六 ニューフジヤホテル
熱海に来て初めての週末。
その日、私は大塚から突然呼び出された。ニューフジヤの照明係りが病で倒れた為、助人に駆り出されたのだ。
三浦芙美子ショーが始まった。ニューフジヤの舞台も客席も広く豪華だ、グレートホテルの客席が畳敷きだったのに較べ、ここのそれはテーブル席で、フランス料理がコースで出た。
緞帳が上がると、芸者姿の三浦芙美子が板付きで居る。調光ルームからはまるで豆粒のようにしか見えない。その小さな豆粒をアークライトで抜くのだ。メインのライトが芙美子の顔から抜いて、スッと全身に広げて行く。
日本人の技術は大変なものだ。欧米では、ライトは臍の辺り、丁度人の中心から抜いて行くが、なぜか日本では顔から抜く。中心から抜く方が随分楽だった、ライトを動かさずに羽を均等に広げて行けば良い。較べて、顔から抜くには、ライトを微妙に下方にずらしながら広げなくてはならない。熟練のライトマンのそれはもはや芸術と言っても良いくらいだ。
メインのライトが芙美子を照らした、その後は私の番だ。芙美子の共演者は下手から登場する。勿論私は素人に近いから、メインのように出来る訳もなく、微かに羽を開いて対象者を待っていた、まあカンニングのようなモノだ。
ショーが無事に終わり、私はニューフジヤを出た。右肩が軽いやけどでヒリヒリした。アークライトの高熱が、タオルとシャツを通して私の肩を焼いたのだ。
パラパラと雨が降ってきた。肩に浸みて痛みが増した。増した後快感に変わった。
大した雨でもなかったので構わずに歩いた。
少し歩いたところで、
「鬼太郎! 鬼太郎じゃないか」
と、呼び止められたので振り返った。
「お前、今こんな所に居るのか」
ミス東京の芸能課長・飯田さん、そして同僚だった新谷の二人だった。社員と社交の慰安旅行でニューフジヤに泊まっているという。強引に麻雀に誘われて渋々加わった。
ミス東京時代、週に何度か徹夜で卓を囲んだ大のお得意さんだから仕方が無い。彼らからのご祝儀の方が正規の給料より遙かに多かった。まあ少し返しておいた方がここは無難。と割り切ってついていったのだ。
部屋ではすでに一組が麻雀をしていた。芸能部長と料理長に桜と潮という源氏名のホステスが二人、それがメンバーだ。
メンバーから外れた者が数人、芸者を相手に酒宴していた。
「まあ一杯」と、チーフの坂井が杯を差し出し、熱海一と云われる芸者の綾香がすかさず杯を満たした。
「この鬼太郎は去年までうちにいたのさ」
飯田さんが綾香に私を紹介する。
「まあ、粋なお名前持っているのね」
グッと酒を飲み干した。多分、苦虫を噛み潰したような顔をしていたに違いない。
「似ているだろう? ゲゲゲの鬼太郎に」
「そうかしら?」
「麻雀がプロ級でね、鬼太郎みたいに魔法を使う。・・・ところでいまどうしている?」
この業界から足を洗うと言って辞めたので、本当の事は言いづらかったが、
「グレートホテルで舞監しています」
「なんだ。じゃあうちを辞めること無かったじゃないか」
気まずい空気が流れた。
「グレートホテルだったら良く呼ばれるわ」
綾香が絶妙のタイミングで助け船を出して呉れた。
「何度かお見かけした事が有ります」
「綾香と申します。よろしくお願いします」
「さあ、復讐戦、早速やろうぜ」
飯田さんが急かすので、新谷と坂井を加えて卓を囲んだ。
いつの間にか、小桜が私の後ろに座っていた。桜の妹だから小桜、親子ほど歳が離れている、小桜でなく子桜、本当は親子だったのかも知れない。
麻雀をする時、私は後ろに誰かが座るのを嫌った。いかさまは殆どしない主義だが、万が一の為に、必ず壁際に座る習慣が身にしみていたのだ。
この夜の麻雀は、最初から負けるつもりだから、誰に見られても構わないのだが、小桜だけは困る。
小桜、去年の夏にミス東京を辞めていたので本名で呼ぼう。笑美子とは少し因縁があった。部屋に入った時、まったく気がつかなかったのは迂闊だ。来るのでは無かった、誰が来ているのか確かめれば良かった。店をやめた笑美子が来ているなんて夢にも思わなかった。
勝負事というのは不思議なものだ。負けようとすればするほど牌が寄ってきてしまう。結局、最初の半チャンはトップだった。二着が理想で、オーラスまではピッタリとその位置につけていたのだが、トップ目の新谷が勝手に振り込んで、押し出されてトップになってしまったのだ。
負けた三人が猛烈にファイトをむき出している。私は酒宴のメンバーを見回した。残念ながら麻雀のメンバーは誰もいない。だがその時、ボーイの吉川とホステスの三越が部屋に入ってきた。二人とも大の麻雀好きだ。私はホッと胸をなで下ろした。これで抜け出せる、後はなんとかラスをひけばそれで良い。
次の半チャンは私が出親で、飯田さんが対面にいる。
上積に三元牌を一枚置きに積め込んで、サイコロを振る。狙い通り三が出た。偶然ではなく、隅で三を造って中央に置いただけだ。いわゆるオキザイである。この方法で、面倒な修練無しに、賽の目を自在に操れるのだ。
飯田さんが偶然に五を出した。これで序盤のツモは私の山になるので、飯田さんに緑牌が三枚、中牌が三枚、白牌が二枚行く、しくじらなければ最低小三元は上がるだろう。勢いを付けてやれば、ちょっとトスを上げてやるだけで、間違いなく飯田さんがトップになり、私が狙い通りラスを引けば企みは成功だ。
出来るだけナキが入らないように慎重に牌を選んで切った。配牌で白が一枚私に来ていたので、後一枚の白を探した。大抵の場合白はガンパイになる確率が高いのだ。最初の半チャンで白のガンを三枚までしっかり憶えたが、後一枚はなかなか見分けられない。この時も見付ける事が出来なかった。
「ポン」
大きな声で、飯田さんが北家から緑を泣いた。黙っていてもアンコになるのに、これだから素人は困る。仕方が無いので、手に持っていた三万をチイしてツモ順を元に戻した。
笑美子が変な顔して私を見ているのが分かったが、気にも掛けずにゲームを続けた。
いつの間にか綾香まで後ろにやって来ているのでやや慌てた。
「綾香さん、麻雀は出来るの?」
「ほんのお付き合い程度。でも、随分変わった麻雀ね」
「鬼太郎の麻雀はメチャメチャで凡人には理解が出来ない」
ツモが順調なので、飯田さんの口が滑らかで上機嫌だ。そろそろ天張ったのかも知れない。
「今度教えて戴こうかしら。いくらお付き合いでも、あんなに負けちゃお金が幾らあっても足りゃしないわ」
「止めた方が良いと思うよ。授業料の方が遙かに高くつく」
無駄口を叩く割に、ツモに異様に力が入っている。テンパイだ。どうせ白と何かのシャボだ、白を切らなければせいぜいハネ満まで。だが、出来れば積もらせるか、他から上がらせたいものだ。
「ローン!」
不用意に切った私の三万が当たったのだ。
「ヤクマーン! 大・三・元! 鬼太郎、その三万アタリィーッ!」
私は倒された飯田さんの手牌を呆然と眺めた。中と白が三枚、そして三万の裸単騎待ちだった。
上がらせる積もりで仕組んだが、こんな単騎に振り込むなんて許せるものか! カッとして熱くなった。むらむらと闘志が沸いてきた。
次の局、私の序盤の捨て牌はこうだ。
二ピン・東・西・四ピン・中・東・三ピン
三ピンはツモ切りに見せながら卓に叩き付けた。これは被った振り、その事を印象づける為の小細工だ。次いで、六万、少し考えて三枚目の北でリーチ。
あなたならこの手をどう読みますか?
中級程度の打ち手なら、六万がキー牌だと思い、二五八と四七万が本命、七ピンが六七八か七八九の三色系で対抗、これが麻雀の定石だ。
プロ級の腕を持っていたら、少なくとも七ピンは無印にする、たとえ当たってもくず手の確率が高い。大物手だったら、二、四と切らずに、四、二と切るからだ。この手は、六万ではなく、三ピンと北がポイントだ。三ピンが手出しなのか被ったのかで、随分読み方が変わる。この場合、手出しなので、配牌で二三四ピンと入っていた確率が高い。現にその時の配牌では一二三四と入っていた。北で考えたのはちょっとしたミスだった。この手は、ずばりチートイツと読むのが正解である。そう読んだ以上、北の地獄待ちで迷ったので、現物以外安全牌は無い。
「こわいねぇ、妖しいよね、前にこんな捨て牌で国士を振り込んだ」
「そんな事有りました? だけど、東が四枚切れていますよ」
ベタ降りされるのが一番怖い。だから教えた。
飯田さんは場の東を数えながら、
「ホントだ。国士は無か。・・・しかし、何か妖しげな切り方だね」
と、慎重に真ん中から三枚右端に移して、その中の一枚、一ピンを切った。
無言のまま、手牌を倒すや否や、裏ドラを見に行った。裏ドラが二枚、
「リーチ、一発、チートイ、ドラドラ、裏ドラが二つで倍万!」
「嘘だろう、あんこ落としだぜ、畜生ッ!」
それを機に、猛烈な長打の撃ち合いになった。壮絶なノーガード戦だ。私は本来、打撃戦を得意としていたが、役満のハンデは重く、結局ラスを引いた。お陰でスムーズに卓を離れる事が出来たので、まあ良としなくてはいけない。
「済みません、明日早いものですから。休みの日にゆっくり復讐戦に行きます、又デスマッチしましょう」
「ああ、麻雀はいつでも歓迎するよ。だけど、又うちに帰って来いよ、熱海なんかで燻っていることないだろう」
大きなお世話だ、と思いながらも、
「有り難う御座います。考えて見ます」
と、我ながらしおらしい事を言って部屋を出た。
案の定笑美子がついてきた。偶然なんかじゃない。彼女は私が熱海に居る事を突き止めて会いに来たのだ。いまさら会ってどうするというのか!?
小走りで追いついて私に並ぶ笑美子。
構わずに歩を早めた。
「私、私、結婚するかも知れない」
か細い声で笑美子が囁いて立ち止まった。
無言でエレベータに乗り込む私。
「申し込まれたの」
今にも泣きそうな顔で笑美子が言い、縋るように私を見続けた。
私は聞こえていない振りをしてドアを閉めた。この時の笑美子の顔を私は一生忘れる事が出来ないだろう。出逢った頃の笑美子は、名前のように、笑顔の美しい娘だった。ころころと無邪気に良く笑う明るい娘だった。笑美子から笑顔を奪ったのは何を隠そうこの私なのだ。
外では激しい雨が降っていた。
電柱の陰に黒メガネの男が居たので近付いていった。
タバコをくわえて、
「火、有りませんか?」
と言った。
男は無言のまま、ライターでタバコに火をつけて呉れた。
軽く会釈をして、ホテルのタワーを見上げた。見上げた途端、タバコの火が土砂降りの雨で燻って消えた。
ニコチンが口に流れ込んで来た。口が曲がるほど苦々しい味と臭いだ。
客室の窓辺に佇む女性の影が見えた。
笑美子が私を見続けているのだろうか?
結婚するかも知れない。どうして女は皆、同じ言葉を言うのだろう。「止めろよ」と言わせて見たいだけなのだ。言えば、哀しいまでに幸福感を味わって、そのあげく、結局結婚するのだ。悲劇のヒロインを演じて見たいだけなのだ。
だが、一度は愛を感じた女なのだから、それ位の事は言っても罰は当たらない。まして笑美子の場合、不幸にしたのは私なのだ。せめてもの罪滅ぼしに、たった一言、言ってあげるべきなのだ。笑美子の為で無く、自分自身の為にもそうすべきだった。
喉から胃の中まで耐え難いほど苦々しく、激しい嘔吐が私を襲う。右肩が焼け付くように痛んだ。だが、一番痛んでいたのは、傷ついていたのは私の哀れな心だった。
貴様など滅んでしまえ! この世から消えるがいい! 死んでしまうがいい! 私はこの時ほど己を呪い、嘔吐を憶える程おぞましく思った事は無い。
2016年11月29日 Gorou
熱海に来て初めての週末。
その日、私は大塚から突然呼び出された。ニューフジヤの照明係りが病で倒れた為、助人に駆り出されたのだ。
三浦芙美子ショーが始まった。ニューフジヤの舞台も客席も広く豪華だ、グレートホテルの客席が畳敷きだったのに較べ、ここのそれはテーブル席で、フランス料理がコースで出た。
緞帳が上がると、芸者姿の三浦芙美子が板付きで居る。調光ルームからはまるで豆粒のようにしか見えない。その小さな豆粒をアークライトで抜くのだ。メインのライトが芙美子の顔から抜いて、スッと全身に広げて行く。
日本人の技術は大変なものだ。欧米では、ライトは臍の辺り、丁度人の中心から抜いて行くが、なぜか日本では顔から抜く。中心から抜く方が随分楽だった、ライトを動かさずに羽を均等に広げて行けば良い。較べて、顔から抜くには、ライトを微妙に下方にずらしながら広げなくてはならない。熟練のライトマンのそれはもはや芸術と言っても良いくらいだ。
メインのライトが芙美子を照らした、その後は私の番だ。芙美子の共演者は下手から登場する。勿論私は素人に近いから、メインのように出来る訳もなく、微かに羽を開いて対象者を待っていた、まあカンニングのようなモノだ。
ショーが無事に終わり、私はニューフジヤを出た。右肩が軽いやけどでヒリヒリした。アークライトの高熱が、タオルとシャツを通して私の肩を焼いたのだ。
パラパラと雨が降ってきた。肩に浸みて痛みが増した。増した後快感に変わった。
大した雨でもなかったので構わずに歩いた。
少し歩いたところで、
「鬼太郎! 鬼太郎じゃないか」
と、呼び止められたので振り返った。
「お前、今こんな所に居るのか」
ミス東京の芸能課長・飯田さん、そして同僚だった新谷の二人だった。社員と社交の慰安旅行でニューフジヤに泊まっているという。強引に麻雀に誘われて渋々加わった。
ミス東京時代、週に何度か徹夜で卓を囲んだ大のお得意さんだから仕方が無い。彼らからのご祝儀の方が正規の給料より遙かに多かった。まあ少し返しておいた方がここは無難。と割り切ってついていったのだ。
部屋ではすでに一組が麻雀をしていた。芸能部長と料理長に桜と潮という源氏名のホステスが二人、それがメンバーだ。
メンバーから外れた者が数人、芸者を相手に酒宴していた。
「まあ一杯」と、チーフの坂井が杯を差し出し、熱海一と云われる芸者の綾香がすかさず杯を満たした。
「この鬼太郎は去年までうちにいたのさ」
飯田さんが綾香に私を紹介する。
「まあ、粋なお名前持っているのね」
グッと酒を飲み干した。多分、苦虫を噛み潰したような顔をしていたに違いない。
「似ているだろう? ゲゲゲの鬼太郎に」
「そうかしら?」
「麻雀がプロ級でね、鬼太郎みたいに魔法を使う。・・・ところでいまどうしている?」
この業界から足を洗うと言って辞めたので、本当の事は言いづらかったが、
「グレートホテルで舞監しています」
「なんだ。じゃあうちを辞めること無かったじゃないか」
気まずい空気が流れた。
「グレートホテルだったら良く呼ばれるわ」
綾香が絶妙のタイミングで助け船を出して呉れた。
「何度かお見かけした事が有ります」
「綾香と申します。よろしくお願いします」
「さあ、復讐戦、早速やろうぜ」
飯田さんが急かすので、新谷と坂井を加えて卓を囲んだ。
いつの間にか、小桜が私の後ろに座っていた。桜の妹だから小桜、親子ほど歳が離れている、小桜でなく子桜、本当は親子だったのかも知れない。
麻雀をする時、私は後ろに誰かが座るのを嫌った。いかさまは殆どしない主義だが、万が一の為に、必ず壁際に座る習慣が身にしみていたのだ。
この夜の麻雀は、最初から負けるつもりだから、誰に見られても構わないのだが、小桜だけは困る。
小桜、去年の夏にミス東京を辞めていたので本名で呼ぼう。笑美子とは少し因縁があった。部屋に入った時、まったく気がつかなかったのは迂闊だ。来るのでは無かった、誰が来ているのか確かめれば良かった。店をやめた笑美子が来ているなんて夢にも思わなかった。
勝負事というのは不思議なものだ。負けようとすればするほど牌が寄ってきてしまう。結局、最初の半チャンはトップだった。二着が理想で、オーラスまではピッタリとその位置につけていたのだが、トップ目の新谷が勝手に振り込んで、押し出されてトップになってしまったのだ。
負けた三人が猛烈にファイトをむき出している。私は酒宴のメンバーを見回した。残念ながら麻雀のメンバーは誰もいない。だがその時、ボーイの吉川とホステスの三越が部屋に入ってきた。二人とも大の麻雀好きだ。私はホッと胸をなで下ろした。これで抜け出せる、後はなんとかラスをひけばそれで良い。
次の半チャンは私が出親で、飯田さんが対面にいる。
上積に三元牌を一枚置きに積め込んで、サイコロを振る。狙い通り三が出た。偶然ではなく、隅で三を造って中央に置いただけだ。いわゆるオキザイである。この方法で、面倒な修練無しに、賽の目を自在に操れるのだ。
飯田さんが偶然に五を出した。これで序盤のツモは私の山になるので、飯田さんに緑牌が三枚、中牌が三枚、白牌が二枚行く、しくじらなければ最低小三元は上がるだろう。勢いを付けてやれば、ちょっとトスを上げてやるだけで、間違いなく飯田さんがトップになり、私が狙い通りラスを引けば企みは成功だ。
出来るだけナキが入らないように慎重に牌を選んで切った。配牌で白が一枚私に来ていたので、後一枚の白を探した。大抵の場合白はガンパイになる確率が高いのだ。最初の半チャンで白のガンを三枚までしっかり憶えたが、後一枚はなかなか見分けられない。この時も見付ける事が出来なかった。
「ポン」
大きな声で、飯田さんが北家から緑を泣いた。黙っていてもアンコになるのに、これだから素人は困る。仕方が無いので、手に持っていた三万をチイしてツモ順を元に戻した。
笑美子が変な顔して私を見ているのが分かったが、気にも掛けずにゲームを続けた。
いつの間にか綾香まで後ろにやって来ているのでやや慌てた。
「綾香さん、麻雀は出来るの?」
「ほんのお付き合い程度。でも、随分変わった麻雀ね」
「鬼太郎の麻雀はメチャメチャで凡人には理解が出来ない」
ツモが順調なので、飯田さんの口が滑らかで上機嫌だ。そろそろ天張ったのかも知れない。
「今度教えて戴こうかしら。いくらお付き合いでも、あんなに負けちゃお金が幾らあっても足りゃしないわ」
「止めた方が良いと思うよ。授業料の方が遙かに高くつく」
無駄口を叩く割に、ツモに異様に力が入っている。テンパイだ。どうせ白と何かのシャボだ、白を切らなければせいぜいハネ満まで。だが、出来れば積もらせるか、他から上がらせたいものだ。
「ローン!」
不用意に切った私の三万が当たったのだ。
「ヤクマーン! 大・三・元! 鬼太郎、その三万アタリィーッ!」
私は倒された飯田さんの手牌を呆然と眺めた。中と白が三枚、そして三万の裸単騎待ちだった。
上がらせる積もりで仕組んだが、こんな単騎に振り込むなんて許せるものか! カッとして熱くなった。むらむらと闘志が沸いてきた。
次の局、私の序盤の捨て牌はこうだ。
二ピン・東・西・四ピン・中・東・三ピン
三ピンはツモ切りに見せながら卓に叩き付けた。これは被った振り、その事を印象づける為の小細工だ。次いで、六万、少し考えて三枚目の北でリーチ。
あなたならこの手をどう読みますか?
中級程度の打ち手なら、六万がキー牌だと思い、二五八と四七万が本命、七ピンが六七八か七八九の三色系で対抗、これが麻雀の定石だ。
プロ級の腕を持っていたら、少なくとも七ピンは無印にする、たとえ当たってもくず手の確率が高い。大物手だったら、二、四と切らずに、四、二と切るからだ。この手は、六万ではなく、三ピンと北がポイントだ。三ピンが手出しなのか被ったのかで、随分読み方が変わる。この場合、手出しなので、配牌で二三四ピンと入っていた確率が高い。現にその時の配牌では一二三四と入っていた。北で考えたのはちょっとしたミスだった。この手は、ずばりチートイツと読むのが正解である。そう読んだ以上、北の地獄待ちで迷ったので、現物以外安全牌は無い。
「こわいねぇ、妖しいよね、前にこんな捨て牌で国士を振り込んだ」
「そんな事有りました? だけど、東が四枚切れていますよ」
ベタ降りされるのが一番怖い。だから教えた。
飯田さんは場の東を数えながら、
「ホントだ。国士は無か。・・・しかし、何か妖しげな切り方だね」
と、慎重に真ん中から三枚右端に移して、その中の一枚、一ピンを切った。
無言のまま、手牌を倒すや否や、裏ドラを見に行った。裏ドラが二枚、
「リーチ、一発、チートイ、ドラドラ、裏ドラが二つで倍万!」
「嘘だろう、あんこ落としだぜ、畜生ッ!」
それを機に、猛烈な長打の撃ち合いになった。壮絶なノーガード戦だ。私は本来、打撃戦を得意としていたが、役満のハンデは重く、結局ラスを引いた。お陰でスムーズに卓を離れる事が出来たので、まあ良としなくてはいけない。
「済みません、明日早いものですから。休みの日にゆっくり復讐戦に行きます、又デスマッチしましょう」
「ああ、麻雀はいつでも歓迎するよ。だけど、又うちに帰って来いよ、熱海なんかで燻っていることないだろう」
大きなお世話だ、と思いながらも、
「有り難う御座います。考えて見ます」
と、我ながらしおらしい事を言って部屋を出た。
案の定笑美子がついてきた。偶然なんかじゃない。彼女は私が熱海に居る事を突き止めて会いに来たのだ。いまさら会ってどうするというのか!?
小走りで追いついて私に並ぶ笑美子。
構わずに歩を早めた。
「私、私、結婚するかも知れない」
か細い声で笑美子が囁いて立ち止まった。
無言でエレベータに乗り込む私。
「申し込まれたの」
今にも泣きそうな顔で笑美子が言い、縋るように私を見続けた。
私は聞こえていない振りをしてドアを閉めた。この時の笑美子の顔を私は一生忘れる事が出来ないだろう。出逢った頃の笑美子は、名前のように、笑顔の美しい娘だった。ころころと無邪気に良く笑う明るい娘だった。笑美子から笑顔を奪ったのは何を隠そうこの私なのだ。
外では激しい雨が降っていた。
電柱の陰に黒メガネの男が居たので近付いていった。
タバコをくわえて、
「火、有りませんか?」
と言った。
男は無言のまま、ライターでタバコに火をつけて呉れた。
軽く会釈をして、ホテルのタワーを見上げた。見上げた途端、タバコの火が土砂降りの雨で燻って消えた。
ニコチンが口に流れ込んで来た。口が曲がるほど苦々しい味と臭いだ。
客室の窓辺に佇む女性の影が見えた。
笑美子が私を見続けているのだろうか?
結婚するかも知れない。どうして女は皆、同じ言葉を言うのだろう。「止めろよ」と言わせて見たいだけなのだ。言えば、哀しいまでに幸福感を味わって、そのあげく、結局結婚するのだ。悲劇のヒロインを演じて見たいだけなのだ。
だが、一度は愛を感じた女なのだから、それ位の事は言っても罰は当たらない。まして笑美子の場合、不幸にしたのは私なのだ。せめてもの罪滅ぼしに、たった一言、言ってあげるべきなのだ。笑美子の為で無く、自分自身の為にもそうすべきだった。
喉から胃の中まで耐え難いほど苦々しく、激しい嘔吐が私を襲う。右肩が焼け付くように痛んだ。だが、一番痛んでいたのは、傷ついていたのは私の哀れな心だった。
貴様など滅んでしまえ! この世から消えるがいい! 死んでしまうがいい! 私はこの時ほど己を呪い、嘔吐を憶える程おぞましく思った事は無い。
2016年11月29日 Gorou