セオル号沈没事件で韓国社会の闇に照明が当てられている。政府の対応遅れを非難され首相が辞任した。一民間会社の事故で政権のトップが責任をとらされるのは奇妙な感じだが、ハン(仏教語の恨から来た言葉なのだろう)の民族といわれる国民性を知っていれば不思議でも何でもない。従軍慰安婦問題における過剰反応もそこから来るといえるだろう。海外に従軍慰安婦の銅像を建て回るなど自傷行為、自らを辱める行為としか思えないが、ハンのしからしめるところだろう。ハンとは「権力者、優越者に対する恨みつらみ、悲哀、あこがれや嫉み、悲惨な境遇からの解放願望など、さまざまな感情を表すもの」だといわれる。
ニーチェが重用したルサンチマンという言葉はハンと訳することも出来るだろう。ルサンチマンとは「強者に対しての、弱いものの憤りや怨恨、憎悪、非難の感情」をいうようだ。安保時代を振り返ってニーチェに対する共感を思い起こしたのだが、それはルサンチマンの克服を目指すものとしてであった。安保闘争に立ち上がった学生たちの立場はルサンチマンにあったという点で僕と違っていたのである。
ニーチェには「神は死んだ!」に共感したのかもしれない。ランボーの「また見つかった。何がだ?永遠。去ってしまった海のことさあ 太陽もろとも云ってしまった。」に共感するところも多かった。世界喪失の虚無感が両者の根底に感じられ、共感したのだろう。
ニヒリズムといえば、思い出すのは僕の一番好きな日本の歴史、平家時代から豊田臣時代という戦乱の時代である。文学では平家物語、源実朝の和歌、梁塵秘抄などを思い出す。幸若舞の敦盛「人間五十年…」を好んで謡い舞った信長はニヒリストだっただろう。ニヒリズムの克服のために彼は天下を狙い、神にもなろうとした。
60年安保に挫折した大学生たちは社会人となっての地域社会からの変革を掲げた。農業に貢献しながら農民の意識改革を目指すのもその一つだった。東大病の熱も消えないまま、思ってもいなかった岐阜大農学部に入ったのは彼らのすすめによるものだった。しかし成り行きでそうなっただけで、僕には市民運動のようなロマンチックな精神はなかった。退院してからの僕はほとんど思考停止していたのではなかっただろうか。成り行き任せに、衝動的な生き方をしていたように思う。
1961年、寮に入っての大学生活が始まったが、科目の勉強はほとんどしなかった。頭に熱がついて思考停止してしまう時間はぼんやり過ごし、頭が冴えている時間は文学書を読むことと東大入試の勉強に使ってしまった。寮生活で覚えたのは麻雀だけだった。そして1962年、東大を受験した。二次試験のとき思考停止に陥り、答案用紙に一文字も書かずに終わった。呆然として座っていた自分の姿が思い浮かぶ。
岐阜大は当然落第だった。留年して勉強を続けよと仲間にも教師にもいわれたが僕は東京に向かった。東京へのあこがれも強かったようだ。
受験の時机を並べた重友という男から捲土重来の手紙が来ていたので、彼とアパートを共有し、日雇い労働をしながら勉強することになった。アパートの場所は覚えていない、目黒あたりだっただろうか。三宿だったかもしれない。