過ぎ去ってしまえば人生も世界も幻のようなものでしょう。そして年老いると肉体は苦痛なものになるし、生きることに飽きもするでしょう。悟りを開いたものたちがリアリティを不変不滅なるものと定義するのはこの心からだろうと思います。そして苦しみの原因である意識を絶って、無意識の安樂のなかに「私が私自身であり、永遠であるという」感覚、この内的充実感を愛するようになるのでしょう。
老いたものが肉体的喜びを感じなくなるのは仕方がないことです。しかし、変化するものとしての肉体性も永遠のものです。視覚・嗅覚・触覚、これら感覚、若い魂はこの変化相を愛するものです。この変化相にはそれを生み出す永遠の源、変化相因とでもいうべきものがあるはずです。この点においてアリストテレスのエイドス・形相因という考え方が参考になるだろうと思います。仏教的にいえば「諸法も仏法も法のうちにある」のです。「自我」は『永遠』の変化相と自己との関わりであるということもできるでしょう。
人類はこれから、青春を通して親離れすなわち国家や宗教からの「三十にして立つ」自立を目指していくということになるでしょうが、それは生命論的立場に立って自己を考え世界を考えるということになるでしょう。その考えに立って自己と世界の調和をはかっていくことでしょう。そしてやがて変化相の世界における己の役割を知るということになっていくことでしょう。人類は青年期の終わりにはまだそのことを知るには至らないと思いますが、自立へ向かって行動を起こし、壮年期には、少なくとも神や物質に依存しない自分を持つだろうと思います。
人類の歴史とは『永遠』の自我の発達史なのです。壮年期以降の人類は自然や世界との融和・一体化に向かって努力することになるでしょうが、それがどのような成り行きになるかを想像するのに孔子の一生を思い出すのがいいかもしれません。有名な「我十ゆう五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順う、七十にして心の欲するところにしたがいて矩を超えず」です。――モデルにするといっても、これは孔子個人の一生の精神的成長で、人類の発達とは様相が違います。孔子には老子や釈迦のような現実を幻のように見る「世界否定」の精神はありませんから、その社会的な情熱のあり方からいっても青年的で、ウイルバー的にいえば「心理的自我」の段階の、青年期の終わりから壮年期くらいの発展段階にあると考えて良さそうです。「三十にして立ち」とは自分自身の思想、儒教的思想に到達したということでしょう。その後の精神史はこの思想を生きる上での精神状態を表しているものと思います。試みに彼の次の人生を想像してみましょう。次の人生の青春期には、おそらく自分の樹立した儒教的な)社会的信念を抱き、その発展に尽くし、青年期の終わり頃にはその努力の徒労とむなしさに絶望するという状況が考えられます。そして釈迦的否定思想に傾くでしょう。全的な現世否定です。いや、ウイルバーの意識進化論に忠実な言い方をすれば、「サトル段階」の釈迦に至る前に「霊的段階」という超常的精神状態に至るかもしれません。――ただ霊的能力を持つ人物の魂が必ずしも高度の発展段階にいるとはいえないようです。まだ幼児期の魂の場合が多いのではないかと思います。また、ウイルバーのいう心理的自我の次の霊的段階とは身心の異常、病的な状態から来る幻覚・幻想かと思われます。それは自我の疲労倦怠から来る病、あるいは幾多の生の体験で魂にたまった毒素がもたらすものともいえるでしょう。それは青春期にも壮年期にも、発達段階の変わり目にはいつでも起こりうることでしょう。しかし、その幻覚的エクスタシーにおいて癒しを求め、一時的に癒されることでしょう。――
ここではウイルバーの考え方を離れて人類の精神的発達段階を見てみたいと思います。人類が老年期にさしかかるころ、精神は霊的救いを必要とするような危機的状況を迎えるかも知れません。霊的世界も現世否定ですが、まだ自我は夢を追っている状態です。やがて霊的エクスタシーも悪夢と化す日が来るに違いありません。ドラッグの中毒症状のように、これも自我の実存的快楽の毒というものでしょう。ここに至っては、自我はもはや自分自身を放棄するしかありません。それが全的現世否定、自我否定に至る「悟りの段階」、ウイルバーの「サトル段階」に他ならないでしょう。しかし自我の役割はこれで終わりではありません。「否定の否定」すべてを否定し、自分さえ否定し尽くしたとき、その悟りさえ否定しなければならないのが自我の宿命です。全否定の後に待っているのは全肯定しかありません。ここで初めて自我は自らの「天命」を知るでしょう。人類にとっての「天命を知る」とは、「心理的自我段階」の究極、すなわち人間・自我の世界における役割を知ることでしょう。言い換えると人類を「永遠の自我」と知ることでもあります。「耳順う」とは「サトル段階」がさらに進化し、人間のこと、自然のこと、世界のこと、あらゆることが「一を聞いて十を知る」ように分るということでしょう。「心の欲するところにしたがいて矩を超えず」とはその究極といえるでしょう。
その後の終局について、ウイルバーは意識の進化の究極に神と人の魂が融合して無分別の世界に入る「コーザル(元因体)段階」を想定しているようですが、地上の天国を夢見るキリスト教徒らしい考えですが、地上は絶対的に差違分別の世界ですからあり得ないことです。終局は、人類の消滅に他ならないと思います。