天才少年ウルフィは成長につれ、才能を加速度的に開花させてゆきました。死後もなお驚異の進化は続いています。
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。この名を知らない人も、その音楽を聴いたことの無い人もいないに違いありません。でも、不思議な事に、モーツァルトの名演奏は驚くほど少ないんです。彼の音楽は余りにも素晴らしく、計り知れないほど奥が深いからかも知れません。モーツァルトの演奏は恐ろしいまでに、弾き手の感性をさらけ出してしまいます。その為か、凡庸で平凡で退屈な演奏が大多数を占めているのが現状です。
愚かにもその秘密の解明に挑戦?\(◎o◎)/! して見ます。
ここでは二つの作品を例に挙げてみます。
一つはヴァイオリンとビオラの為の協奏交響曲。私は、この曲の名演奏に出会った事が余りありません。特にライブでは皆無です。そのライブの一つが今をときめく、ティレーマンの指揮だったから驚きです。ディスカウの代役でまだ若い頃だから致し方が無いのかもしれませんが、兎に角退屈で、ひたすら眠気と戦い続けた記憶が有ります。
私が初めてこの曲の美しさを知ったのは、グリュミオーの指揮とビオラでした。なんて優しく美しいのだろう。 忽ちモーツァルトのファンに なってしまいました。
後二つ名演を紹介しましょう。
一つは、アーノンクール・ウイーンフィル・クレーメルの演奏です。アーノンクールにしては驚くほど正統的な演奏ですね。少し残念なのクレーメルのヴァイオリンに比べてややビオラが弱いことかな?
そして、五嶋みどり・今井信子・エッシェンシバッハの演奏で、私はこれが一番だと思っています。日本人だからでは決して有りませんよ。侮るなかれ五嶋みどりと今井信子。
五嶋みどりのヴァイオリンが緊張感に溢れ、美しく感性豊かに演奏して行き、今井信子のビオラが優しく包み、エッシエンバッハ指揮の北ドイツ交響楽団がやや暗めの演奏で二人をサポートしています。涙なくしては聴けない名演奏ですよ\(◎o◎)/!
もう一つが魔笛。これほど有名ながらまともな演奏の少ない曲は珍しいですね。
歌劇場での演奏で満足出来るものは皆無です。もっとも全ての演奏を聴いている訳では有りませんが。しかし、最低でも三十くらいの演奏は聴いていますからこの情報は信頼出来ると思いますよ。
魔笛は舞台空間の中に閉じ込めるには余りにも謎と神秘に溢れている為、オケや歌手はともかく、演出で躓いています。
最初に感動したのは、イングマール・ベルイマンの映画でした。ベルイマンに心酔していた私は胸をときめかせて耳を研ぎ澄まし、画面を見つめていました。いよいよ序曲が始まりました。わたしはそこで初めて、こみの序曲が名曲だと言うことに気付かされました。すでにベルイマンの魔術が始まっていたのです。カメラは序曲の間中観客のアップを追い続け、たびたび可愛らしい少女の顔を映し出します。希望に胸をときめかせて目を輝かせる少女。私はその顔を死ぬまで忘れないでしょう。
以来、私は魔笛を観ると、どうしてもベルイマンと比べてしまい、満足した事が有りません。大蛇が気に入らなかったり、魔笛に併せて縫いぐるみが踊るのが馬鹿馬鹿しくなったり、ザラストロが崇高過ぎたり、夜の女王の悲鳴に悩まされたりしました。
そして、ケネス・ブラナーの魔笛を観てまた感動しました。不思議な事にこれも映画ですよね。この作品でもまた序曲、奇跡の和音とともに映像がフェードインし、空と雲と蝶、渡り鳥や兎、そこへ戦争の不安が忍び寄ってきます。驚いた事に、序曲の間中ワンカットの移動撮影で通してしまいました。このプロローグだけで十分です。後は観ないでもいいとさえ、その時は思いました。
観る前、私はどうせ期待はずれだろうがとりあえず観てみようか、という軽い気持ちでしたが、本当に期待を外されてしまいました。ザラストロの慈愛に満ちた目、悲しみを秘めた夜の女王、パパパパパパパ、パ、パパパパパパ、パ、パ、とにかく楽しませてもらいました。ケネス・プラナーの演出が良かったのです。この魔笛を観て気がつきました。魔笛は演出主体で創られるべき作品だと。
どうしてもオペラは指揮者と歌手に重点が置かれてしまうのでが、魔笛の上演を成功させるには、優秀な演出家を起用するべきですなのです。
一つ分からないシーンが有ったたのですが、どなたか教えて居たただけませんか?
無数の墓標を前にしてザラストロが歌います。墓標に刻まれた若者の名前が三分の一が日本人だったのです。第一次世界大戦でこんなに日本の若者が戦死した筈が有りません。もしかしたら、神風か回天なのでしょうか?
2016年11月8日 GOROU
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。この名を知らない人も、その音楽を聴いたことの無い人もいないに違いありません。でも、不思議な事に、モーツァルトの名演奏は驚くほど少ないんです。彼の音楽は余りにも素晴らしく、計り知れないほど奥が深いからかも知れません。モーツァルトの演奏は恐ろしいまでに、弾き手の感性をさらけ出してしまいます。その為か、凡庸で平凡で退屈な演奏が大多数を占めているのが現状です。
愚かにもその秘密の解明に挑戦?\(◎o◎)/! して見ます。
ここでは二つの作品を例に挙げてみます。
一つはヴァイオリンとビオラの為の協奏交響曲。私は、この曲の名演奏に出会った事が余りありません。特にライブでは皆無です。そのライブの一つが今をときめく、ティレーマンの指揮だったから驚きです。ディスカウの代役でまだ若い頃だから致し方が無いのかもしれませんが、兎に角退屈で、ひたすら眠気と戦い続けた記憶が有ります。
私が初めてこの曲の美しさを知ったのは、グリュミオーの指揮とビオラでした。なんて優しく美しいのだろう。 忽ちモーツァルトのファンに なってしまいました。
後二つ名演を紹介しましょう。
一つは、アーノンクール・ウイーンフィル・クレーメルの演奏です。アーノンクールにしては驚くほど正統的な演奏ですね。少し残念なのクレーメルのヴァイオリンに比べてややビオラが弱いことかな?
そして、五嶋みどり・今井信子・エッシェンシバッハの演奏で、私はこれが一番だと思っています。日本人だからでは決して有りませんよ。侮るなかれ五嶋みどりと今井信子。
五嶋みどりのヴァイオリンが緊張感に溢れ、美しく感性豊かに演奏して行き、今井信子のビオラが優しく包み、エッシエンバッハ指揮の北ドイツ交響楽団がやや暗めの演奏で二人をサポートしています。涙なくしては聴けない名演奏ですよ\(◎o◎)/!
もう一つが魔笛。これほど有名ながらまともな演奏の少ない曲は珍しいですね。
歌劇場での演奏で満足出来るものは皆無です。もっとも全ての演奏を聴いている訳では有りませんが。しかし、最低でも三十くらいの演奏は聴いていますからこの情報は信頼出来ると思いますよ。
魔笛は舞台空間の中に閉じ込めるには余りにも謎と神秘に溢れている為、オケや歌手はともかく、演出で躓いています。
最初に感動したのは、イングマール・ベルイマンの映画でした。ベルイマンに心酔していた私は胸をときめかせて耳を研ぎ澄まし、画面を見つめていました。いよいよ序曲が始まりました。わたしはそこで初めて、こみの序曲が名曲だと言うことに気付かされました。すでにベルイマンの魔術が始まっていたのです。カメラは序曲の間中観客のアップを追い続け、たびたび可愛らしい少女の顔を映し出します。希望に胸をときめかせて目を輝かせる少女。私はその顔を死ぬまで忘れないでしょう。
以来、私は魔笛を観ると、どうしてもベルイマンと比べてしまい、満足した事が有りません。大蛇が気に入らなかったり、魔笛に併せて縫いぐるみが踊るのが馬鹿馬鹿しくなったり、ザラストロが崇高過ぎたり、夜の女王の悲鳴に悩まされたりしました。
そして、ケネス・ブラナーの魔笛を観てまた感動しました。不思議な事にこれも映画ですよね。この作品でもまた序曲、奇跡の和音とともに映像がフェードインし、空と雲と蝶、渡り鳥や兎、そこへ戦争の不安が忍び寄ってきます。驚いた事に、序曲の間中ワンカットの移動撮影で通してしまいました。このプロローグだけで十分です。後は観ないでもいいとさえ、その時は思いました。
観る前、私はどうせ期待はずれだろうがとりあえず観てみようか、という軽い気持ちでしたが、本当に期待を外されてしまいました。ザラストロの慈愛に満ちた目、悲しみを秘めた夜の女王、パパパパパパパ、パ、パパパパパパ、パ、パ、とにかく楽しませてもらいました。ケネス・プラナーの演出が良かったのです。この魔笛を観て気がつきました。魔笛は演出主体で創られるべき作品だと。
どうしてもオペラは指揮者と歌手に重点が置かれてしまうのでが、魔笛の上演を成功させるには、優秀な演出家を起用するべきですなのです。
一つ分からないシーンが有ったたのですが、どなたか教えて居たただけませんか?
無数の墓標を前にしてザラストロが歌います。墓標に刻まれた若者の名前が三分の一が日本人だったのです。第一次世界大戦でこんなに日本の若者が戦死した筈が有りません。もしかしたら、神風か回天なのでしょうか?
2016年11月8日 GOROU