魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

東京へ

2014-04-28 10:13:00 | Weblog

 セオル号沈没事件で韓国社会の闇に照明が当てられている。政府の対応遅れを非難され首相が辞任した。一民間会社の事故で政権のトップが責任をとらされるのは奇妙な感じだが、ハン(仏教語の恨から来た言葉なのだろう)の民族といわれる国民性を知っていれば不思議でも何でもない。従軍慰安婦問題における過剰反応もそこから来るといえるだろう。海外に従軍慰安婦の銅像を建て回るなど自傷行為、自らを辱める行為としか思えないが、ハンのしからしめるところだろう。ハンとは「権力者、優越者に対する恨みつらみ、悲哀、あこがれや嫉み、悲惨な境遇からの解放願望など、さまざまな感情を表すもの」だといわれる。

 ニーチェが重用したルサンチマンという言葉はハンと訳することも出来るだろう。ルサンチマンとは「強者に対しての、弱いものの憤りや怨恨、憎悪、非難の感情」をいうようだ。安保時代を振り返ってニーチェに対する共感を思い起こしたのだが、それはルサンチマンの克服を目指すものとしてであった。安保闘争に立ち上がった学生たちの立場はルサンチマンにあったという点で僕と違っていたのである。
 ニーチェには「神は死んだ!」に共感したのかもしれない。ランボーの「また見つかった。何がだ?永遠。去ってしまった海のことさあ 太陽もろとも云ってしまった。」に共感するところも多かった。世界喪失の虚無感が両者の根底に感じられ、共感したのだろう。
 ニヒリズムといえば、思い出すのは僕の一番好きな日本の歴史、平家時代から豊田臣時代という戦乱の時代である。文学では平家物語、源実朝の和歌、梁塵秘抄などを思い出す。幸若舞の敦盛「人間五十年…」を好んで謡い舞った信長はニヒリストだっただろう。ニヒリズムの克服のために彼は天下を狙い、神にもなろうとした。

 60年安保に挫折した大学生たちは社会人となっての地域社会からの変革を掲げた。農業に貢献しながら農民の意識改革を目指すのもその一つだった。東大病の熱も消えないまま、思ってもいなかった岐阜大農学部に入ったのは彼らのすすめによるものだった。しかし成り行きでそうなっただけで、僕には市民運動のようなロマンチックな精神はなかった。退院してからの僕はほとんど思考停止していたのではなかっただろうか。成り行き任せに、衝動的な生き方をしていたように思う。
 1961年、寮に入っての大学生活が始まったが、科目の勉強はほとんどしなかった。頭に熱がついて思考停止してしまう時間はぼんやり過ごし、頭が冴えている時間は文学書を読むことと東大入試の勉強に使ってしまった。寮生活で覚えたのは麻雀だけだった。そして1962年、東大を受験した。二次試験のとき思考停止に陥り、答案用紙に一文字も書かずに終わった。呆然として座っていた自分の姿が思い浮かぶ。
 岐阜大は当然落第だった。留年して勉強を続けよと仲間にも教師にもいわれたが僕は東京に向かった。東京へのあこがれも強かったようだ。
 受験の時机を並べた重友という男から捲土重来の手紙が来ていたので、彼とアパートを共有し、日雇い労働をしながら勉強することになった。アパートの場所は覚えていない、目黒あたりだっただろうか。三宿だったかもしれない。

 


60年安保時代

2014-04-21 11:28:35 | Weblog


 四国のお遍路で朝鮮人批判のビラが貼られたという。サッカーのJリーグでも排他的言動が目立つという。安倍晋三の国家主義は偏狭な国粋主義者の台頭を促すことになるだろう。それも歴史の必然、日本人の運命なのだろう。

高校3年生の時伊勢湾台風があり、1時住んでいた倉庫が倒れた。いま思い出したが、あの倉庫時代、ブリキで出来たおもちゃの笛(含み笛とでもいうのだろうか、現代では見かけない)を喉に詰まらせて死にかけたのだった。倉庫と井戸の間の通路に立って、自己主張でもするかのように、生家や病室の明るい灯に向けて吹いていたのだった。
 創価学会等を関わり持ったのも3年生の時だった。母の陰気な南無阿弥陀仏が嫌で意気のいい南無妙法蓮華経の創価学会に母を入信させたのだった。僕自身としては神も仏も信じていなかった。

 安保闘争に関わりを持ったのは隣の集落の京大生の訪問からだったのではないだろうか。平和を守る会の後身である市政研究会のサイトによると、大学生4年生だった先輩たちが夏休みに小学校や図書館などで青年会や婦人会と安保条約についての集会を持ったとある。その時のことであろうか。
 安保に対する僕の考えは、ヒューマニスティックなイギリス新左翼の影響を方を受けたらしい彼らとは違っていた。僕はヒューマニストではなく、「人間的な、あまりにも人間的な」のニーチェに共感する部分が多い人間であった。実存主義者の先駆者とみなされるニーチェは人間を意志的存在と見なし、主体的自己超越性を実現したものを超人と呼んだ。僕は主体的自由意志という観点から、自分の国は自分で守るべきだと思っていたのではなかったかと思う。それが愛国者的言動として現れ、彼らには右翼とも呼ばれたりした。浅沼稲二郎を殺害した山口少年に似ていると東大生Sに言われたような記憶がある。確かに日本史が好きで愛国者的なところはあったように思う。愛国的といっても日清日露戦争以前の日本が好きなのであって、満州事変以後の帝国主義は嫌いであった。
 Sには自堕落だという批判も受けた。幼少期から醜い大人たち、社会を見てきた僕には彼らのようなロマンティシズムはなく、ニヒリズムが根底にあったといっていいであろう。ニヒリズムの克服を目指したニーチェに通じるところである。

 この運動が縁で右翼的なのに共産主義的な彼らと臆面もなく遊びにもつきあった。面白ければ何でも良かったのかもしれない。同人誌に詩を書いた覚えがある。その詩稿は残っていないが出だしは覚えている。「ほむらはひとほ やみなかむろに ほのほのゆれて なにおかかたる かたるもかなし むかしのことか」からはじまる、ひらがなで物語風の詩だった。
 酒を初めて飲んだのもその頃だろう。がぶ飲みして、夜中に吐き、二日酔いになった。しかし酒を飲んでいる時は喉の痛みも頭の重さも消え、吐いた後も頭が冴えるような気がしたのではなかったか。手のひらの皮向けもそのときはなかった。それ以後飲食は僕の生きがいになった。

 昭和36年、 1961年にNとともに奨学金を受け岐阜大学に入学した。奨学金というものの存在を知ったのはその時初めてだった。僕の小学校時代からの同級生で、優等生だったAは高校時代から奨学金をもらっていたらしい。父親が役人だったから知っていたのだ。世間と敵対していた我が家ではそういった情報は伝わってこなかった。
 Nは芸者の子で東大生Sと同じ町の花街育ちだった。Sと小学校時代から成績を争っていたというが、貧乏なので中学卒業後は働きながら夜間に通っていたようだ。Sの父親は薬局を開いていて、共産党員だった。ちなみに4人の大学生の1人が岐阜大農学部であった。家業は米穀販売業で、その家の二階には坂口安吾など戦後の文学書などもあって、よく遊びに行ったものだ。大学生TはT自動車従業員の息子で、その頃愛知大学在を中退して地方新聞社に就職したようだ。もう1人の大学生Nは元藩主の家柄で名大生ではなかったかと思う。彼の顔はあまり見なかった。

高校時代は思春期であり、哲学や思想に強い興味を持つ、孔子が言った「学に志した」時代だったと言えるだろう。 また人との違いを強く意識した時代であった。小中学校では背の高いほうであったが、4月生まれの僕は他の同級生に比べて早く成長が止まり、背丈にコンプレックスを持つようになった。自分はもっと背が高いはずだという思いが終生付きまとうようになった。


高校生活の終わり

2014-04-08 11:30:57 | Weblog

 家周りのメンテナンス、ホームページのメンテナンスに追われて一日中一度も人との会話のない日々を送っている。口の体操のために音声入力「ドラゴンスピーチ」を購入した。試してみると発音能力の劣化のひどさがわかった。このままでは痴呆化する危険があるので大いにこのソフトを使おうと思う。この書き込みもドラゴンスピーチで入力した。修正などはまだなか慣れないのでマウス、キーボードを併用している。

 高校3年の時に新聞を配達を止めた。高校3年生での思い出としては野山を歩き回っていた印象が強い。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」 、ロマン・ロランの 「ジャンクリストフ」なども読んだ。ニーチェの「人間的な人間的なあまりにも人間的な」を読んだのも高校3年生からその頃だろうと思う。とにかくいろいろな本を読んだような記憶がある。多くの詩歌を作ったのもこのころからだろう。
 放浪には扁桃腺の熱に浮かれていたという面もあったと思う。冬になって40度の熱がたびたび出て、卒業間際になって手術のために入院した。入院日数は覚えていないが1ヶ月ほどかかっただろうか。指先ほどの扁桃腺を2つ切った。両方とも青い膿に覆われていた。長い間の我慢の結果だろう。呼吸器系統の欠陥は小学校時代のタイル工場での粉塵の影響が強いと思っている。それが新聞配達で悪化したのだと思う。退院した後しばらくぶらぶらしていたように思う。そして近くにあった鍛造工場で働いた。年金記録によると8月から7ヶ月勤めたようだ。病み上がりの体というより、バリ取りに出る粉塵が鼻や喉、気管支に良くなかった。

 退院後の体調はよくなかった。ちょっとした気候の変化でも頭がぼーっとなって何も考えられなくなった。体調のいい時は咲いていた頭もその時は停止してしまった。この状態は以後何十年も続いて僕を苦しめた。

 その頃60年安保闘争が始まっていた。この町でも高校の先輩たち、その頃東大などの大学4年生たちが主体となった平和を守る会というサークルが活動していた。何がきっかけだか覚えていないが僕もそれに参加するようになった。リーダー格には年長者で、T自動車の下請け会社の社長の2号の息子がいて、その自家用車だっただろうか、初めて車というものに乗せてもらった。


高校時代

2014-04-08 09:56:30 | Weblog

 今年になって同級生夫婦を訪ねていない。家周りのメンテナンスとブログ、ホームページの書き込みで忙しいからであるが、彼らが忙しくなったからでもある。長男の奥さんが急死して、孫の面倒を見なければならなくなったのである。お孫さんは自閉症だから目が離せないようだ。のんびりお茶を飲んでいる余裕はなさそうだ。知的障害者とつきあうのは難しいことなのだ。自閉症とのつきあいは受容が大切なのだが、それにはその気持ちを理解しなければならない。それができるようになるには10年の苦闘が要するだろう。70過ぎの彼らには無理なことだ。慰めに行ってやりたいが・・・

 新聞配達をしながら高校に通った。大配りといって、朝の3時、4時に起きて町の新聞屋まで新聞を受け取りに行き、5人ほどの小配りに持って行った。その後自分の集落を配った。自転車で行くのだが、その頃はどこにも舗装道路はなかったので風の日などは砂塵が舞い難儀だった。雨風の時は悲惨だった。風にあおられて倒れ、新聞を風にさらわれたこともある。気管支炎で扁桃腺、蓄膿の身にはきつい毎日だった。学校帰りには新聞屋によって夕刊を受け取って配った。だからクラブ活動はしなかったので、学校生活を楽しんだ思い出はない。
 どんな勉強の仕方だったか覚えていない。東大病にかかっていたのはよく覚えている。新渡戸稲造などの伝記の影響かもしれない。反面文学に熱中していたので受験勉強などしたことがなかった。勉強とは読書のことだったと言っていいだろう。教科書を何度も音読した。参考書を読むのも好きだったように思う。藤村や啄木、宮沢賢治の影響を受け、あるいは芭蕉や西行、万葉集などの影響を受け俳句や和歌や詩を作り始めたのは2年生頃だろう。哲学にも興味を持った。イデア論や唯物論は三年に入った頃からではなかったかと思う。 学業そっちのけで、授業中も机の下に置いて読んでいたように思うリーダースダイジェストも愛読していたのではなかったか。
 3年生の頃は何かにとりつかれたように詩作を練るなどしてそこら中をうろついていたようだ。夏でも黒いマントを羽織ったりして頭がおかしくなったと噂されもしたようである。実は悪化した扁桃腺の熱に浮かれていたのでもある。そしてついに40度の熱に倒れた。