか、多様な人間の心が直感的にわかるような気持ちがしていた。タクシードライバーとして危険な客を乗せたことも何度かあったが、それでうまく対処できたように思う。
金縛りに遭ってから僕は占い師でもやろうかと思い立った。その手の本を探しているとき催眠術の本に出会った。守部昭夫の「催眠術入門」であった。
「とくダネ!」で50代の女性教師がのど自慢へ出場するため保護者会を欠席したことを取り上げていた。現代ではそれを許容する意見も少なくない。春に起こった、子供の入学式に出席するために担任の入学式を出席した女性教師の問題でもいえることだが、現代日本の特徴として職業倫理をどう考えるかということが根本にあるようだ。教師であろうと医者であろうと、昔は聖職といわれたが、現代では職業は職業であってそこに倫理などないと考える人は許容する。社会的倫理は存在するが職業倫理は存在しないのである。僕は教師も医者も信じていないし、聖職など精神主義時代の遺物に過ぎないと思っているからどっちでもいいのである。個人的には子供の入学式に親が出るなどくだらないと思う。しかし、それほど好きでない仕事だったら、医者や教師でも、さぼるくらいはやりかねないと思う。ただし好きでもないのに医者や教師になるかは疑問だ。僕ならならないだろう。人間の心や命に関わることを無責任に出来ないのである。自分には出来ないが、それが出来る無責任な人間の方が多いのではないかと思っている。
遠隔操作ウイルス事件の片山にだまされた弁護士が精神鑑定に持ち込もうと考えているようだ。人権派弁護士にはお人好しが多い。人格障害は完全に人格が入れ替わることであるが、片山にはそれがない。精神の発達段階は小学生くらいだろう。甘やかされた子供の、偏狭な歪んだ自我によるものであり、単に嘘つき、人の裏をかくのが好きなのである。
今朝、NHKの「ニュース深読み」で少子化問題をやっていた。人類はその成長期を終え、いまや老化に向かい初めているのではないだろうか。少子化は、生命の老化現象が必然であるように、ある意味で自然現象だと思う。しかし、東京一極集中のような、頭でっかちでゆがんだ少子化は正していいかなければならない。地方の特長を生かした人口分散は、心身をバランスよく使うことが健全な老いを迎える道であるように、社会の健全な成熟の道であろう。
僕は28才の4月、昭和44年に故郷に帰った。心身ともボロボロあった。その頃のタクシーはエアコンがなく、夏は窓を開けていたので鼻毛は真っ白になっていた。東京はまさしく排気ガス・スモッグの町であった。故郷の空は青く水は清く、緑豊か、道ばたのオオイヌノフグリの美しさにも感動したことを覚えている。
帰郷してすぐ、B型肝炎で3ヶ月ほど入院したのではなかっただろうか。水ぶくれのように太って黄疸症状が出たのであった。退院後しばらくぶらぶらしていたが、10月、私鉄系のMタクシー会社に就職した。入社したとき、この地のタクシーは時間給が大部分で歩合はきわめて少なかった。お客もハイヤー感覚で使っていて、冠婚葬祭の御祝儀やチップなどをよくもらったものである。T自動車の発展途上で、人口も急激に増え始め仕事も忙しくなっていった。しかし、そのために会社はオール歩合給を目指し始め労働組合ともめた。この地の組合はご用組合のようなものであったから、残業時間無しの歩合給になった。
入社した手の頃はトップクラスの売り上げを誇っていた僕であったが、歩合給化とともに不良社員化した。タクシーにエアコンが装備されるようになったこともあり、体調を崩し休むことが多くなった。よく休み、よく遊んで10年ほどMタクシーにつとめた。自堕落不摂生の果て38才ころ金縛りに遭った。何かの夢を見ていたという記憶はない。ただ寝床で完全に動けなくなったのである。その状態がどれだけ続いたは覚えていない。夢から覚めるように動けるようになったのではあったか?翌年退職した。
連休の始まる頃から体調を悪くし、パソコンから離れていた。
連休中、姉は風邪気味で咳がひどくなったので寝ていた。連休明け、月曜日には咳が鎮まったのでデイサービスの作業所、青い空に行かせた。ところが今度は自分が鼻の粘膜が痛み、気管支がむずむずし、風邪気味になった。翌朝は改元でよくなったと思ったが水曜日にはまた悪くなった。夜酒を飲んだ後改元を飲んだ。それが悪かったのか症状がひどくなった。寝ていれば直るだろうと高をくくっていたが悪くなる一方で、土曜日の夜には痰がつまり38°の熱が出るようになった。何十年ぶりかの発熱である。月曜日の朝医者に行った。喘息になっているといわれた。風邪薬と抗生物質を処方された。一週間苦しんで日曜日には小康を得た。まだときどき咳と痰は出る。自己治癒力も老化したようだ。
東京での、捲土重来モードの生活はすぐ失敗に終わった。肉体労働の後はエネルギー補充のために酒を飲みたくさん食い、その後は寝るだけだった。飲食の快楽のために東大病は消えてしまった。共同生活も解消してアパートを借り、手の指に関節炎という障害のある僕には土建業を続けるのは無理だったので、就職先を探した。しかし、扁桃腺の手術以後、僕は呼吸器に障害を持ってしまったのでまともに仕事を続けることは出来なかった。それなりにがんばったこともあったが転職続きの人生となってしまった。
障害といっても障害といってしまえるほど明確なものではなかった。酒でも飲めば感じない程度のものだった。鼻の奥と喉の粘膜の痛み、気管支、肺の重苦しさが常時ついて回った。細菌やウイルスがとりついているような感じだった。いったん風邪を引くと熱がなくても咳が3週間ほど続いた。咳止め薬は効かなかった。かえって喘息のような咳が出るようになった。吸入器もスチームも効かない。2,3週間すると青痰が出て直ることが多かった。医者は慢性気管支炎と診断することが多かった。喘息性気管支炎というものもいた。ともかく空気の悪いところはだめで、映画館などでは頭が痛くなったり、眠くなったりしてしまった。冷房も駄目ですぐ頭が重くなり眠くなってしまった。
思えばニヒリズムにどっぷり浸かった自堕落な人生であった。腰痛、疣痔と体はがたがたになった。多くのいうにいわれないこともした。とはいえ表面上は頑健に見える僕は、対他的にはあるときは右翼愛国主義者、あるときは左翼共産主義者、そしてあるときはたんなる快楽主義者であった。読書は探偵ものやSFが多かったように思う。読書のうんちくを傾けて気炎を吐いていた。そのように38歳ころまで、アル中と陰口をたたかれながらちまたをさまよう人生だった。本当はアル中ではなかったが、40°の扁桃腺熱の後遺症で、頭をやられているのだろう、麻雀をするとき顕著だったのだが、いまでも手の指が震えるのである。