魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

自己催眠4

2014-10-10 10:01:12 | Weblog

  村上春樹のノーベル賞騒ぎは終わった。村上の作品で読んだことがあるのは「ノルウェイの森」と「羊をめぐる冒険」だけと記憶している。印象はムード小説かというのであったと思う。「羊をめぐる冒険」などで途中で投げ出してしまったように思う。表層的で、魂が書かれていないという感じであった。現在は文学作品を読まなくなったものがあれこれいうのはなんだが、彼がノーベル賞に値しないのは人間性、民族性、社会性における人間的葛藤に対する意識が薄いからだろう。現代では希少な文学好きな若者には人気があるようだ。それだけ自己愛的人間が増えたということかもしれない。

 僕は催眠術を学ぶことによって自分本来の魂の欲求に気づいたと思う。それは古来多くの思想家が求めてきたもの、「人間とは何なのか、人間は何のために生まれてきたのか、世界はなぜこのように存在するのか」という問題の答えである。そこで改めて先賢たちの残した思想を点検してみようと思い立ったのである。しかし相変わらずの自堕落を引きずりながら生きていた。自堕落は心身の歪みから来ているのであるから、その改善のためにも自己催眠を続けていった。

 催眠勉強の後何年かして中日文化センターでヨーガの講座を受講した。他者催眠が宗教的技術であったように、自己催眠も宗教的修行法として行われて来た。ヨーガや座禅もその一つである。
 寺院で座禅をしてみたこともある。座禅は必ずしも暗示を必要としないように見える。自己催眠とは自己を自己催眠状態に導く方法といえるかもしれない。禅でいう「真空妙法」・「天地一枚の境涯」・「絶対矛盾の自己同一」を自己催眠状態と呼んでみたのだが、これは他者催眠のように何かを待つような状態ではなく、何ものからも自由な状態となることのようである。
 座るだけでは物足りないのとインドの世界観への興味もあってヨーガを始めたのであった。講座の主宰者は番場一雄という人であった。彼によるとヨーガは自我の実現と自我の解放という二面性を持つ段階的な幸福体系だという。ヨーガは精神集中のための技法であり、難しい体位の体操をするのが目的ではないということである。
 集中力の弱い人でも訓練次第で集中力が高まり深い催眠状態が得られるだろう。しかし人それぞれの魂によって幸福は違う。一気に深い自己催眠状態を体験することはできないし、必要性もないのである。 


自己催眠3

2014-10-09 10:16:23 | Weblog

  心とは不思議なものである。記憶喪失では過去の人格は失われてしまい、別の人格になるなのである。記憶を取り戻すと記憶喪失時代の記憶を忘れ、元の人格に戻ってしまう。人間の記憶は人格と結びついているに違いない。他者催眠でも通常の人格は脇にどいてしまい、催眠者という他者を主体とした別人格による経験をすることになる。浅い催眠状態では、まだ催眠者と共同主体のような状態だから催眠時の記憶は残っている。しかしもっとも深い覚醒時には、完全に自己の主体性は失われ、その記憶は失われるのだろう。二重人格障害や多重人格障害では、別の人格の記憶は失われるという。主体が完全に変わることを意味するだろう。

  内向的といい外向的といって性格判断をするが、人間の心は双方向性だろう。外向性強くなりすぎてもない構成が強くなりすぎても精神病になるだろう。大事なのはバランスである。
 問題は何に関心があるかではないだろうか。僕は内向的か外向的か。内面を見つめているが、自己反省をしているだけではなく、外部の世界や宇宙に対する自分の思惟を見つめている時の方が多いのである。自己の思惟を見つめるという意味で内向的といえるだろう。

 僕は多くの愚かしいことをしてきたが、その後じっと自分を見つめ反省してきた。しかし一通り反省したらあとは忘れてしまう。「今日のことは今日で終わりなん、明日は明日のことを思い煩わん」である。一度反省したことは暗示となって二度と犯さないという気持ちであった。強い内向的暗示をしたともいえる。
 僕の一面は活動的で陽気であり、何事にも一生懸命になる。また人の批判はするし、人の不正に対して攻撃的である。これは外向的であろう。しかし愛想やごますりは大嫌いである。少年時代から多くの偽善を見てきたせいであろう。

 子供には内向性はないだろう。内向性は大人になっての心理傾向だといえる。人間的に成長するにつれ人は内向性を持つものだろう。現代日本人は幼児性が高いといわれるのは内向性が育っていないのである。内向性は現実の厳しさを経験して育つ。金持ちの子は甘やかされて育つから内向性が弱い。