アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

三界の夢 そのⅩ 設楽原

2017-02-13 11:55:02 | 物語
 そのⅩ 設楽原

 三年の喪を守った武田勝頼は、天正3年(1575年)4月、三河侵攻を開始。
 因縁の長篠城(徳川の前線)を囲んだ。
 守勢僅か五百、囲む武田勢は二万。
 数日を待たずに落城と思われたが、200丁の鉄砲や大鉄砲、そして周囲を谷
川に囲まれた地形のおかげで、籠城軍は武田の猛攻に絶えていた。

 5月14日の夜、城側は鳥居強右衛門(すねえもん)に岡崎城の家康へ援軍を
要請させた。
 鳥居は夜陰に紛れて武田軍の厳重な警戒線を突破し、岡崎城にたどり着い
た。
 岡崎城にはすでに信長の援軍3万が到着していた。
 信長軍には光秀と光晴も従軍していた。

「光秀様、織田の足軽は刀槍よりも丸太を担ぎ、多数の黒鍬(工兵)が来てい
ます。信長はどのような戦をする積もりなのでしょう?」
 そう言う光晴の横を小柄な足軽が丸太を担いで通った。
「おそらく。・・・信長公は欧州の戦に想を得、大規模な防御陣地を築くので
あろう」
 光秀の言葉に耳を傾けた足軽が窪みに足を取られて丸太を落とした。
 光晴の側に転がってくる丸太。
「我が軍は敵に倍しています。正攻法で直押しにするが常識かと思いますが」
 顔中墨を塗りたぐった足軽が舌を出して光晴を見た。
 火だ、相変わらず光晴に笑いかけている。
「これが信長の戦じゃ。間違いなく勝てる方策を立てた上で敵を玉砕させる。
叡山、浅井・朝倉攻めで、お前は何を見ておったのだ」
 光晴は足軽・火の顔に頬被りをさせて、耳元で囁いた。
「無茶をするな」
「なんの、偵察ついでにお前の顔を見に来たのだ。有り難がれ、光晴」
 火の肩に丸太を担がせる光晴。
 光秀も火の存在に気付いた。
「火とか言ったな。主だけか?」
「二人の姉も来ておる」
「その二人は、どこで何をしておるのだ?」
「知らぬ。知っていても言わぬ。これだけは言っておく。わしらは武田を抜け
た。どこで何をしようが勝手。知らぬ振りをしろ」
 火は丸太を軽々と担いで、小走りで去って行く。丸太のため、疾走とまでは
言えなかった。
「いつも元気な小娘じゃな」
 光秀に返事をするのも忘れ、光晴は火の行方を追った。

 強右衛門は信長や家康と面会し、翌日にも家康と信長の大軍が長篠城救援に
出陣することを知らされた。
 強右衛門はこの報告を一刻も早く長篠城に伝えようと引き返すが、5月16日
の早朝、城の目前まで来て武田の兵に捕らえられてしまった。
 死を覚悟の強右衛門は武田側の厳しい尋問に臆せず、自分が篭城軍の密使で
あることを敢えて知らせる。武田側は強右衛門に「お前を城の前で磔にする。
そこでお前は『援軍は来ない。早く城を明け渡せ』と叫べばお前の命は助け
る」と取引を持ちかけた。
「承知仕った」、強右衛門は即座に取引を受けた。
 翌朝、城の前に磔りつけ柱に縛り付けられた強右衛門は、
「鳥居強右衛門で御座る。敵に捕まり、この為体。城中のみな、よく聞け」と
呼びかけた。
「あと二、三日で、数万の大軍が救援にやってくる。堪えよ」と大声で叫ん
だ。
 強右衛門はその場で武田軍に槍で突き殺された。
 
 その様子を、城壁で見ていた籠城兵に変装した風と林。
 二人は比較的長身だったので、小姓に見えた。
「なんと惨い」と、顔を背ける林。
「あっぱれなり鳥居強右衛門。あなたの子孫は必ずや繁栄致しますぞ」
 二人は、強右衛門に黙祷を捧げた。

 強右衛門の死は、城兵の士気を奮いたたせ、設楽が原で織田徳川連合軍が武
田軍を撃破するまで、城を守り抜いた。

 信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれた。信玄時代からの
重鎮たち、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らは信長自らの出陣を知って撤退を
進言したが、勝頼は決戦を強く主張する。そして長篠城の牽制に3,000ほどを
置き、残を設楽原に向けた。
 信玄以来のの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まった。
「もはや武田もこの日限り」と昌景。
「音に聞こえた武田騎馬武者の散り様をみせてくれん」と信春。
「信玄公御覧あれ。我らは信長に目に物見せましょうぞ」と昌秀。
 三人の老将は、騎乗で水盃を飲み干し、杯を地面に叩きつけ、化天との決別
とした。
「いざ、設楽原に」
「いざ、最後の突撃じゃ」
「いざ、信玄公の元へ供に参らん」
 三人は風林火山の旗を立て、設楽が原の決戦場に騎馬を走らせた。
 夏の突風で風林火山が颯爽と翻っていた。

 勝頼は1万5千ほどの軍勢を率いて滝沢川を渡り、織田軍と二十町(約
2018m)ほどの距離に、兵 を13の兵団に分けて西向きに布陣した。
 対する織田軍は二重の土塁を高々と築き、更にその前に馬防柵を巡らせて、
三段の鉄砲隊が獲物を待ち構えていた。
 勝頼の本陣には風林火山が旗めき、山を気取って采配を西に向かって振り下
ろした。
 音に聞こえた武田の騎馬隊の突撃が始まった。

 戦場近くの大樹の枝には三人のくの一の姿が有った。
 変装を解き、今はいつもの忍び衣装だ。青と萌葱、そして紅に燃える領巾が
風に棚引いている。
「勝頼殿は下手な戦をする」と、風。
「武田の騎馬隊でもあの馬防柵と大土塁は越えられまい」と、林。
「いっそ全滅するが良い、勝頼の阿呆め」と、火。
 三姉妹は毒づいていたが、顔は青ざめ、悲痛な趣で、瞬きも忘れて戦場を凝
視していた。

 武田軍が射程内に来ると鉄砲が一斉射撃で騎馬もろとも武者をなぎ倒した。
 素早く一段の鉄砲隊が後方に引き、二段めが一斉射撃、素早く入れ替わった
三段めも一斉射撃。
 織田軍は主力の槍隊と騎馬隊は戦闘行為の気配すら感じさせなかった。
 まるで、芝居見物でもしているようだ。
 光秀と光晴もこの新作舞台の見学者だった。
「光秀様、戦の歴史が変わりました」
「これからは、鉄砲を多く持った者が有利になる」
「はい、戦の猛者など、これでは役に立ちません」
 空を見上げる光秀。
「今日は晴天だが、雨が降っていたらどうする?」
「合羽や大敷物などで鉄砲を守ります」
「じゃが、鉄砲隊の威力は半減。・・・それでも勝頼相手のの戦では勝てる」
 二人がこんな会話を交わしている内にも、勝頼が次々と放つ武田武者が骸に
なっていた。

 夕日が戦場を照らした。
 そこには真っ赤な武田武者の血と、赤鎧で綾なす紅葉の様だった。

 『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、譜代家老の内藤、山県、馬場
を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、
安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官にも及び、戦傷者は一万を
超えた。が、織田方の損害は僅か六十名に留まったと伝えらている。

 勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、信濃の高遠城に後退した。

 木の上の三姉妹は、風も林も、火も、金縛りにかかった如くに動かなかっ
た。
 夕日が沈み、戦場が闇に包まれた時、三姉妹は改めて魔王の恐ろしさを知ら
された。
 三姉妹が地上に飛び降り、疾走し、やがて何処ともなく消えた。

  2017年2月13日   Gorou

三界の夢 そのⅨ 長篠

2017-02-12 23:05:16 | 物語
そのⅨ 長篠

 長篠城は交通の要衝にあり、寒狭川と大野川が合流する場所に突き出した断
崖絶壁上の天然の要塞であった。

 信玄は野田城を落とした直後から度々喀血した。
 このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて
4月初旬に甲斐に撤退することと決まった。

 粛々と甲斐に引き返す武田の軍勢に常の覇気が無かった。お山が病に倒れ、
明日をも知れぬ重傷。との噂が掛け巡っていたからだ。

 一人の騎馬武者が、遙か彼方で夕焼け目掛けて疾走する信玄(影武者)とお
側衆の幌武者を見付けて、鬨の声を挙げた。
 鬨の声が全軍に伝染して行く。
「お山はお元気だぞーッ!」
「髑髏館で出直しなさる!」
「エイエイオー!」
 十騎程の騎馬武者が、堪らず信玄の影とともに早駆けた。

 その頃、鎧を脱いだ近習衆と医者と風に守られた一台の籠が裏街道を急いで
いた。その籠は三州街道上の信濃国駒場宿に入った。
 思えば、「遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都
に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんと
の、信玄の望み是なり」と、上洛軍を興し。
 俳諧書犬筑波集で「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田
殿」という句が記されている。

 4月12日、信玄は風を病床に呼んだ。
 半身を興しながら信玄が何か言おうとしている。
「お山は動いてはなりませぬ」
 風はやまい人を優しく床に寝かしつけた。
 三姉妹は、決して信玄をお屋形様とは呼ばなかった。今も病と風林火山の山
との掛詞だ。
「わしの夢を知っておるか?」
「京に御旗を立てる事でございましょう」
「もう一つ有った」
「もう一つで御座いますか?」
「わしの跡目は勝頼が継ぐ事は決めてある。が、あの者では心許ないでな、わ
しはそなたに男子を生ませかった」
「それでは、お抱き遊ばせば宜しう御座いましたものを」
「わしは、気に染まぬ者を手籠めにする程女に不自由はしておらぬ」
 風は袖で口を隠して笑った。
「それはまた、お行儀が宜しう御座いますな」
「可笑しいか?」
「はい、可笑しう御座います」
 信玄も快活に笑った、笑いすぎて咳き込んだ。
 信玄の背中をさする風。
 咳が収まると、信玄は真顔になった。
「勝頼では、そなた達三姉妹を使いこなせまい。わしが死んだら、意のままに
せよ。重臣たちには言うてある」
「勝頼様に仕えよとは命じないのですか?」
「風よ、山が崩れた甲斐に風と林と火の居場所は無い。・・・そうよな、風を
使いこなせるのは、わしの他には謙信公しかいないかも知れん」
 思わず顔を伏せる風。謙信公の名が信玄から出たので顔を赤らめていたから
だ。
「そうだ、もう一人思いついたぞ」
「どなたで御座います?」
「小童、痴れ者、歌舞いた阿呆、魔王、色々な名で呼ばれる信長じゃ」
「残念では御座いますが、信長風情に仕える風では有りませぬ」
「ハ・ハ・ハ、戯れ言じゃ、許せ」
 信玄は、風の二の腕を掴み、優しく掌までを撫でていく。
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
 信玄は辞世の句を詠んだ後、風にこう言った。
「此の世は世相に任せるものだ。見せ掛けで生きるな。本音で生きよ」
「はい、お屋形様の仰せの通り、本音で生き抜きます」
「初めてお屋形様と呼んでくれたのう」
「はい」
 風の頬を一筋の涙が伝った。
 その涙を優しく拭う信玄。
「風よ、勝頼と重臣(おとな)共を呼べ」
「はい、畏まりました」
 風が退席して間もなく、勝頼と山形を初めとした重臣達が入ってきた。
「勝頼、信玄の葬儀は出しては成らぬぞ。三年の間は、国を富ませ、兵を鍛え
るて忍ぶのだ、良いか、外征は成らぬぞ、今のお前では甲斐を滅ぼすのが落ち
じゃ。何事も重臣共との合議で決めよ」
 そう言うと、信玄は傍らの山形に顔を向けて微笑んだ。
「山形、京の瀬田に風林火山の旗をはためかせたかったのう」
「なんの、我らが勝頼様を街道一の御大将に育てたてまつり、京に御旗を立て
て見せまする」
「夢じゃ、美しい夢じゃ」

 風林火山の、動かない山、武田信玄が崩御した。
 果たして天下の行方はいかがなるのであろうか?!

    2017年2月11日   Gorou

戦国三大武将の役割

2017-02-10 18:48:39 | 文化
 ここでの三大武将は、武田信玄、上杉謙信、織田信長です。
 信玄は足利幕府生粋の名家の生まれで、もし上洛を果たしていたても、足利
将軍を廃したとは考えられません。武田家は源氏ですから、征夷大将軍の資格
は持っていました。
 武田信玄は戦では無類の強さを発揮する軍勢を持っていましたが、天下の政
治をするには決定的な欠陥を持っていました。
 譜代の大名は意外に少なく、殆ど戦国を生き抜く為に信玄に従っていただけ
でした。
 
 上杉謙信。
 上杉家というのは関東管領という思い役目を担っていましたが、優れた人財
が出ないで滅亡目前でしたが、越後の虎と怖れられていた長尾景虎に上杉の家
名と関東管領の役目を、願って継いで貰いました。
 上杉謙信の誕生です。謙信は生涯で何度も名を変えていますので、とても説
明が難しいのです。
 謙信は、そんな分けで足利幕府に如何ほどの忠誠心を持っていたのかは良く
分かりません。
 将軍家からの度々の上洛を請われたにかかわらず、二度ほど数名の家来を率
いて京を訪れただけで、まあ物見遊山でもする気だったのかも知れません。
 最大の脅威、武田家が滅亡した時にも、大規模な上洛軍を編成する気配を見
せません。関東に出兵したり、越前の柴田勝家を攻めたり、七尾城を包囲した
りと、忙しく戦働きをしていましたが、謙信の本音は何処からも見えてきませ
ん。因みに、越前攻めの時、織田の鉄砲部隊を破っています。雨を待ち、森林戦
に持ち込んだのです。鉄砲隊が当時持っていたのは火縄銃で、雨に弱く、大平
原での真っ向勝負の戦では絶大の威力を発揮します。大体、鉄砲より弓の方が
破壊力が有ったという説を聞いたことが有ります。
 謙信の上洛の意思は、突然の死去で謎に包まれたまま消えてしまいました。

 織田信長。
 信玄と謙信とは、比べようも無い田舎の小大名の出です。
 信長の尾張兵は評判の戦下手で、すぐに負けて散ってしまうのです。
 信長は政策で乗り切ります。兵農分離ですね。尾張兵は一年中出撃可能にな
りました。また、楽市楽座を奨励して経済を発展させ、鉄砲などの兵器も充実
させます。
 人材を見分ける能力に長けています。明智光秀、羽柴秀吉、黒田官兵衛、竹
中半兵衛、一人一人挙げては切りの無い程の優れた武将を登用しました。
 信長が一番買っていた武将は誰かというと。羽柴秀吉と明智光秀です。秀吉
はおだてて使い、光秀は叱って使いました。
 また、信長は大変嫉妬深く執念深い性格でした。が、その武将が役に立って
いる時は、素知らぬ顔で使い続け、能力の限界を見せた時は、即座に追放した
り処刑したのでした。
 かって、弟を立てた謀反の後ろ盾だった柴田勝家も我慢して重用していま
す。織田家の筆頭家老を廃した場合のデメリットを懸念しています。勝家には
妹を嫁がせてもいます。
 信長は念願の天下布武を成し遂げますが、本当の日本統一は次代の武将に引き継がれました。
 明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康の三人です。
 因みに、明智光秀か源氏、豊臣秀吉は藤原家の養子を手に入れて太上大臣に
なる資格を得ました。徳川家康の出自は明かでは有りませんが、平家とか藤原
氏とか自称していましたが、有るとき源氏を名乗ります。征夷大将軍の資格が
欲しかったに違いありません。

三界の夢 そのⅧ 山が動いた

2017-02-08 18:39:09 | 物語
そのⅧ 山が動いた

 疾きこと風の如く、
徐かなること林の如く、
 侵すこと火の如く、
 動かざること山の如し、

 その山が動いた。
 元亀3年(1572年)9月29日、武田信玄は重臣の山県昌景と秋山信友に3000の
兵力を預けて信長の同盟者である徳川家康の三河に侵攻させた。
 そして10月3日、信玄も2万2000の兵力を率いて甲府から出陣し、10月10日に
は青崩峠から家康の所領・遠江に侵攻を開始した。

 信長は四方を敵に囲まれていた為、家康への援軍は佐久間信盛などに率いさ
せた三千に留まった。
 光秀は光晴に百人の強者達を率いさせ、信盛の援軍と帯同させた。
「よいか光晴、信玄公の戦振りをしかと己の眼で見てまいれ」
「はい」

 武田軍は怒濤の如く家康領を侵していった。

 今日も家康の居城浜松城では軍議が続いていた。
 織田の佐久間信盛の籠城論が断然優勢で有った。
 家康も渋々ながら了承した様子でただ黙って座っていた。
 そこへ知らせが入った。信玄軍は浜松城に見向きもせずに西進をしている
と。
 徳川の重臣も織田の援軍もほっとした。
 光晴は籠城には反対だった。信玄の上洛を少しでも遅らせる為、背後から襲
うのが上策だと思って、進言しようと立ち上がった。
 ほぼ同時に一人立ち上がった。家康その人で有る。
「浜松城を見捨てて行くとは、信玄、この家康をよくも瘦けにしおった。一
同、全軍で打って出る、陣振れの太鼓と法螺を鳴らせ」
 その場の者は皆あきれた。あの臆病で慎重な家康が? 狂ったか?!
 鹿角の兜に黒糸威の鎧を纏った武将が勢いよく立ち上がった。
「先陣は其れがしが承る」
「良く言うたぞ平八郎」
 本田平八郎は二丈余(約6m)もある蜻蛉切を頭上で軽々と旋回しながら、評
定広間から出て行った。
 ようやく徳川の諸将も立ち上がって戦支度に取りかかった。
「あれが音に聞こえた蜻蛉切りと本田平八郎か」
 光晴はそう感心しながらも、冷静に家康の本心を探った。
 桶狭間の様に、家康は大博打に出ようとしているのだ。
 考えて見れば、この城で竦んでいれば、嵐は頭上を過ぎるが、戦の勝者が信
玄でも信長であっても、徳川家は地方大名に甘んじ、悪くすれば攻め滅ばされ
てしまう。

 こうして、窮鼠が虎の後を追った。

 三方原で信玄は悠然と待ち構えていた。
 武田軍三万、徳川軍二万、勝てない戦とも思えなかったが、武田の三万は並
みの軍勢の二倍から三倍の破壊力を持っていた。

 武田の戦い振りは少し変わっていた。先陣を切るのは礫隊で、後に弓隊、槍
部隊、最後に騎馬隊が突撃して、敵陣をズタズタに切り裂く。

「オオッ! あれが武田の騎馬隊か?!」
 織田の諸将は後陣で、まるで物見遊山をしているように武田の戦振りを見て
いた。
 光晴が驚いたのは、礫隊を指揮する風と林の姿を確かに見たからだ。
 更に眼を見張ったのは、なんと武田の騎馬隊の先頭を切っているのは火だっ
た。
 
 徳川軍は左翼の本田隊が目覚ましい活躍を見せたものの、本体と右翼が全く
振るはず、家康は影武者まで討たれて総退却を余儀なくされた。
 殿を勤めるのは本田隊だ。
 光晴は明智隊を纏めて、本田隊に馳走した。
「光晴殿、かたじけない」
「なんの、わたくしは遊山に来たわけでは有りません」
 その時、一騎の武田武者が二人を追い越していった。
 火だ! 火は後ろ乗りをして光晴に笑いかけている。
「おかしな女子じゃのう、光晴殿」
「とんでもないお転婆娘で、武田のくノ一、火と名乗る者です」
「ふむ、武田は確かに強いが、風変わりな戦振りを見せる。急がねば城まで奪
われかねない」
 光晴と本田隊は浜松城目掛けて早駆けた。

 浜松城は城門を大きく開いて、篝火で城内まで明々と闇に晒していた。
 追っ手の武田軍は、城を目前にして戸惑っていた。罠ではないかと疑ってい
たのだ。

 光晴と平八郎が広間に行くと、家康は忙しく箸を動かして湯漬けを掻き込ん
でいた。
「苦労で有った平八郎。助成忝い、光晴殿というたかな」
「はい」
「殿、何を悠長に。湯漬けなど食ろうている時では有りませぬ。大門は開かれ
たままで、いまにも武田勢が城内に乱入して参ります」
「なに、・・・城攻めはせぬ。死にものぐるいでかかってくる相手に軍勢を削
がれるのを嫌う」
 家康が言うように、武田勢は浜松城から撤退をしたが、翌日から家康の諸城
を火のように攻めて落城させて行き、野田城を陥落させた後、何故か動きを止
めた。

 数日後の深夜、光晴の寝所を火が訪れた。
 人の気配に、光晴が眼を開けると、息のかかるほど間近に火の顔があった。
 相変わらず微笑んでいた。
「光晴、お前が何を夢見ていたか、当ててみようか?」
「ふん、見てもいない夢をどうやって当てる?」
「光晴、お前は痴れ者じゃ。夢というのは熟睡している時に見るのでは無い。
うつらとする時に、心と頭で考える事じゃ」
「そなたに分かるのか?」
「そなたは無かろう。火と呼べ」と、ふくれ面を見せる火。
「あいわかった、火よ、当てて見よ」
「信玄がなぜ動かぬのか分からぬのじゃろう?」
「わからぬ」
「馬鹿か光晴は。動かぬと考えるから分からぬのじゃ。なぜ動けぬと考えぬ」
「動けぬ? 火よ、わたしを妖言で誑かすのか」
「わしはお前と謙信公だけは誑かさぬ」
「謙信公? 信玄公では無いのか」
「そうだ、馬鹿な光晴にもう一度だけ言う。わしは明智光晴と上杉謙信公だけ
は誑かさぬ」
「何故?」
「お前を気に入ったからじゃ。謙信公はわしら三姉妹に命を呉れたからじ
ゃ」
 火の最後の言葉は天井から振ってきた。

 徳川家康は三方原の大敗で得がたい物を手に入れた。前代未聞の律儀者の評
判である。義理堅い家康、頼れる御大将家康。その虚像は、徳川三百年の礎を
確りと築いた。
    2017年2月8日   Gorou

三界の夢 そのⅦ 叡山焼き討ち

2017-02-07 19:36:11 | 物語
そのⅦ 叡山焼き討ち

 三年前、まだ三姉妹が信玄に仕えていた頃の話である。

 元亀2年(1571年)9月12日早朝、信長軍三万は比叡山を蟻の逃げる隙間も無
い程取り囲んでいた。
 出撃を知らせる法螺貝が鳴り響き、織田軍は一斉に比叡山に攻め登った。
 参戦した主な武将は、信長を初め、柴田勝家、明智光秀、木下藤吉郎などで
ある。夜討ちしなかったのは一人も逃さぬ為であった。

信長公記に曰く。
『九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零
社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社
哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉く
かちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて
攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是
は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員
を知れず召捕り』

 猛烈な炎を上げる山王二十一社、逃げ惑う僧侶や庶民、それに赤子を抱いた
女や幼童・幼女が織田の侍達に惨たらしくも首を切られている。
「地獄だ、この世にも地獄が有ったのだ」
 光晴は呆然として佇んでいた。立てているのが不思議なほど狼狽していた。
「光晴、良く見ておけ。この光景を忘れてはならぬ」
 光秀は灼熱の大地を踏みしめ、立ち続けた。
 光秀を囲む明智の兵達は誰も動かず、殺戮に加わる者は一人もいなかった。
「光晴、迷っていた我が心が定まった。魔王を討つ、いや魔王は神になろうと
している。そのような者生かしてはおけぬ。光晴お前は、菩薩に復讐を誓った
その時に、既に人では無くなっておるが、半分は人としての心が残っておる。
今、決断せよ。わしと供に信長を討つか、並みの男として生きるか」
 光晴は即座に返答した。
「光秀様と供に狂った魔王を滅ぼしまする」
「道は険しいぞ。果たして機会が巡ってくるのが何年先になるは分からぬ」
「承知! 魂塊が砕け散るまでまちまする」
 
 前方から、忍者の集団に守られた僧侶や庶民がやってきた。
 先頭を走る三人のくノ一は風変わりな忍び衣装を着ていた。
 青衣装のくノ一が飛んだ。
 続いて飛んだのが萌葱衣装のくノ一だ。
 紅に燃えるくノ一はクルクルとトンボを切って近づいて来た。
 青衣装の風が光秀の前で、背中から忍び刀を抜き放って構え、鋭い眼光で睨
んだ。
「邪魔立て無用!」
「我らは人にはあらず、案山子のような物じゃ、何も見えぬで、何も出来ぬ」
 光秀の言葉で、風は忍び刀を収めて深く頭を下げた。
「忝う御座いまする、明智十兵衛光秀様。ですが、ただ見逃しては御身に魔王
の災いが掛かりましょう。ここは一つ争う振りなどいたしませ」
「では、舞でも舞うか」
 光秀は、大げさな身振りで刀を抜き、家来の一人に剣舞を仕掛けた。
 明智衆は皆一斉に刀を抜いた。
 警戒して林も忍び刀を抜いて身構えた。が、明智一党は光秀を中心に剣舞を
おどけた様子で踊った。
 槍を構えた武士は歌を歌い出した。
♪酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を
 何人かの槍武者が衾を造って唱和した。
♪飲みとるほどに飲むならば これぞまことの明智武士
 光秀までが歌に参加した。

 明智衆の中で一人だけ、光晴が憮然として紅の衣装の火と睨み合っていた。
 火が構えた忍び刀を空中に放り投げた。
 クルクルと舞いながら、火の背中の鞘に収まった。
「お前は阿呆踊りをせぬのか?」
 火が嬉しそうに笑い、幼さの残った顔を光晴の耳元に近づけた。
「若年故に踊れぬのか? 歌えぬのか?」
 光晴はこの娘に惹かれた、行方の分からぬ妹を思い出したのだ。

「ドコイ」
 光秀のかけ声で群舞は終わり、明智武士は皆案山子に戻った。
 風と林と忍者群は、僧侶と人々を囲んで守りながら山を駆け下りていく。
 火が光晴に囁きかけた。
「わしの名は火」
「火?」
「いかにも、光晴殿」
 そう囁いた時には火は数間先を駈けていた。
 駈けながら光晴を何度も振り返り、その度にあどけない笑顔を送って来た。
 光晴は何故か赤面していた。少しだけ人の心が戻っていたのかも知れない。

 戦後、比叡山で信長の惨い命令を守った武将に何の報償も無かった。
 黙って逃げるのを見過ごした明智光秀と木下藤吉郎にも、なんのお咎めも無
かった。叡山焼き討ちは、信長にとって既成概念を破るための大芝居だったか
らからも知れない。


 三姉妹は、延暦寺宗主覚恕法親王を信玄の元に送り届けた。
 信玄は延暦寺の復興を覚恕法親王に確約したが、実現しなかった。

 信玄はくノ一を良く育て、良く使った。
 戦で孤児になった幼い子達を隠れ里で忍びに育て上げたのである。
 三姉妹も、川中島の戦い(第四次)の後で信玄に拾われた。
 武田のくノ一は皆信玄を父親のように慕っていた。謙信を神と崇める三姉妹
を除いてはである。勿論三姉妹は口にも態度にも出さなかった。

 くノ一は二十歳を幾つか過ぎると信玄の側室に取り立てられ、三十路を過ぎ
た者は歩き巫女として、生涯信玄に日本各地の情報を届け続けた。
 近頃、風が側室に迎えられると、噂が頻りに流れた。
 林と火が風に報告した。
「風よどうする?」
「林よ、どうにもせぬ」
「お姉様、いっそ抜けるか?」
「火よ、未だその時期では無い」
 風は不思議な微笑みを浮かべて越後の方を見やった。
 三姉妹は「生き抜け」と言った謙信の言葉を頼りに戦乱を生き抜いて来たの
だ。
   2017年2月7日   Gorou