ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet[3][注釈 1]、1814年10月4日 - 1875年1月20日[4]、60歳没)は、19世紀のフランスの画家。バルビゾン派の代表的画家の1人とされ、特に農民画で知られる。
〇概要
ミレーは、ノルマンディー地方のグリュシーで、農家に生まれた。長男として跡継ぎになることが期待されていたが、18歳の頃から、シェルブールの画家のところで絵の修業を始めた(→少年時代)。教師から才能を見出され、奨学金を得て、1837年からパリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に行き、歴史画家ポール・ドラローシュの下で学んだ。しかし、
1839年、ローマ賞に落選すると、学校を去った(→エコール・デ・ボザール)。
1840年に肖像画でサロン・ド・パリに初入選し、シェルブールで肖像画の注文を次々受けて制作した。最初の妻ポーリーヌと結婚し、共にパリに移ったが、1844年、ポーリーヌを亡くした(→肖像画家としての活動)。いったんパリから帰省するが、実家の反対を押し切って交際を始めたカトリーヌとともに、1845年、再びパリに出て、肖像画や女性の裸体画を制作して生活した。この頃、後のバルビゾン派の同志となるテオドール・ルソーやコンスタン・トロワイヨン、支援者となるアルフレッド・サンシエと出会った。
1847年のサロンに神話画を入選させた(→再度のパリ行き)。
1848年、2月革命によって共和派が実権を握ると、美術界の民主化が進み、ミレーは政治的支援者を得た。この年のサロンに出品した農民画『箕をふるう人』が好評を博し、ミレーは政府注文を受けることになった(→1848年サロンでの成功)
1849年、パリでコレラが大流行したことや、ミレーの政治的支援者が失脚したことから、ミレーは、バルビゾンに移住し、先に滞在していたルソーらの仲間入りをした。
1851年のサロンに『種まく人』を提出して入選したが、これが農民の悲惨な生活を訴える政治的なメッセージと受け取られ、左右両派の激しい論争の的となった(→バルビゾン移住)。第二帝政の時代となった1850年代には、農民画を中心にサロンへの応募を続け、その中には高評価を得るものもあったが、酷評される作品もあった。
1857年のサロンに『落穂拾い』を出品し、これもまた政治的な議論を巻き起こした(→第二帝政前期(1850年代))。
1860年代も好評と不評の波を経験したが、1864年のサロンに出品した『羊飼いの少女(英語版)』が絶賛され、これを機にミレーの評価は一気に高まった。
1865年以降、コレクターからパステル画の注文を大量に受け、特に数多くの風景画を明るい色彩のパステルで描くようになり、新しい境地が生まれた。
1867年のパリ万国博覧会では、一室を与えられて9点の代表作を展示し、巨匠としての名声を確立した(→第二帝政後期(1860年代))。
1860年代末からは体調悪化に悩まされながら、「四季」連作などに取り組んだ。
1870年の普仏戦争と1871年のパリ・コミューンでシェルブールに疎開したことなどで、「四季」連作の制作は中断を余儀なくされたが、亡くなった親友ルソーへの鎮魂の意味を込めたと言われる名作『春』を完成させている。1874年頃から急速に健康状態が悪化し、1875年に亡くなった(→晩年)。
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