魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

自己催眠2

2014-09-29 11:24:49 | Weblog

 催眠術の体験から心の不思議さに目覚めた僕は、魂の哲学に向かった。それまでは宇宙の不思議を求めてSF世界を旅していたのだが、心の世界の方が遥かに不可思議だったのである。また詩作を再開し、同人誌にも参加するようになった。40歳の夏のことだった。

 藤本正雄の「催眠術入門」と平井富雄の「自己催眠術」を買ったのは本格的に小説を書こうと思い立った51、2歳の頃だったのではと思う。

 他者催眠時の意識について、守部昭夫の本では記憶支配では意識がなくなるといっていた。1973年版であった。他者催眠時には意識が通常のようにあるとした平井富雄の「自己催眠術」は1992年版である。催眠に対する研究が進んだということだろう。催眠時であっても過去の記憶を思い出し、語るときに意識がないというのはおかしいという気がする。記憶支配のときにやったことを覚醒時には忘れてしまうのは、催眠者の指示によったことは自分の経験として記憶されていないとか、意識の次元が違うということかもしれない。夢を見ているときの脳波は覚醒時と類似しているという。夢から覚めたとき夢のことを忘れてしまうことは多い。夢を覚えているのは夢うつつのときだろう。目覚まし時計などで、はっきり目が覚めたときなどは夢を覚えていないし、夢などみていなかったとさえ思うだろう。

 ということで、自己催眠では記憶支配まで入れないという説ついても考え直す必要があるだろう。自己催眠の状態でも過去の記憶を辿ることができるのではないだろうか。深い自己催眠状態で過去を探れば、思い出したくない過去も思い出せるのではないだろうか。実際僕は多くの過去の過ちを平気で思い出せるようになっている。高まった集中力で恥辱間や虚栄心、罪悪感を排除して記憶を辿れるのであろう。

 

 藤本正雄野「暗示の本質は自己暗示だ」を踏まえて「催眠とは自己催眠である」といったが、他者の暗示を受け入れる、すなわち他者の言語を自分の言語と同化・同一視するというところまでで、本質的には自己催眠と他者催眠は違うという。平井富雄によると、それは脳波の波形で証明されているということである。他者催眠の脳波の波形は覚醒しているときの普通の脳波と同じらしい。つまり自己の意志を他者に委ねただけで眠っているわけではないということだろう。感覚や記憶を支配されるのは意識の方向決定も委ねているわけだが、それを自分の意志だとも思っているわけである。

 意識や意志の方向付け、つまり心の操舵を他人に任せるのが他者催眠といえるだろう。これを「我を忘れる」と平井富雄は表現している。自己意識だけはあるのだが、意欲や感情、感覚、思考など、実際的な心の働きには意識が行かないのである。日常でも、疲れたときなど、ぼんやりして、何の感情も、何の思いも浮かばないようなときがある。それは何かを待っているような状態といえるかもしれない。その何かは外からか内からか?他者催眠では外からということになる。

 自己催眠の脳波は睡眠時に近くなる、しかし眠っているわけではない。うたた寝やほろ酔いに似ているという。我を忘れるという状態ではない。

 


自己催眠

2014-09-23 15:34:35 | Weblog

 平井富雄著「自己催眠術」に被暗示性・被催眠性の高さについての記述がある。知能の高い人ほど催眠にかかりやすい傾向があるという心理学者による研究結果が報告されている。それによるとIQ70からIQ100のあたりまで被催眠性は高まるようである。IQ70以下がないのは知的障害があるとみなされているのだろう。100以上は少しずつ上がっているがほとんど変わらないところがおもしろい。頭が悪くては催眠にかかりにくいが、IQ100は標準的知能だから、知能が高いほど催眠にかかりやすいともいえないだろう。「女性は、男性よりも催眠にかかりやすい」は俗説として否定されている。
 興味深いのは性格による被催眠性の高さである。内向的な人と外向的な人を比べると、外向的な人の方がより催眠にかかりやすいといわれる。つまり標準的な知能以上で外向性の強い人が催眠にかかりやすいのである。
 外交的とは意識の重点が外に向いていて、他人の言語・暗示に対する集中力が高いということだろう。内向的な人は自分の内なる言語に意識の重点があるので、他人の言語・暗示に対する集中力に欠けるのである。外向性が行き過ぎると(外面ばかり気にすると)人にだまされやすい人間になるし、内向性が強すぎると(辛気くさくなって)人付き合いの下手な嫌われ者になるだろう。辛気くさくても成功するのは学者や芸術家くらいだろう。世間で成功するには外向性が大事だ。最極端は精神疾患ということだろう。精神病質者、ヒステリー症患者は外向的、恐怖症患者、強迫神経症患者は内向的といわれる。

 「催眠とは自己催眠である」ともいわれる。他者催眠も、尊敬、恐怖などをきっかけとしてであっても、催眠者の暗示を受け入れる、それと自分が同化するところから始まるからだろう。それゆえ催眠術を理解するには自己催眠を理解した方がわかりやすいだろう。 
 僕が他者催眠の催眠誘導テストを受けていたときも、実際には僕は自分でやったわけである。自己催眠である。自分で催眠テストを繰り返すことによって被暗示性が高くなった。テストを繰り返すことは集中力を高める訓練になったのである。ついにはイメージしなくても暗示だけで振り子が回ったり手のひらがくっついたりするようになった。手のひらがくっつくときなど何かの力で引っ張られていくような感じになった。「強くくっついた手のひらはもう離れない、離そうとしても離れない 、ますます強くくっつく」という暗示がある。最初は離れてしまった。そこでなぜ離れたかを考えた。離れたのは離すというイメージへ意識が移動して肩の力を抜いてしまったからだ。手のひらを離すには肩の力を抜かなければならない。「強くくっついて離れない」という暗示から離れて、離す方に意志、イメージが移動してしまったのである。暗示に忠実でなかったわけである。催眠でたいせつなのは暗示に集中して勝手に次のシーンへ移らないことなのである。本を読んでも文章から他のことを連想したり、反対のことを考えたり、批判的なことを思ったりする性格の僕は暗示に忠実ではなかった。自己催眠の練習をするときは、すべてを暗示の通りに行うことがたいせつだ。覚醒も「5分したら目が覚める」というように暗示によって定めて練習した方がいいだろう。そうでないと暗示にない思いつきで催眠状態から醒めてしまうことになる。「催眠というものはない。あるのは暗示だけだ。」と催眠術を大成したというのベルネームはいっています(藤本正雄・催眠術入門)。
 催眠が暗示だとするなら、自分に自信のない人は自己催眠に向かないないだろう。自分の言語に自信がなければ暗示としての機能も弱いだろうから。催眠の本の著者は言及していないようだが、自己催眠は、内面に向けての暗示だから、内向性の人の方が向いているかもしれない。


催眠術3

2014-09-19 10:45:36 | Weblog

催眠教室で自己催眠テープなるものを購入した。シュルツの自己暗示法に則った守部先生による暗示を録音してあるものだった。内容には楽園で憩うようなイメージがあったと思う。毎晩それを聞きながら寝ていた。そんなあるととき、深い深い墜落感に陥った。心地よい、魂が抜け落ちていくような無限の墜落感だった。しかし急に恐怖感が起こって目が覚めた。僕の心の奥に隠された暗黒が現れることへの恐怖であったかもしれない。自己催眠テープはけっきょく先生の声に身を任すことであり、そこに自分の声、自分の意志はないのである。僕は人に支配されるのは大嫌いで、世の中の権威や名声に対しても不信感を持つ人間だった。それゆえどんなに守部という人が人格者との評判があっても、自分の魂の底にあることをさらけ出す気はなかった。催眠の最も深い状態では、記憶支配といって、心の中をのぞくことが出来るという。育ちのよい先生たちには理解できないものを僕は持っている。そういう思いもあった。そして催眠教室を去った。

 しかし催眠現象は僕に大きな感動を与え、無意識の心への興味をかき立てた。その後僕は人間の心についての本を読むようになった。まず催眠現象を検証することにして、心理学的な解説書を読むことにして、藤本正雄著「催眠術入門」と平井富雄著「自己催眠術」を購入した。
 「催眠術入門」によると、深い催眠状態では「暗い静かなところで、自分だけが座っているような感じで、頭の中がまったく空になって、何の考えも浮かんでこない。そばの音も何も聞こえてこないが、しかし自分の存在だけは、はっきり分かっている。」という。外部の音を聞いていても、物を見ていてもそれは意識されないし、自分で考えてものごとを判断することの出来ない状態のようである。催眠者の暗示を待っているだけの、自分の意志の喪失だといえるだろう。催眠者に意志を渡してしまっているのである。
 催眠の深さは運動支配から知覚支配、そして記憶支配へと3段階に考えられていて、知覚支配の段階に入れる人は、催眠者や文化の違いなどによって差が出るのだろうが、15%から25%くらいのようだ。どうしてもかからない人は5%から15%くらいいるという。ちなみに運動支配や知覚支配の段階にしか行かない人はそれぞれ35%くらいと考えられている。まったく人任せになるほどの人はあまりいないのではないかと思う。守部先生は、宇宙人に会ったという人に催眠をかけて記憶を覗いたことがあるが、最後は頭が割れるように痛いという状態になって、それ以上深くは入れなかったという。宇宙人の拒否暗示という説もあるが、無意識の拒否にあったのであろう。その人にとって、それがたとえ幻視体験だとしても、真実の体験であったのかもしれない。どんな深い催眠状態にあっても、その人の人格など、魂の根幹に関わる暗示は拒否されるのであろう。催眠で犯罪に導かれるとしたら、その人自身の倫理観に問題があるのである。

 催眠深度のパーセントは人類の精神構造を表しているようでおもしろい。全く催眠にかからないのはよほど雑念の強い無気力な人だからだろう。集中力の高い人ほど自己催眠力も大きいだろう。しかし、記憶支配の深い段階は、無意識の世界に入り暗示する自己意志も消えてしまうので、自己催眠では不可能なようである。


催眠術入門2

2014-09-09 09:47:16 | Weblog

 催眠にかかりにくい弛緩タイプとは、自分から何もしなくても施術者の言葉通りに振り子の重りが動くことを期待しているのではないだろうか。超能力を期待しているのかもしれない。全くの他力本願性格者だ。他力本願でも親鸞のそれとは違う。親鸞には阿弥陀如来への信仰があった。法然上人への尊敬と信頼があった。それは自ら発するもので自力といえるだろう。ところが催眠にかからない弛緩タイプは催眠術を信じているわけでも、催眠術の先生を信頼しているのでもないようだ。信じていれば意識的にでも手を動かしてしまうものである。先生から「重りが、まるで振り子のように、左右に動くと思ってください」といわれても、ただ漠然と動くと思うだけで、奇跡が起こるのを待っているだけなのだろう。動くイメージがついて行かないのかもしれない。想像力が貧しいのである。あるいは、たとえイメージを働かせていたとしても、本当に動くのだろうかとか、こんなことばかばかしいとか、ふと彼女のことを思ったりするとか、雑念が混ざって重りの動くイメージに集中できないのかもしれない。雑念が強いのだろう。雑念が強ければ集中力は弱くなる。信じる力も尊敬する力も弱くなる。無気力にもなる。

 人は誰でも何かに集中するときは緊張して体に力が入るものである。弛緩タイプとは集中力の欠如、雑念の人だといえるだろう。雑念の強い人たちは無気力で常に欲求不満や不安にとらわれているのではないだろうか。かれらが催眠教室に来るのは何か超人的な力が自分を変えてくれ、楽園に連れて行ってくれることを期待してのことだろうが、自分からは何もしないで、丸ごと身体を抱きかかえて持って行ってくれるのを期待しているのだ。しかし、ちょっと宗教的な表現だが、「楽園は心の中にある。楽園に連れて行ってもらうには、導き手に自ら手を差し出し、身体を差し出し捧げ、心を裸にしてもらわなければならない」のである。 世の中で大事をなす人は皆それに身を捧げているのである。芸能スポーツしかり、金儲けも権力獲得もしかりである。

 さて自分を振り返ってみると、懐疑論者であったから、催眠について学ぼうという心は強いが、催眠者を信じる心は弱い人間であった。 だから直接的には催眠にかかりにくいタイプといえる。しかし催眠の原理は理解していたから、自ら意識的に動くことによって、催眠状態に入るという手法を用いていた。先生の言葉を丸ごと受け入れるのではなく、自分の言葉に直して受け入れたのである。ある意味で自己催眠といえるだろう。