A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

小名木川

2005年11月16日 | 江戸から東京へ
 深川を隅田川へ向かって東西に流れる小名木川は、行徳から塩を江戸城へ運ぶために、家康が開削させた運河であることはよく知られている。しかしわたしは、てっきり深川埋め立ての際に、埋め残して運河としたものだとばかり思っていたのだが、そうではなかった。
 海岸線の波打ち際の内側に船が通れる水路を造って、運河としたものであって、これを沿海運河というのだそうだ。海側に杭を打ったり、小規模な埋め立てをしたりして、海岸線を固定化した運河である。そのまま海沿いに船を操ればよさそうなものだが、そういうものではなく、当時の零細な船で、太平洋の風雨の影響を受けず安定した航路を確保するためには、こういう水路が必要だったのだ。
 また製塩は行徳にたよらなくても、江戸城近在でもできそうなもののように思えるのだが、それも違っていて、大規模な製塩というものは、火力が必要で、そのための木材の供給が豊富でなければならないらしく、それが行徳であったわけである。
 その後、深川八郎右衛門らの深川の埋め立てが進むにつれて、小名木川は内陸運河となった。

江戸城百人番所

2005年11月16日 | 江戸から東京へ
江戸城大手三之門の警護のための詰所が、百人番所である。伊賀、甲賀、根来、二十五騎組が、百人四組、昼夜交替で、警護に当たっていた。
服部半蔵率いる伊賀衆が、組屋敷を与えられていたのが大久保百人町であり、家康入府の当初は北条氏の追撃に備えるための配置であったらしい。
百人町の皆中稲荷神社では、秋の例祭で、鉄砲組百人隊の保存会により、火縄銃発砲の実演が行われている。皆中とは「みなあたる」の意とか。