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ザ人物伝、ジャン=フランソワ・ミレー、日本

2021-10-02 10:42:37 | 連絡
日本に初めてミレーに関する情報がもたらされたのは、
1876年(明治9年)にお雇い外国人として来日したアントニオ・フォンタネージによってであった。フォンタネージは、バルビゾン派の流れを引くイタリア人画家で、
1855年のパリ万博でミレーの『接ぎ木をする農夫』を見ており、ミレーの複製画をもたらした。その教え子であった高橋由一はミレーの複製画を複写しており、同じく教え子の浅井忠は、ミレーの作品を翻案した『収穫』(1890年)を製作している[137]。
明治20年代から明治30年代にかけては、パリに留学していた日本人画家たちが次々バルビゾンを訪れた[138]。
1887年(明治20年)5月、黒田清輝がフォンテーヌブローを訪れ、翌1888年(明治21年)11月にバルビゾンを訪れた。浅井忠も、留学中の
1900年(明治33年)以降、バルビゾンを訪れた。原田直次郎は、ドイツ留学の帰りにルーヴル美術館で『落穂拾い』を模写した[139]。
1890年(明治23年)の明治美術会第2回展覧会には、賛助会員でパリ在住の画商林忠正がミレーを含むバルビゾン派の作品を出品した[140]。
刊行物としては、
1893年(明治26年)にシカゴ万国博覧会の開催報告書で、久保田米僊が木版画で写した『鍬に寄りかかる人』と『落穂拾い、夏』の図版が木版画で掲載された[141]。本格的な紹介は、岩村透が
1902年(明治35年)から翌年にかけて『美術新報』に「画傑みれー伝」と題して連載したのが初めてである。この連載は、ニューヨークで刊行された『晩鐘の画家 ジャン=フランソワ・ミレー』を基にミレー神話を伝えたもので、反響が大きく、連載中に二つの出版社からミレーの画集が出版された[142]。夏目漱石も、ロンドン留学中に呼んだ美術雑誌Studioの1902年冬号に掲載されたモノクロ図版を手本に模写したり、
1907年の『文学論』でミレーについて論じたりしている。また、荻原碌山はロマン・ロランの伝記に感動し、ミレーの作品に宗教性を見出している[143]
1902年(明治35年)には高山樗牛が『文藝界』で『晩鐘』と『落穂拾い』の図版入りでミレーを紹介した。
1906年(明治39年)には、岩村透が、ミレー伝を含む『藝苑雑稿』を刊行した[144]。また、
1914年以降、ロマン・ロランの英語版伝記の邦訳が複数出版された[145]。このように、日本におけるミレー理解は、英語からの翻訳によるもので、フランス語の原典は無視されてきた[146]。なお、ポスト印象派の画家を熱心に紹介した雑誌『白樺』では、ミレーの扱いは冷淡であり、
1917年(大正6年)5月号に『バルビゾンのミレーの家』が表紙を飾ったのと、1920年(大正9年)にカートライトのミレー伝を福田久道が抄訳して掲載した程度である。ただ、有島武郎は、
1917年の『新小説』に「ミレー禮賛」という熱烈な評論を書いている[147]。明治末期から昭和初めにかけて、ミレーは熱心に日本に紹介されたが、本物の絵が輸入されないこともあって、画家としてよりは道徳的な偉人として捉えられていた[148]。
1923年(昭和8年)、岩波書店の創業者岩波茂雄は、文化の種をまくといった意味で、ミレーの『種まく人』を社のマークに採用した[149]。
1978年、山梨県立美術館が購入した『種まく人』が公開され、改めてブームが起きた[150]。





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