魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

総括、展望

2007-01-23 15:28:04 | Weblog

青年期の社会的自己追求は、精神主義的な魂にいわせれば、真の自己から逃げ出す、自由からの逃走という局面です。生命論的立場でいえば、真の自己に向かわないのは逃走でも抑圧でもなく、ただの未成熟・無知なのです。国家や仕事に自己同一化するのは、誤った自己同一化というより、自己探求の試行錯誤なのです。別に彼らは逃げ出しているわけではなく、まだそれに気づく段階にいないだけなのです。
抑圧とか逃走という精神分析的概念はフロイト以来のものですが、社会的自己の探求の段階において、膿があふれるほど(肥大した憎悪からくる)心身の病に対する精神分析の場に限るべきでしょう。抑圧が病の原因といいますが、抑圧はまた生きる意欲の原因にもなります。通常の状態にあってはあくまで愛の重視からくることであって、憎悪を抑圧するのは自然です。

成長は必ずしも良い人間になるとか、幸福になるということを意味しないものですライオンもハイエナも幼児は天使のようにかわいいものです。成長とはむしろ汚れていくと考えた方がいいでしょう。幼少期はそれなりに問題はあっても汚れのないものであると思われ、大人になると、ほとんどの人はそれを懐かしむものです。大人になるとは他者・対人関係で心が汚れ、苦しみを増すものです。そこに様々な自我の幻想・妄想が生まれ、心はゆがんでいくのです。

最後にこれからの人類の成長を簡単に予想しておきます。
人類はその思春期も終わりに近づくと「世界とは何であるか、人間とは何であるか」と「道」を訪ねアイデンティティを求め、「学に志す」ようになるでしょう。青年期は「これが道である」という立脚点、アイデンティティの試行錯誤を繰り返すことでしょう。中年期とはアイデンティティを確信することかもしれません。私はそれを生命的世界観だろうと予想します。そしてやがて高年期にいたり、その世界観に「惑わず」になるのでしょう。さらに熟年すれば「世界」の「宇宙」の生と死の運命を見定め、人類の「天命」を悟ることでしょう。それは必然的に老年期「耳従う」の境地、そして最終的には、心のままに生きて「矩を超えず」に世界を楽しむ解脱期、「悟達」の境地に至ることでしょう。私は人類の未来はこのようなものだろうと信じますが、あるいは人類の絶滅という展開もあるかもしれません。しかし、「永遠」の自我として、人類の魂は他の生命体の形をとって再生し、結局はこの魂の発達史を完成することでしょう。『魂』は不滅なのですから。