里道の南に向かって降りる道を作った。掘りあげた土でBとの境界の窪地を埋めていたとき、Bが文句を言ってきた。僕が「境界より控えている。立ち会いどうのこうのいうより境界杭を打てばいいではないか、測量が済んでいるのだから。杭代を半分持つよ」ということをいってやった。「そうだな、Tに相談してみよう」といって引き下がった。彼はとっさのことで気づかなかったようだが、杭を打つには里道と関係があるから役所の立ち会いも必要になる。そうすると里道の私物化があからさまになる。それがいやで彼は測量のくい打ちをやめていたのだ。あれから4日になるが何もいってこない。やっぱり!(Tとは江戸末期から昭和4年に発電所ができるまでこの集落に繁栄をもたらした材木商の後裔で、現在でも集落一の資産家である。腐っても鯛と陰口をたたかれているようだ。息子が測量屋をしている。BはTの分家である。)
母の書類に次兄が母を殴ったという様子が見えるが、長兄が母を足蹴にした光景を思い出した。倉庫時代のことだと思う。風呂に入らせてくれと頼んだときではないかと思う。
母の頭痛を電気操作によるものだとする被害妄想は長兄が名古屋に引っ越すまで(僕が中3の頃だっただろうか)続いたようだ。世間には気違い扱いされていたように思う。その後も死ぬまでノーシンの愛好者だった。一時期「成長の家」にこっていた。大正15年、第一回看護婦試験の合格者であり、大臣などの看護もし、東京の青春を謳歌した母だったが、戦後の苦難は運命の皮肉というしかない。
母と僕の関係について考えてみると、いわゆる親子の愛情とは違うものがあるようだ。昭和19年生まれの弟は母の背中の味を知っているが、僕の生まれた頃は仕事が忙しくてだっこする暇もなかったようだ。それに母乳が出なくて、代わりに山羊の乳で育てられた。最初は女中さんがいたようだが、戦争が激しくなるとともに実家に帰ってしまったのでうんちで泣いても放っておかれたような記憶がある。母に対しては愛情よりも恐れが強かったと言っていいだろう。
中学時代のことは、僕の精神もかなり複雑になっていたので、うまく表現することは難しい気がする。中1になって一番印象に残っているのは意地悪3年生を突き倒したことだ。箒を振り回しながら我々1年生に何かを命じていたのだと思う。弱いものいじめを憎む気持ちはますます強くなったようだ。先生に見せる日記だったかに恋と書いて「まだ早い」と注意書きを受けた記憶がある。小学校時代から好きな子がいたのだ。
中学に入ったとき級長にされた。記憶にはないが小6の成績がよかったのだろう。しかし、僕は手のひらの皮膚病と蓄膿、あかぎれ、頭痛、そして繕ったつんつるてんの制服など、劣等感の塊でもあった。
中学時代は僕の精神分裂時代の始まりといえるかもしれない。