魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

中学時代1

2014-02-24 10:14:41 | Weblog

 里道の南に向かって降りる道を作った。掘りあげた土でBとの境界の窪地を埋めていたとき、Bが文句を言ってきた。僕が「境界より控えている。立ち会いどうのこうのいうより境界杭を打てばいいではないか、測量が済んでいるのだから。杭代を半分持つよ」ということをいってやった。「そうだな、Tに相談してみよう」といって引き下がった。彼はとっさのことで気づかなかったようだが、杭を打つには里道と関係があるから役所の立ち会いも必要になる。そうすると里道の私物化があからさまになる。それがいやで彼は測量のくい打ちをやめていたのだ。あれから4日になるが何もいってこない。やっぱり!(Tとは江戸末期から昭和4年に発電所ができるまでこの集落に繁栄をもたらした材木商の後裔で、現在でも集落一の資産家である。腐っても鯛と陰口をたたかれているようだ。息子が測量屋をしている。BはTの分家である。)

 母の書類に次兄が母を殴ったという様子が見えるが、長兄が母を足蹴にした光景を思い出した。倉庫時代のことだと思う。風呂に入らせてくれと頼んだときではないかと思う。
 母の頭痛を電気操作によるものだとする被害妄想は長兄が名古屋に引っ越すまで(僕が中3の頃だっただろうか)続いたようだ。世間には気違い扱いされていたように思う。その後も死ぬまでノーシンの愛好者だった。一時期「成長の家」にこっていた。大正15年、第一回看護婦試験の合格者であり、大臣などの看護もし、東京の青春を謳歌した母だったが、戦後の苦難は運命の皮肉というしかない。
 母と僕の関係について考えてみると、いわゆる親子の愛情とは違うものがあるようだ。昭和19年生まれの弟は母の背中の味を知っているが、僕の生まれた頃は仕事が忙しくてだっこする暇もなかったようだ。それに母乳が出なくて、代わりに山羊の乳で育てられた。最初は女中さんがいたようだが、戦争が激しくなるとともに実家に帰ってしまったのでうんちで泣いても放っておかれたような記憶がある。母に対しては愛情よりも恐れが強かったと言っていいだろう。

 中学時代のことは、僕の精神もかなり複雑になっていたので、うまく表現することは難しい気がする。中1になって一番印象に残っているのは意地悪3年生を突き倒したことだ。箒を振り回しながら我々1年生に何かを命じていたのだと思う。弱いものいじめを憎む気持ちはますます強くなったようだ。先生に見せる日記だったかに恋と書いて「まだ早い」と注意書きを受けた記憶がある。小学校時代から好きな子がいたのだ。
 中学に入ったとき級長にされた。記憶にはないが小6の成績がよかったのだろう。しかし、僕は手のひらの皮膚病と蓄膿、あかぎれ、頭痛、そして繕ったつんつるてんの制服など、劣等感の塊でもあった。

 中学時代は僕の精神分裂時代の始まりといえるかもしれない。
 


母の書類4

2014-02-21 10:18:27 | Weblog

 昭和25年7月、地方裁判所に財産半分分与の訴訟を起こした書類。それによるとこの2年間で風呂に入れてくれたのは4回だけだとある。そして母を気違い扱いしているという。こうなっては財産分与しかないというのである。昭和23年10月付けの、家裁ではなく地方裁判所への告訴状があった。長兄が子供たちの父の実子であることを疑い電気検査をしたとか、電波をかけて殺そうとしているというようなことが書いてある。被害妄想が相当進行している。26年5月26日付の判決文があった。勝訴の見込みがないから却下。精神疾患も疑われたのだろう。

 昭和26年3月15日には近隣親戚などへの証拠調べの申請をしていた。回答は母のメモのようだ。
 隣人への質問:入浴させないこと、新聞を読ませないこと、ラジオを聞かせないことを知っているか?答え:入浴させている様子はなかった。何かの事情で仲が悪いと思っていた。
 近くの親戚へ質問には「原告が実家に出かけて帰ってきたとき、被告が家に入れなかったので泊めたか」とか、「被告が女医を迎えて従前通り医者を開業して原告親子を見るといったことを聞いたことがあるか」とある。答えは「泊めたことがある。聞いたことがある。」
 病院の医師らしき人への質問は「原告に薬品等を買いたいともし出たことがあるか?被告より薬品を買ったか?」 答えは「医療器具、寝台、水瓶、薬瓶を三人で申し入れた。」である。被告から買ったが受け取るときにはだいぶ少なくなっていたという人もいたようだ。
 長兄の伯父というのが医者だったようで、売れ残りの薬品の買い取りを頼まれたらしいが、はっきりしないメモだが、どうだったかなどとうやむやの答え方をしていた。
 元区長のSに対する質問によると母は次兄に殴られたことがあるらしい。そしてSが仲裁のために行ったとき母の行李を兄弟で調べていたかと聞かれていた。彼らは母が金を隠していると疑っていたのだろう。母はSに食べるものがないから豆を分けてくれ、竈がないから鉄コンロを貸してくれと頼んだらしい。Sはもらってあげるから待てと答えたらしい。結果はわからない。長兄とその妻の仲を取り持ったのは彼の義理の弟で、長兄の友人でもあり、結婚したら家を売って名古屋に出るように勧めたということらしい。集落では売り先にY医師を想定していたらしいことも書いてあった。つまり集落は長兄と話ができていたのだろう。Y先生は後に一時期近くに部屋を借りて診療していたようである。同級生がそう言ったのだが僕の記憶にはない。
 母の仲人に対する質問では、長兄が薬品を勝手に売りさばくことに対する立ち会いを求めたが、長兄は聞かずに勝手に売りさばいたようだ。

 3月23日には訴訟費用の免除を申請している。それによると当時は生活保護を受けていたようだ。
 昭和28年11月28日付の判決文によって財産分けも訴訟費用の免除も却下された。判決の理由は「財産分配に不服のあるときは新民法施行の日から1年以内に家庭裁判所に請求するべきだが、その期間を過ぎている」からということであった。新民法施行の日は23年1月1日、母が再分配の訴訟を起こしたのは25年7月26日であった。法律に対する無知の結果である。法は無情であるということである。また、当時の裁判官たちのほとんどは戦前の封建的意識から抜け出せていなかっただろう。
 28年は僕が5年生の時だ。裁判所には我々兄弟もほとんど一緒に通ったのではなかったか。帰りの電車で寝過ごして2駅3駅先の駅から、時には終電のため 歩いて家に帰った記憶が何度かある。どんな思いで歩いていたかは記憶にない。裁判所のことも。


母の書類から3

2014-02-19 10:51:54 | Weblog

 財産分配請求の訴訟記録があった。昭和22年の日付だ。それに添付されている戸籍謄本によると、父は4度結婚している。最初の妻とは離婚していて、富士山で心中した姉はその人の子であった。2番目の妻の子には3人の子がいて、長兄とその妹2人である。長兄が7歳のときその人はなくなり、翌年父はその人の妹と再婚した。次兄、三兄、4兄と4女(手紙の姉は3番目ではなく4番目の娘だった)はこの人の子であった。4女は昭和19年の結婚だかから僕が生まれた頃には家にいたことになる。長兄は肺結核で徴兵を免れた。次兄は教職だったからこれも徴兵を免れたのだろう。長兄は戦前名古屋で映画会社(独立スタジオのようなものだろうか)をやっていたと聞いている。我々を追い出した後、父の死後一年過ぎて、女優の卵だったらしい女と結婚している。結婚の準備のために我々を追い出したのだろう。戦後は名古屋市役所に勤務したと聞いている。長兄の性格には父の度重なる再婚が影響しているだろう。

 申し立てに長兄は「不思議なる妖術を使用し、(何か電気よって一種の霊術作用を施すらしい)苦しめるので居るに絶えずついに2月1日三子をつれて郷里に帰った」とある。当時の母の精神状態は非常に悪かったようだ。現代ならノイローゼだといえるが、その当時、明治生まれの母には理解できないことだったのだろう。頭痛は母の終生の病となった。電気というのは長兄が映写機などの電気器具を持っていたからだろう。
 昭和23年5月に財産分与の家裁決定があったが、同年6月に不履行による再調停の申し立てがあり、家裁の履行勧告が出された。23年の調停では1,住んでいる倉庫と借家人のいる病室、それらの敷地を贈与すること、そして井戸の共有。2,金二万円の贈与。3,風呂に入らせること。4,畑の半分の使用権を承認すること。5,顕微鏡一基と中布団一組を贈与することとあった。2,3,4が不履行とあった。
 23年は小学1年生になった年である。入学時にはまだ倉庫にいたことになる。何にくるまって寝ていたかは覚えていない。風呂も入っていなかったのだ。手ぬぐいでぬぐってでもいたのだろう。夏には風呂には入れたのだろう。長兄たちが入った後だったのではないだろうか。顕微鏡は疎開の悪ガキに盗まれたのではなかったか。風呂に入りに行ったのはいつ頃までか覚えていないが、やがて家の外に掘っ立て小屋をたて五右衛門風呂を作ってはいるようになった。煮炊きは火鉢でやっていたが泥と煉瓦で竈を作った。よく芝刈りにいったものだ。


母の書類から2

2014-02-15 13:17:20 | Weblog

 二項道路違反を盾にとって里道の拡幅をAに要請することもできるのではないかと思ったがやめにした。即座にに拒否するだろう。Aは何かというと権威を振りまきたがる性分のようだ。JAで中間管理職をやっていたようだ。現在区長をやっているが、頼み事をしても素直に聞くどころか一言二言能書きをたれないではいられないらしく、区民会館の事務員も辟易していという。訴訟沙汰にするとでも脅さなければ拉致あかないだろう。緊急の必要もないのにそこまで事を荒立てることはしたくない。母とAの先代がやっていた長い確執を再現することになる。愚か者と戦うことは愚か者と同列になることである。個人的争いではなく、必要なら公的な措置を執るべきなのだ。福祉サービスの人が来たとき、救急車も入れないのでは困るのではないかといっていたが、僕も姉も今のところ健康上の心配はないと答えておいた。

 小学校時代のことで思い出したことがある。夏休みに、タイル工場に同級生を連れて行ったことがあると聞いたことがある。覚えていないがそういうことがあった気がする。きれいなタイルをいくつか見せて自慢し、誘ったのだろう。
 楽しかった思い出の一番は祭りの時であった。集落の八幡宮の祭りにはちらし寿司を作ってくれた。たまには魚もあったかもしれない。母の在所の春祭りには毎年行っていた。魚、五目飯、里芋の煮っ転がしなど普段食べられないものが出るのである。母が行けないときでも弟をつれて5,6キロの道のりを歩いて行くのも楽しかった。途中のいじめっ子を避けて山道をたどったこともあった。近隣の祭りにもよく行った。芝居や漫才が来たからである。中学生になった頃からだろうか、芝居小屋が映画に変わった。中村金之助、東千代の助などが出演した「新諸国物語」に熱中した記憶が残っている。市川右太右衛門などの大型時代劇もあった。映画スターにあこがれた時代だった。


 遺族会による靖国神社参拝費用の領収証が1枚あった。昭和33年2月の日付である。母が遺族会に入り、兄の戦没者遺族年金をもらうようになったのはこの頃なのだろう。後年遺族年金は相当高額になったようだが、その頃は少なかったのではないだろうか。それで少し生活が楽になったかもしれない。24歳で戦病死した4兄は母に優しかったらしい。かすかな記憶だが、この兄はアコーディオンを弾いて聞かせてくれたことがある。戦争で精神を痛めつけられた3兄にもおぼろげな記憶がある。英語が好きだったらしい。



小学校高学年時代

2014-02-14 10:31:47 | Weblog

 生活保護の減額通知票があった。母の入院中は生活保護を受けていたようだ。看護婦住所のいまの住所への変更届の書類があった。戦後多くの人が生活保護費の不正受給をしていたようだが、不正のできない人間であった母は生活保護ぎりぎりの給料で生活していたように思う。小学校時代、我々兄弟は土日や夏冬の休みにはタイル工場へ手伝いに行っていた。家にはラジオも新聞もなかった。僕は中学生3年生の頃から新聞配達を始めたように思うが、その頃やっと新聞を取り始めた。

 こうやって思い出をたぐると悲惨のオンパレードのようだが、楽しい思い出もある。母の在所にいる頃はいじめられもしたが遊んでもくれた。牛小屋に積まれた藁ををクッションのようにしてとっくみあいをした光景が思い浮かぶ。五右衛門風呂から眺めた月夜に光る田んぼ。生地では小川の農業用に堰き止められたダムで子供たちで遊んだ。堰から落ちる水が滝のようで、それをくぐるのがおもしろかった。しかしあるとき、くぐっているときに堰止め用に張られた番線に首をつり、堰が崩れて死ぬ思いをした。近くにいた人が助けてくれなかったら死んでいたかもしれない。疎開の兄弟たちと水晶探しや薬莢拾いに行ったのも楽しい思い出といえるだろう。Y川で泳いだのも、最初はおぼれそうになって大人に助けてもらったが楽しい思い出だ。
 土日のタイル工場がよいがなくなったのは4年生くらいからだろうか。疎開の兄弟たちがいなくなったせいもあるだろう。集落の子供たちともよく遊ぶようになっていたように思う。いじめられながら遊んだというところだろう。しかし、紙芝居が来てもみんなと一緒に見られないのが寂しかった。ゴムボールを万引きして店のおばさんにしかられたといういやな思い出もある。
 隣のB家には同級生がいた。父親は中学校の校長だったので教科書などが離れの本棚にたくさんあって講談凡や探偵本がそろっていた。難しい字も少なくなかったが、みな仮名が振ってあった。5,6年生の頃だろうか、土曜日の午後などには縁側に上がって、同級生がいなくても暗くなるまで読んだりした。その影響でか正義感に燃える子供になっていたように思う。同級生に疎開の男の子がいたが、校庭の隅でいじめっ子が4人がかりで彼をからかっているのを見て「馬鹿野郎、弱いものいじめをするな」などと怒鳴ったことを覚えている。しかし、4人が自分の方に向かってきたので家に逃げ帰ってしまったのが情けなかった。
 タイル工場の粉塵のせいか、扁桃腺肥大でよく風邪を引いた。蓄膿気味でよく頭痛に悩まされた。そういえば回虫にやられたこともあった。修学旅行も行けず小学校卒業した。 


母の書類から

2014-02-12 10:22:34 | Weblog

 この記事は違反建築から始まったのですが、もっぱら回想録となりました。それでジャンルを違反建築から人科私目に変えました。ついては書き方もラフにします。

 栄養失調状態から解放された時、すなわち学校給食が始まったときを5年生頃だと思っていたが、どうやら4年生からだったようだ。ユニセフ給食という脱脂粉乳の給食が始まったのは昭和24年10月ということです。僕は小学校2年生だっただろう。先生に弁当をもらったりしたのもおそらくそれ以前のことだと思う。完全給食は都市では26年2月に始まったというが、わが田舎小学校で始まったのは僕が4年生の時、27年の4月からだったようだ。その頃から私の頭もはっきりしてきたように思われる。しかし、関節炎や皮膚炎は大人になってもづっと続いた。学校給食だけでは栄養不足だったのだ。僕はずっと牛乳が苦手だった。ガスがよく出るようになるから敬遠していた。

 書類のなかに看護婦住所の昭和13年付け変更届があった。それによると母の結婚は昭和13年のようである。看護婦免許を取得したのは昭和7年東京でのことらしい。その四年後には2.26事件に遭遇したことになる。事件後2年で故郷に帰って医師である妻を亡くしていた父と結婚したのだろう。明治39年、山村生まれの女性がどのような夢を持って東京へ向かったのだろう。訂正、看護婦試験合格証が出てきた。大正15年第一回看護婦試験に合格、愛知県であった。20歳だった。その免許証を持って東京へ出たのだろう。その前、大正14年に第2回産婆試験に合格していた。
 姉の離職票があった。昭和31年とある。中学卒業後母と一緒にタイル工場で働いていたようだが、半年ほどでやめているのはなぜだろう。おそらく精神病院に入ったのではないだろうか。その頃は知的障害は精神病と同一視されていたようだ。それも1年くらいで退院して、家に帰ってきたような記憶がある。帰ってきたとき顔が赤く腫れ上がっていた。投薬のせいだと考えて母は引き取ったようだ。
 腹違いの姉からの昭和31年の手紙もあった。ご主人を亡くして4ヶ月、2人の子供がいるが寂しいと書いてあった。苦労しているようである。お母様とあるのが奇異な感じがした。昭和31年の時点で31,2歳だったのではないだろうか。障害の姉より上に7人いた腹違いの兄弟たちとは、年が離れていて記憶がないのである。その姉は遠くないところに住んでいるが付き合いはない。数年前までは墓地の掃除には来ていたらしい。
 長兄が91歳くらいで死んだのはこのたびのことで分かった。次兄の生死は分からない。三兄は戦争で精神を病み精神病院で死んだ。4兄は戦地で死んだ。長女はだいぶ前に死んだと聞いている。次女は事業に失敗した旦那と富士山で自殺したと聞いている。手紙の姉は3女だろう。
 信仰はないが、ただ南無阿弥陀仏! 


母の残した書類

2014-02-11 10:35:10 | Weblog

  里道・二項道路の違反については一度弁護士の意見を聞いた方がいいかもしれないと思っている。自分では車に乗らなくても障害福祉関係の人が来たとき、弟やその子供たちが来たときに不便である。弟は車で30分ほどのところに住んでいるが、月に一度くらい来て、仏壇に花を備えたり、お墓の掃除をするなどしてくれる。母は平成三年に病院で亡くなった。86歳であった。庭の崖から転落して脊椎を痛め入院していたのである。痛ましかった。しぬときわT足をじっと見つめていた。眼が金色に光って見えた。姉の面倒を見ろと言っているようだった。死ぬ前10年くらいはアルツハイマーであったが、ずっと家にいた。徘徊で何度か警察のやっかいになった。いつも知的障害の姉を連れていた。
 いま、改めて母の残した手紙や裁判関係の書類を読んでいる。いや初めて読み始めたばかりだ。8月の日付のある封筒が目についた。宛先は母の在所だから昭和22年のことだろう。東京の知人からのようだった。達筆で読みにくいのだが、どうやら金の無心を断る手紙のようでだった。結婚前の母は東京で看護婦をしていたから、そのころ勤めていた病院関係者だろう。次に目についたのは昭和31年3月から8月まで、半年にわたる病院の給食用主食領収票だった。それで母が結核で入院したことを思い出した。私が中学2年生から3年生のときだった。兄弟たちの食事の世話をしたことをかすかに覚えている。何を作ったかは覚えていないが、麦飯に味噌汁くらいのものであろう。それと雑炊である。母も雑炊が多かった。量を水増しできるからだった。
 後は姉の障害関係の書類が多いようだった。もう昼だから明日に読むことにした。午後は30分の昼寝と1時間半くらいのウオーキングを日課にしている。それで3時を過ぎてしまう。姉がディサービスから帰ってくる4時過ぎまで食事や風呂、洗濯などの家事である。 


小学校時代2

2014-02-10 10:34:44 | Weblog

Aの倉庫を建てた建築屋は今年のカレンダーを持ってこなかった。気まずいから当然と言えば当然である。倉庫の建築は平成12年頃だと記憶している。その前は木造平屋、二間くらいの小屋だった。それを建て替えたときにセットバックしなければならなかったのである。それなのに建築許可を受けずに造ってしまった。建築業者なら事前に土地の情報を調べなければならないから、違反承知の上の工事だったんは間違いない。この里道に接するCの家はずっと昔、昭和40年代に建てられたものだが、この二項道路があるから建てられのであり、セットバックさせられていた。Cの土地は私の小学生時代は田んぼだった。Dの土地は畑だった。自由で自然豊かな遊び場だった。

 小学校時代のことを思い出そうとすると暗い気持ちになる。頭も重く胸も詰まる。病気になったような気持ちになる。
 学校に弁当を持って行けないので昼になると家に帰って兄弟で焼き芋を食べた。時には女先生が弁当を分けてくれたりした記憶がある。朝食は水っぽい麦飯と具のない味噌汁である。夜食は冷たい残り飯であった。それでも年に二回くらい、正月と祭日くらいには魚を食わせてくれたように思う。もちろん肉を食った記憶はない。
 河川敷の藪に小さな畑を借りていて、母と便所から肥を担いでいったものである。収穫があった時は芋飯や大根飯もあった。味噌汁に菜っ葉も入った。味噌汁のだしは味の素だったように思う。たまには煮干しや鰹節もあった。鍬や鎌を使うと手の指がそのままの状態で固定してしまった。伸ばすと痛かった。手のひらは皮膚炎でいつもぼろぼろ皮がむけていた。病気だと噂されていたようであった。後年知ったことだが、カルシューム不足の関節炎だったのである。栄養失調と空腹で頭はいつもぼんやりしていたようで、のろのろしていたからかあだ名は「牛もー」だったように思う。
 この状態が改善されたのは5年生くらいになってからだろう。 


小学校低学年時代

2014-02-05 10:53:06 | Weblog
 小学校時代は里道をよく使っていたように思います。田んぼがあって、ドジョウすくいをした覚えがあります。夏は賑やかなカエルの合唱が子守歌のようでした。貧しくても自然とともにあった昔と、豊かでも自然と乖離している現代と、どちらが良いかなどという気はありません。すべては人類の発達過程ということだと思います。文明と自然が渾然一体となる時代が来ることを期待したいものです。
 里道の私物化は高度成長期に行われました。自家用車が普及して農地の市街化が進み、里道を歩く人がほとんどいなくなったからでしょう。はじめは「通る人がいないなら自分の都合の良いように使わせてもらおう」といったところでしょうか。しかし月日がたつとはじめから自分のものだったような気がしてくるものです。使われないから私物化して良いわけではありませんが、人間は自分の都合の良いように考えるものです。

 病室を住居として母はタイル工場へ2kmほどの道のりを通いました。わたしと姉は小学校です。姉は知的障害者です。実は小学校、中学校時代の姉のことはまるっきり思い出せないのです。恐ろしく嫌なこと、多くのいじめに遭っていたのでしょう。最近ちょっとずつ小学校時代のことを思い出しています。恥多く陰惨な時代で一番の記憶は、名古屋から近くに疎開してきていた一家のことです。男兄弟ばかり4人いたでしょうか、実に悪ガキたちだったと言っていいでしょう。一番下が私と同級生で、一番上は中学3年生くらいだったのではないでしょうか。長子のその子は後に暴力団員になったと聞きます。その子たちによって疎開先の家の子もひどい目に遭ったように思います。学校から帰れば親のいない家で私たちは、居場所のない彼らと遊ぶことが多かったような気がしますが、思い出すのは苦痛なので今は止めておきます。良い思い出というか、飛行場跡に薬莢を探しに、山にに水晶掘りに連れて行ってもらった思い出があります。彼らがいたのは1、2年生のあいだだったでしょうか、30年くらい後に同級生だった子と喫茶店で出会ったとき、思わず「おまえらは人間じゃない」といってしまいました。無意識に潜んでいた恨みが口をついて出てしまったのでしょう。30年ぶりに会ったのに作業着姿のその男から小学校1,2年生の面影を思い出すとはよほどの恨みなのでしょう。その男は二度とその喫茶店に来ませんでした。喫茶店の主人はそれを感謝していました。