催眠術の体験から心の不思議さに目覚めた僕は、魂の哲学に向かった。それまでは宇宙の不思議を求めてSF世界を旅していたのだが、心の世界の方が遥かに不可思議だったのである。また詩作を再開し、同人誌にも参加するようになった。40歳の夏のことだった。
藤本正雄の「催眠術入門」と平井富雄の「自己催眠術」を買ったのは本格的に小説を書こうと思い立った51、2歳の頃だったのではと思う。
他者催眠時の意識について、守部昭夫の本では記憶支配では意識がなくなるといっていた。1973年版であった。他者催眠時には意識が通常のようにあるとした平井富雄の「自己催眠術」は1992年版である。催眠に対する研究が進んだということだろう。催眠時であっても過去の記憶を思い出し、語るときに意識がないというのはおかしいという気がする。記憶支配のときにやったことを覚醒時には忘れてしまうのは、催眠者の指示によったことは自分の経験として記憶されていないとか、意識の次元が違うということかもしれない。夢を見ているときの脳波は覚醒時と類似しているという。夢から覚めたとき夢のことを忘れてしまうことは多い。夢を覚えているのは夢うつつのときだろう。目覚まし時計などで、はっきり目が覚めたときなどは夢を覚えていないし、夢などみていなかったとさえ思うだろう。
ということで、自己催眠では記憶支配まで入れないという説ついても考え直す必要があるだろう。自己催眠の状態でも過去の記憶を辿ることができるのではないだろうか。深い自己催眠状態で過去を探れば、思い出したくない過去も思い出せるのではないだろうか。実際僕は多くの過去の過ちを平気で思い出せるようになっている。高まった集中力で恥辱間や虚栄心、罪悪感を排除して記憶を辿れるのであろう。
藤本正雄野「暗示の本質は自己暗示だ」を踏まえて「催眠とは自己催眠である」といったが、他者の暗示を受け入れる、すなわち他者の言語を自分の言語と同化・同一視するというところまでで、本質的には自己催眠と他者催眠は違うという。平井富雄によると、それは脳波の波形で証明されているということである。他者催眠の脳波の波形は覚醒しているときの普通の脳波と同じらしい。つまり自己の意志を他者に委ねただけで眠っているわけではないということだろう。感覚や記憶を支配されるのは意識の方向決定も委ねているわけだが、それを自分の意志だとも思っているわけである。
意識や意志の方向付け、つまり心の操舵を他人に任せるのが他者催眠といえるだろう。これを「我を忘れる」と平井富雄は表現している。自己意識だけはあるのだが、意欲や感情、感覚、思考など、実際的な心の働きには意識が行かないのである。日常でも、疲れたときなど、ぼんやりして、何の感情も、何の思いも浮かばないようなときがある。それは何かを待っているような状態といえるかもしれない。その何かは外からか内からか?他者催眠では外からということになる。
自己催眠の脳波は睡眠時に近くなる、しかし眠っているわけではない。うたた寝やほろ酔いに似ているという。我を忘れるという状態ではない。