魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

自分史4、病室

2014-01-30 13:13:04 | Weblog

 私の住む集落は現在は3百戸超すD自治区の中心地である。Y川のそばにあり、上流から中流域が始まる分岐点からか、材木の集積地として、江戸末期からH村の中心地になったようですが、戦国時代の終わり、徳川家康による開府とともにH郷から移り住んだ人々によって脇郷として誕生したようです。江戸時代は上流のF集落と併せて、本郷、中切、上切とも呼ばれていたこともあったようです。D集落は下に井とつく名字の家がほとんどです。ちなみに上流のF集落は山とつく家がほとんどであり、下流の本郷には田のつく家がほとんどです。本郷は平地が多く、上切は山が多いのですが、中切のDは丘みたいな小山が多いという感じです。私の家も高台の上です。里道はその裾を巡っています。その里道すべてが私物化されていると言っていいでしょう。

 我々が移り住んだ元入院患者用の病室は崖地にかかっており、8畳と6畳であり、下に6畳の倉庫でした。私は小学生になりました。母はタイル工場で働くようになっていたのですが、わずかな賃金で食うや食わずの生活でした。母は看護婦の資格を持っていましたが、人手の余っていた時代、子連れを雇ってくれるような病院はなかったでしょう。生活保護と同じくらいの生活だったのですが、馬鹿正直な母は生活保護を打ち切られたようです。生活保護のごまかしは戦後は当たり前だったようです。

 小学校時代のことはあまり覚えていません。もちろんその前のこともです。栄養失調で頭がぼんやりしていたせいもありますが、覚えていたくないいやなことが多かったからという気がします。今に至るまで、私は過去を振り返ることはもちろん、何かを覚えておくことも嫌いで、ひたすら前を向いて生きてきたような気がします。 


自分史3、倉庫時代

2014-01-29 11:01:23 | Weblog

 現在、私の生まれた家があった空き地に新しい家が1軒建とうとしています。3階建てでソーラーハウスのようです。若い夫婦が入るようです。この土地には2軒建つ予定で、その南側にあります。北側もすでに買い手がいるようですが着工の様子はありません。

 この空き地には父が医業をし、私が生まれた家は百坪ほどあった大きな家がありました。大正時代、父が買い取る前にはS農林高校の前身があったといいます。その頃この地はT村でしたが、明治22年の市町村制施行以前は県の行政管区になるH村といったようです。この屋敷は最初平井村の役場として建てられたもののようです。長兄が大事に保全していたら遺跡にでもな指定されていたかもしれません。

 さて、我々母子が住み込んだ倉庫は生まれた家の東北側、井戸屋の裏にありました。西北には病室がありました。病室はその頃すでに長兄の友人夫婦が借りていました。その明るい灯を暗い倉庫の入り口からねたましく見ていたような記憶があります。我々母子は七輪みたいなもので薩摩芋を焼いて飢えをしのいました。
 1年ほど倉庫にいたでしょうか、病室を借りていた方たちは我々のこの様子に心を痛めて、我々に住ませるようにいって、よそに移ってくれました。長兄夫婦がおもしろくない気持ちが目に見えるようですこうして。彼らと母の戦いは本格化していったのでした。 


自分史2

2014-01-23 11:24:14 | Weblog

 自分史を違法建築問題から始めたのは、私が生まれ育った、そして現在も居住する集落、なかんづく近隣との関係は私の精神形成に欠かせないと思うからです。

 2項道路は昭和25年に施工されたということで、ずいぶん前からあったのだなと驚かされました。一般に周知させる努力がされなかったために多くの違反が行われ、現在多くのトラブルを抱えているようです。昔の役人は知りたければ自分で調べろという態度でした。親切になったのは最近のことでしょう。

 昭和21年11月14日、私が5歳の時、医者であった父が往診途中で急死、家を出ていた腹違いの長男が家族を連れて家に入り込みました。長男相続の明治憲法による権利の主張でした。新憲法は11月3日に交付されていましたが、施行され長男相続が廃止されたのは昭和22年5月でした。たった半年の差で母子4人の運命は過酷なものになりました。
 翌年我々母子は家を追い出されたのでした。母の在所で1年暮らし、私の小学校入学に合わせて家に戻ったのですが、家の中に入れてくれるわけもなく、電気も通じていない4畳半ほどの物置に住み込みました。そこから15年ほど、財産相続を巡る母の苦しい戦いが始まったのでした。長男相続の伝統に生きる集落はすべて兄の味方だったようです。

 父は日露戦争の軍医でしたから愛国者でした。おそらく敗戦は相当のショックだったでしょう。死ぬ前はアルコール中毒者になっていたようです。 


自分史

2014-01-16 15:59:45 | Weblog

 このブログから長らく遠ざかっていたのは自分のホームページで忙しかったのと、 近辺些事で忙しかったからということもあります。
 「魂の風景」 二項道路の無許可建築、里道の私物化と我が家の近所は無法者がそろっています。 役所も驚いていたのですが、役所から直接行動を起こすことがないとのこと。 この件で悪戦苦闘して自分の魂が進化したような気がしています。
 これからはその顛末も含め、自分を振り返ってみようと思っています。

 上図のように、我が家の出入り口は里道に面しているのですが、 その里道は60mくらいの長さで、中は4,5mの広さですが、 公道に出るには北側1.5m、東南に2mちょっとのウナギの寝床です。 その里道が二項道路ということになっています。 二項道路については知らない人が多いでしょう。 建築基準法によって4m幅の道路と見なされる道路のことで、 幅1.8mの道であってもその中心から2mは、 土地の所有者でもそこに通行の障害となる建造物を建ててはいけない道路です。Aの倉庫はこれに違反しています。

ところで二項道路というものの存在を知ったのは、この問題が起こった3年前が初めてでした。そういう場所に家でも建てようか、建て替えしようかと言うときでない限り一般の人が知ることはないようです。建築業者はもちろん知っていなければならないことですから、業者に建築を依頼すれば教えてくれるはずです。Aと業者は結託して二項道路違反を犯したことは間違いないところでしょう。しかしAは業者がかってにやったことでしらなかった言っています。

 役所に訴えれば是正に動いてくれますが、事情の調査などで何年もかかるだろうということでした。この問題で私が学んだことは、自分の所有物について、その周辺について、法律問題も含めて、しっかりした知識、情報を持たないものは容易にその権利を奪われものだということ、その権利の回復は容易ではないということです。

 この問題の解決のために里道に隣接する6軒で話し合いが行われたのですが、Bは里道の買い取りを強硬に主張しました。我が家の道を3m確保できるならと提案したが、Aは絶対に売らないと強情に拒否したので、物別れになりました。

 実はこの話し合いにはこの集落の有力者が調停役として出ていたのですが、Bの本家であり、5軒とは裏取引ができていたようで、2m幅道路をで我慢させようと集団で説得にかかってきたのでした。公道から私の土地までは16mほどあり建築基準法では2.5m幅必要とあります。 そう反論すると「Aに足りない1mを売ってもらえ」ということでした。里道を正しく使えば2m幅以上の道がすでにあるのにそれをなくして、小さな道を買えなどとはばかばかしい話です。

 この顛末において山口県で起こった「付け火して殺人事件」を思い出しました。ある意味で皆殺しの殺意を抱いたといっていいでしょう。しかし怒りで殺意を抱き、その妄想にとらわれるのは身を滅ぼすことです。とはいえこのまま放置するのはおかしいので、これからじっくりと対策を練っていこうと思っています。