深川を隅田川へ向かって東西に流れる小名木川は、行徳から塩を江戸城へ運ぶために、家康が開削させた運河であることはよく知られている。しかしわたしは、てっきり深川埋め立ての際に、埋め残して運河としたものだとばかり思っていたのだが、そうではなかった。
海岸線の波打ち際の内側に船が通れる水路を造って、運河としたものであって、これを沿海運河というのだそうだ。海側に杭を打ったり、小規模な埋め立てをしたりして、海岸線を固定化した運河である。そのまま海沿いに船を操ればよさそうなものだが、そういうものではなく、当時の零細な船で、太平洋の風雨の影響を受けず安定した航路を確保するためには、こういう水路が必要だったのだ。
また製塩は行徳にたよらなくても、江戸城近在でもできそうなもののように思えるのだが、それも違っていて、大規模な製塩というものは、火力が必要で、そのための木材の供給が豊富でなければならないらしく、それが行徳であったわけである。
その後、深川八郎右衛門らの深川の埋め立てが進むにつれて、小名木川は内陸運河となった。
海岸線の波打ち際の内側に船が通れる水路を造って、運河としたものであって、これを沿海運河というのだそうだ。海側に杭を打ったり、小規模な埋め立てをしたりして、海岸線を固定化した運河である。そのまま海沿いに船を操ればよさそうなものだが、そういうものではなく、当時の零細な船で、太平洋の風雨の影響を受けず安定した航路を確保するためには、こういう水路が必要だったのだ。
また製塩は行徳にたよらなくても、江戸城近在でもできそうなもののように思えるのだが、それも違っていて、大規模な製塩というものは、火力が必要で、そのための木材の供給が豊富でなければならないらしく、それが行徳であったわけである。
その後、深川八郎右衛門らの深川の埋め立てが進むにつれて、小名木川は内陸運河となった。