魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

文学時代

2014-11-04 10:34:56 | Weblog

 去年だったか、「一生懸命に生きている」という言葉に出会った。僕は愚かでずるい人間を憎むところがあったが、そこではっと目が覚めた。どんな人間も一生懸命に生きているのだということだ。邪悪の人も、狂う人も、平凡な人々も、みんな一生懸命生きているのである。エーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」を著したが、現代人はますます自由からの逃走を深めている。しかし彼らは一生懸命逃げているのである。暗い未来や現在の屈辱、生活苦など、なかんずく孤独から自由になろうとして逃げているのである。

 平成2年(1990年)、僕は尾関のつてで「半身」という東京の同人誌に参加した。「季節のない風景」という小説を書いた。そんな小説を書いたことがあったのかと、今日「半身」集を取り出して思い出したのであった。実は、後に気がついたことだが、同居していた母は「半身」に参加した頃からアルツハイマーの傾向が出ていたのであった。「半身」は平成17(2005年)年を最後にやめている。平成3年(1991年)に母が没してから、知的障害の姉の施設に入れ面倒を見ていたが、平成14年(2002年)施設から引き取ったので、文学的思考に時間を割けなくなったからである。知的障害とつきあう葛藤のため書くという精神的余裕がなくなったのである。

 文学時代は昭和56(1981)年から 平成17年(2005年)という長きにわたっているわけだが、その間、実生活的にも実に多くの経験をし、多くの人間と出会い、裏社会を垣間見たりして多くのことを考えさせられた。
 初期は心理学的な精神論の色調が強かった。その頃愛読したフロイト心理学を社会に適用し、社会・歴史分析をしたエーリッヒ・フロムの著作も精神論的に解釈していたように思う。それを人間批判、社会批判に適用していたのである。攻撃的な精神心理主義者だったといえる。それが徐々に欲望的心理学から生命論的世界観が強くなっていったのである。
 文学時代の経験はある意味で混沌としていてどのように表現するか難しい問題であった。それが僕の文学におけるテーマだったといえるだろう。しかし、魂の暗闇にも入らなければならない小説の創作は姉の介護という状況で挫折した。そこで魂の思想、心の思想に焦点を当て思索することにした。瞑想的思索は精神に安定をもたらすものである。特に『無』に興味を持ち道元の正法眼蔵(しょうぼうげんぞう、正法眼藏)を読んだりした。そして『無』イコール『混沌』に至った。思えば僕の人生全体が混沌であった。結果、生命論的世界観、『世界生命』に至ったともいえるだろう。

 以上、僕の精神発達史のあらましを振り返り、それを記述してみて、何か憑き物が落ちたようなすがすがしい気持ちである。今は改めて過去の読書や自分の作品を振り返ってみたいと思っている。とはいえ、 現在ホームページ上で『半身』に掲載した小説『Hの思想」を校正、掲載中だから、そちらを早く進めるべきだろう。


文学活動へ

2014-11-02 10:40:13 | Weblog

 韓国でカメラ窃盗を認めていた富田選手が、ここに来て冤罪を訴え始めた。何を今更だが、当初奇異な気がしたのも確かだ。なぜカメラなんか盗むのか、それもあんな場所でという疑問だった。だが当人が認めたというのだから、盗癖でもあって、ストレスから衝動的にやってしまったのかとも思っていた。盗癖の経歴もないないのなら、好意的に見れば、警察に詰問されて思考がストップしてしまったのかもしれない。つまり一種の催眠状態に入ってしまったのである。そう考えればことの顛末が理解できる。スポーツ選手は権力に弱いし、水泳のような個人競技の選手というものは、サッカーのようなずるさの必要なゲーム的スポーツの選手と違って、人間が素直だから催眠にかかりやすいだろう。人生は催眠である。成功者になるには被催眠性が高くなければならない。しかし、根本にちゃんとした自意識を持っていなければ人に陥れられ易いといえる。韓国相手に冤罪を晴らせる可能性はほとんどない。富田は自分の愚かさを反省して、自己をしっかり見つめて再出発することだ。

 文学活動を始めたのは自己再生のための自己探求だといえる。昭和56年の夏、40才にして始めた文学活動は地域同人誌「許呂母」第三号からであった。「許呂母」は創刊昭和55年4月1日で、編集者は異色の反小説家尾関忠雄であった。「許呂母」は昭和62年8月、10号で終わった。なぜ終わったのかといえば、同人たちの内部蓄積がつきたからだろう。尽きせぬものを持っていたのは尾関だけだろう。尾関はほかにもいくつかの同人詩で書いていた。僕にも、同人誌時代には仕事や女性関係で様々な経験をしていたし、書きたいことは山ほどあったがヨーガを習うことにした。
 ヨーガを習い始めたのは翌年昭和63年(1988年)ではなかったかと思う。ヨーガ(一般にはヨガというが、ヨーガ、あるいはヨゥガというのが言語に近いらしい)の学習は僕の心身に劇的な変化をもたらした。それまでも催眠の実習で習ったヨガ体操をしていたが、呼吸法を知らなかった。ヨーガは体位法(アーサナ)と調気法(プラーナ・アーヤーマ)と瞑想法(ディヤーナ)で成り立っているといわれる。ヨーガの究極的な狙いは瞑想法が本命だが、気は宇宙的生命的エネルギーといえるので、成長期に多くの身体的ダメージを受けてきた僕にとって、一番大切なのは呼吸法であった。瞑想法とは精神集中のことで、究極的には魂の自由に達するといわれる。僕には魂の自由が欲しいというより、魂の自由とは何かという瞑想するという知的な欲望の方が勝っていた。
 ヨーガによって蓄膿気味の鼻づまりや頭痛、腰痛やむち打ちも改善していった。ちょうどその頃、小学生時代から悩まされてきた手のひらの皮膚病がカルシウム不足によるものだと薬局の人に教えられ、カルシウム剤を与えられて治癒したのであった。医師よりも薬剤師の方がよく知っていることもあるのである。