アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

Kozue(胡都江)~Twins of Formosa Ⅶ

2016-11-30 08:06:56 | 物語
七 笑美子 

笑美子がミス東京に入ってきたのは去年の四月だった。芸能部長派の桜の妹なので、小桜という源氏名でデビューした。
四十も半ばを過ぎている桜とは二廻りほど年が離れていたから、妹というよりは娘といった方が相応しい年齢だ。あるいは小桜ではなく子桜だったのかも知れない。いかにもピチピチとして、例えれば瑞々しい桃のような娘だったので、ボーイの間などでは常に上位の人気を誇っていた。
 ミス東京とてスタッフとホステスの色恋さたは御法度である。だが建前だけで、幹部たちからして掟を破ること甚だしいし、直にホステスと接触しているボーイの殆どが同棲相手を店の中で見つけていた。
 不思議なことに、指名数を誇るホステスに美人は皆無で、若くいい女の指名順位は決まって三桁である。小桜も又そうだった。いつも姉の桜やその仲間達の席に呼ばれて、ぼんやりと気のない素振りで接客していたのを良く見かけたものだ。
 普段の彼女は明るい声でころころと笑った。笑って桜海老の様に跳ね回るのだ。こんな女が、夏の盛りまで誰の毒牙にもかからなかったのは奇跡としか言いようが無い。よほど姉の桜が目を配っていたに相違ない。

 八月も半ばを過ぎたある日。調光ルームに小桜が遊びに来て、調整卓で悪戯をしながらはしゃいでいた。
「このボタン押してご覧」
 押すとフロアの照明が変わり、ミラーボウルが回った。
 目を大きく見開いて小桜が喜んだ。
「こっちのボタン、押してもいい?」
「いいよ」
「でも、大丈夫?」
 私はフロアを覗き込み、桜とその客がチークを踊っているのを確認しながら、
「いいから、押してご覧」
 そっとボタンを押してみる小桜。
 フロアの照明が更に暗くなり、桜たち二人だけがスポットライトに晒され、小桜は
 手をたたいて喜んでいる。
 いつの間にか照明室は二人だけになっていた。皆気を利かしたのかも知れない。
 私は試しに小桜の手を握って見た。そっと握り返してくる。
「桜と一緒に暮らしているの?」
「ううん、一人よ」
「デートしよう」
「いつ?」
「いつか」
 この頃の私はとても多忙で、はっきりといつなどと約束をする暇など無かった。マッキントッシュ(高級アンプ)を買うために、殆ど毎日麻雀で徹夜をしていたし、土日は朝から競馬場に入り浸った。
「いつか、暇が出来たら」
「そんなのイヤ」
「じゃあここで遊ぼ?」
「ここで?」
 親指を立てて、
「指相撲しよう。僕に勝ったら何でも君の言うことを利く」
「ホント! 何でも?」
「ああ」
 無邪気にも嬉しそうに笑う小桜。
 最初は右手で対戦した。忽ち小桜の親指を押さえ込んで私の勝ちだ。右手をそのままにして、
「今度は左」、可愛い唇を尖らせて小桜が言った。
 腕を交差して左手で戦う。今度は賢明に抵抗してきた。きっと左利きなのだろう。
 真剣な顔で身を捩って善戦する。
 頬がピンクに染まり、大きく開いたドレスの間で乳房が揺れた。
 かなり苦労したが、負ける分けにはいかない。ようやく押さえ込んだ。
「僕の勝ちだね」
「もう一度!」
 息を弾ませて小桜がせがむ。
 私はいきなりその唇を奪った。さしたる抵抗を受けなかった。彼女は普段、あまり化粧をしない方だったが、この日はかなりきつい香水の匂いがした。
「鬼太郎ちゃん、ズルイ!」
「どうして?」
「これじゃ、拒むこと出来ないわ」
 私に握りしめられた両の手に力を込めて言ったので、手を解放し、肩を抱くようにして口づけをした。
「さあ、これで自由、好きなように出来るだろ?」
 頬を膨らませて大きくため息をついた小桜、私を見つめるその眼がキラキラと輝いている。
「好き・・・」
 好きだと言ってくれたのか、好き?と聞いたのか分からなかったが、
「ああ、好きだよ」
 と、言ってみた。
 今度は自分から唇を寄せて来た。
 激しく唇を求め合いながら、右手でドレスの上から乳房を揉んだ。愛撫するその手を、ドレスの胸からこじ入れ、直に乳房に触れた。しっとりと汗ばんだその乳房、ひんやりとした肌触りで心地よく私の掌に吸い付いて来る。
 こうなったら若い男に自制など出来る分けが無い。性急にも、私の手は小桜の下半身を襲い、ドレスの下から入り込んで、下履きの中にまで進入しようとしている。
 眉間に皺を寄せて、小桜は嫌々をする。
「駄目! お願い! 堪忍して」
 小桜の手が私の手を払いのけようとすればするほど、気持ちが高ぶってしまう。
 激しく争う手と手。ここでも私の手が勝った。と思ったその瞬間、激痛が左腕を走った。小桜が思いっきり噛みついたのだ。
 飛び退くようにして左腕を見ると、血が流れていた。小桜はその傷口に口をつけて流れる血をすすり、素早くハンカチを巻いた。
何が何だか分けが分からない。呆然と立ち竦む私の頬を今度は小桜の手のひらが襲った。
「鬼太郎ちゃんなんか嫌い!」
 潤む瞳でキッと睨んだかと思うと、踵を返して走り去った。
 呆気にとられてただただ見送るのみの私。右手の人差し指に血がこびり付いていたので嘗めると、いやに生臭い匂いが鼻を突き刺した。
 これだから女は嫌だ。とうてい理解出来ない。追いかければ隠れてしまうし、逃げればどこまでも追いかけてくるのだ。

 次の日もその次の日も、小桜は店に出てこなかった。そのくせ、次の週顔を合わせると、何事も無かったようにケロリとしていた。私など、照れくさいやら恥ずかしいやらで、まともに小桜の顔を見る事も出来ず、姉の桜の視線を意識的に避けた程だというのに。
 更に奇妙だったのは、暇を見つけては私の側に小桜がやって来るのだ。私がどんな時間に何処で一人になるのか、ちゃんと知っていて、一人になると必ず現れた、大抵オードブルや菓子に飲み物を持ってきた。
 差し入れがジュースの時は一つだけ、一つのグラスに二つのストローを差し込み、額を寄せ合うようにしてジュースを飲まされた。まるで恋人気取りだ。
 金輪際手など出すものか! もうあんな思いをするのは真っ平だ。私は固く己を戒め、堅い決意を心に秘めた。

「あたしお店辞めるの。今夜でおしまい、来月からOLになるのよ」
 八月の終わりの事だった。鳥か何かの唐揚げを頬張りながらこう言って、小桜は小さく畳んだ紙ナプキンを私に握らせた。
「電話してね」
 黙っていると指切りをせがんだ。
 指切りを許すと安心したのか、ひどく嬉しそうに微笑んだ。
「きっとよ」 
絡み合った小指が駒鳥のように別離を惜しんだ。
 ホールからラストワルツが聞こえてきた。
 小桜の後ろ姿を見送りながら、ナプキンを開くと、住所と電話と本名が書いてあった。橋本笑美子、私はこの時、初めて小桜の名前を知った。
    2016年11月30日   Gorou


ニッポンを創った遣唐使

2016-11-30 01:58:53 | 日本古代史
 養老元年、多治比県守を押師(大使より格上)とした第九次遣唐使が派遣されました。大使が大伴山守、副使が藤原宇合(うまかい、藤原式家の祖)という顔ぶれでしたが、この時の留学生が凄いんです。阿部仲麻呂、下道真備(しもつみちの真備、後の吉備真備)、井真成(いのまなり)、僧玄昉、俊英中の俊英、かってない程の優秀な若者達でした。彼らが一つしかない命を擲って文明国家ニッポンを創ったと言っても過言では有りませ。

 一番有名なのが阿倍仲麻呂。

 天の原、ふりさけみれば、春日なる、三笠の山に出でし月かも(古今和歌集)

の和歌が有名ですね。最近、この和歌が紀貫之の創作では無いかと言う研究が発表されました。私もこの説に賛成です。若い頃からどうも出来すぎだと思っていました。藤原清河の漢詩をヒントに、仲麻呂の気持ちになって、望郷の念を紀貫之が歌ったという説なんです。結構リアリティが有りますよね! 

天の原 ふりさけみれば 天の川 霧立ち渡る 君は来ぬらし

 (万葉集 2068)

春日なる 三笠の山に 月も出でぬかも 佐紀山に 咲ける桜の はなの見ゆべし

 (万葉集 1887 旋頭歌 複数の人による唱和)

 この二つの歌はともに万葉集の巻十に載っている和歌です。月も出でぬかも、と、出でし月かも、は同じ意味ですから、二つを組み合わせると、全く同じ歌が出来上がります。

まあ現代だったら盗作で訴えられそうですね。でも和歌の世界はそういうものでもないそうです。

 春日山も三笠山も、特に藤原氏に縁が有りますから、藤原清河が詠んだと伝わっても不思議の無い歌ですし、紀貫之も阿倍仲麻呂が創ったとは言っていません。阿倍仲麻呂が歌ったと伝わっていると書いています。

 阿倍仲麻呂と藤原清河は遂に帰国が出来ずに、唐で客死してしまいます。二人は中華文明のなかで唐の官吏として出世します。特に仲麻呂は玄宗皇帝の寵愛を受けていました。だから中々帰国の許しが出ませんでした。皇帝だけでなく文化人達からも愛されていたようです。王維と李白とも親交が篤く、二人は仲麻呂に漢詩を送っている程で、中華の漢文化の教養に溢れ、容貌も挙措も優雅だったと伝わっています。

 義を慕って名空しくあり 忠を輪(いた)せば考は全(まった)からず

 恩を報ずるに日有るなし 帰国は定めて何年ならん

 この漢詩は、同期の真備や玄昉が天平の遣唐使と伴に帰国するとき、仲麻呂だけが帰国を許されず、望郷の念を謳ったものです。この時、仲麻呂の家人羽栗吉麻呂が混血の息子、翼(つばさ)と翔(かける)を連れて帰国します。二人の混血兄弟は通訳として日本と中国の架け橋として活躍しました。仲麻呂もまた、唐の女性と家庭を築いていたと考える方が自然です。新婚を祝ったと思われる漢詩を送られていますから。

 仲麻呂は十六歳で留学生に選ばれ、貴族の師弟しか入れない太学(たいがく、唐の最高教育機関)で学び、科挙(官吏登用試験)に合格して累進を重ね、皇帝の相談官、皇太子の相談役などを歴任して従二位まで出世をします。文明国家ニッポンを中華に認めさせた点では一番の貢献者です。

 ところで、皆さんは何時頃中国が日本という国名を認めていたか知っていますか?

八世紀に入って直ぐ、我が国は日本という国名を名乗っていますが、730年前後には、少なくとも唐政府は認めていたようです。その事が分かったのはほんの数年前です。2004年、西安の郊外で井真成という名の留学生の墓碑が発見されました。その墓碑に日本と言う国から来たと、はっきり明記されていたんです。日本という国号が刻まれた最古の文献です。
2016年11月30日   Gorou and Sakon

貴族になった船、能登号

2016-11-30 01:48:43 | 日本古代史
貴族になった船、能登号。

 奈良時代後期、淳仁天皇の御代の西暦763年、渤海使船能登号に正五位下の位と錦冠が授けられました。能登号は人であれば貴族の仲間入りをした訳です。ところが、不思議な事に、能登号の船長板振鎌束(いたぶりのかまつかさ)は罪を受け遠島に処されました。
 今回はこの話をしようと思います。

 西暦763年夏、渤海の港(現在の豆満江河口と思われます)で、渤海師節団を送り届けた能登号が日本に帰国する乗客を待っていました。
 乗客は七人、遣唐僧として唐に渡り、以後三十年間唐土を遊行遍歴していた戒融、その弟子か友人の優婆塞、優婆塞というのは得度していない僧侶の事で、遊行僧とか乞食坊主といった意味と考えてください、構成の聖のようなものだと思えばいいかも知れません。そして、渤海に留学していた楽生高内弓(うちゆみ)と妻の高氏、その長男広成、女の赤子と乳母。
 高内弓は、高句麗系の貴族高氏を妻に迎えたから高氏と称していたのか、日本名も高氏だったのかは分かりません。管弦(雅楽)を学んでいたことや長男の広成という名から渡来系の氏族だったに違いありません。

 能登号はどんな船だったのか? 遣唐使船の絵や模型を見たことが有りますか? おおむねあんな感じだと思って下さい。箱船のような船体、船室が二つ、竹で編んだ帆・網代帆を持つ帆柱が二つ、最近網代帆の上に小さな布帆が有ったことが分かりました。走行方向を補佐したと考えられます。風が無い時は艪を使いました。

 さて、三十年間も唐土を遊行していた戒融がなぜ日本に帰国しようとしていたのでしょうか? 戒融については、筑紫の僧侶としか伝わっていません。おそらく観世音寺で戒を受けた人で、遣唐僧に選ばれたのですから相当優秀か、有力者の推薦が有ったと思われます。戒融は唐土に渡って直ぐ、洛陽から出奔してしまいます。玄宗皇帝から紫の袈裟を賜った玄昉より、民間布教と社会事業に尽くした行基を認めていたようです。井上靖の天平の甍を読んだ方なら、戒融の名を覚えているのでは? 日本に帰国した普照の元に渤海経由で送られて来た甍の送り主が戒融です。今考えると、井上氏は送られてくる天平の甍から、悟りを開いた戒融がやがて帰国する事を暗示させたかったのかも知れません。
 当時の中国というのは、天災も人災も日本などとはスケールが違いました。
飢饉が始まると、草も木も、家畜は勿論、ネズミや、時には人さえ食べ尽くしたと云われています。生き抜くために子供を交換したと伝わっています。三十年の遍歴で、戒融は地獄を見、悟りを開いたと思ったのでは無いでしょうか?
戒融は空海が伝える事になる真言密教の教典と知識を持って帰国しようとしていたのかも知れません。
 戒融の事は全く記録に残っていないのですから想像したり推量するしか術が有りません。もう少し知りたいと思ったら『天平の甍』か『白虎と青龍』を読んでみて下さい。戒融の事は日出ずる国の人々の第四部で詳しく描こうと思っていますが、残念ながら三年から五年位先になってしまいそうです。

 七人の乗客を乗せた能登号は渤海を出航しました。おそらく能登福浦港を目指したと思います。能登号は能登荒木郷で建造された船でしょうね。余談になりますが、荒木というのは元々は新来から変化した地名です。新羅から来たという意味です。新来から荒来、あるいは荒木になり、現在は富来町になっています。奥能登の入り口に当たり、山を隔てた東側の七尾湾に面しては熊来郷(現中島町)が有ります。因みに熊来は高麗来から変化した地名です。
 能登号は荒木郷で建造されたまあ新羅船ですね、船長の板振鎌束は名前から検証すると、船大工だったのでないでしょうか。

 能登号の水夫たちは恐れと不安を抱いていました。「あの優婆塞は日に米粒を数粒口にするだけで生きている」、優婆塞は仏教僧では無く道士だったのかも知れません。「異国の女を三人も乗せて無事に航海できるだろうか」。
 船師(船長)と水夫の不安と恐れは現実のものとなりました。台風に襲われたのです。能登号は暴風雨に弄ばれるだけで為す術が有りません。水夫達の恐怖は遂に悲劇を産んでしまいました。優婆塞三人の異国の女性、妻の高氏と嬰児と乳母は捕らえられて荒れ狂う海に生贄として擲たれてしまいました。なんという地獄絵図なのでしょうか! 戒融は必死に祈ったに違い有りません。が、祈りは全く通じ無かったのです。戒融は唐土で経験した惨劇を超える悲劇を体験してしまったのです。

 能登号は惨劇を荒海に残して、八月、隠岐に漂着しました。
 こんな分けで能登号は官位を賜り、船師板振鎌束は罪を受けたのです。
 生き残った高内弓、広成親子と戒融のその後は、歴史は何も語っては呉れません。ただ、後年、唐政府から戒融の、渤海政府からは高内弓達の安否を問われたと伝わっていますが、我が政庁がどう答えたかは伝わっていません。