村上春樹のノーベル賞騒ぎは終わった。村上の作品で読んだことがあるのは「ノルウェイの森」と「羊をめぐる冒険」だけと記憶している。印象はムード小説かというのであったと思う。「羊をめぐる冒険」などで途中で投げ出してしまったように思う。表層的で、魂が書かれていないという感じであった。現在は文学作品を読まなくなったものがあれこれいうのはなんだが、彼がノーベル賞に値しないのは人間性、民族性、社会性における人間的葛藤に対する意識が薄いからだろう。現代では希少な文学好きな若者には人気があるようだ。それだけ自己愛的人間が増えたということかもしれない。
僕は催眠術を学ぶことによって自分本来の魂の欲求に気づいたと思う。それは古来多くの思想家が求めてきたもの、「人間とは何なのか、人間は何のために生まれてきたのか、世界はなぜこのように存在するのか」という問題の答えである。そこで改めて先賢たちの残した思想を点検してみようと思い立ったのである。しかし相変わらずの自堕落を引きずりながら生きていた。自堕落は心身の歪みから来ているのであるから、その改善のためにも自己催眠を続けていった。
催眠勉強の後何年かして中日文化センターでヨーガの講座を受講した。他者催眠が宗教的技術であったように、自己催眠も宗教的修行法として行われて来た。ヨーガや座禅もその一つである。
寺院で座禅をしてみたこともある。座禅は必ずしも暗示を必要としないように見える。自己催眠とは自己を自己催眠状態に導く方法といえるかもしれない。禅でいう「真空妙法」・「天地一枚の境涯」・「絶対矛盾の自己同一」を自己催眠状態と呼んでみたのだが、これは他者催眠のように何かを待つような状態ではなく、何ものからも自由な状態となることのようである。
座るだけでは物足りないのとインドの世界観への興味もあってヨーガを始めたのであった。講座の主宰者は番場一雄という人であった。彼によるとヨーガは自我の実現と自我の解放という二面性を持つ段階的な幸福体系だという。ヨーガは精神集中のための技法であり、難しい体位の体操をするのが目的ではないということである。
集中力の弱い人でも訓練次第で集中力が高まり深い催眠状態が得られるだろう。しかし人それぞれの魂によって幸福は違う。一気に深い自己催眠状態を体験することはできないし、必要性もないのである。