司馬遼太郎の最後の「街道を行く」がこの三浦半島の三浦一族を取り上げたものだったのだった。ちょうどその頃、自分は三浦一族の本拠地であった衣笠城跡の近くに住んでいた。それで興味を引かれて、花見時分などに何度か登ってみたことがある。当時は、自分の郷里の美作三浦氏と関係があるなどとは知らなかった。
三浦一族は源頼朝に呼応して、この衣笠城で兵を挙げ、鎌倉幕府内では、重きを置かれた一族だったが、常に悲劇的な影が付きまとっていた。88歳の三浦大介の衣笠城での自刃、同族内での血で血を洗う争い、そして北条氏による一族滅亡と続く。わが美作国など各地に流れてきたのは、その生き残りの庶流である。
三浦貞宗が15世紀に美作で高田城を築城した後も、尼子や毛利の侵攻を繰り返し受けて、落城と奪還を繰り返しながら、最後は滅亡してしまうので、こちらでも悲劇の一族で終わったことになる。
三浦一族は源頼朝に呼応して、この衣笠城で兵を挙げ、鎌倉幕府内では、重きを置かれた一族だったが、常に悲劇的な影が付きまとっていた。88歳の三浦大介の衣笠城での自刃、同族内での血で血を洗う争い、そして北条氏による一族滅亡と続く。わが美作国など各地に流れてきたのは、その生き残りの庶流である。
三浦貞宗が15世紀に美作で高田城を築城した後も、尼子や毛利の侵攻を繰り返し受けて、落城と奪還を繰り返しながら、最後は滅亡してしまうので、こちらでも悲劇の一族で終わったことになる。
中高生の頃か、
地元の電鉄会社が、
あまりパッとしない三浦半島観光を、
盛り上げようと、
「三浦一族史跡めぐりキャンペーン」
を車内、駅貼りポスターで張ったことが、
ありましたっけ。
父親とポスターを見ながら、
「滅亡連続の一族だからなぁ」と、
ため息をついたことを思い出します。
美作勝山藩二万三千石になった、
三浦一族の後裔はやっと安住の地を得たのでしょうか。戊辰戦争でもうまく立ち回ったようですし…
勝山藩は、江戸中期に全く別系統の三浦氏が三河から移って来ますが、これも古くたどれば関東の三浦一族の末流らしいです。
幕末には幕府方に荷担し、長州戦争にも兵を出しました。江戸の谷中に下屋敷があったのですが、上野戦争の時には、藩主がここで病に伏せっており、そこに彰義隊が押し入って、参戦を強要するということがありました。寛永寺の寺男で、三浦下屋敷で奉公していた男が、彰義隊に加わり、敗走し、維新後逃げ隠れして暮らした話が伝わっています。
戊辰戦争の前には津山藩の説得を容れ、新政府へ恭順しています。吹けば飛ぶような小藩なので、時代の風を読みながら、右往左往したのでしょう。
和田義盛の反乱の時、甥(誰でしたっけ)
が一緒に戦っていたら、どうなっていたんでしょう。
戦いの時、わざと敵・味方に別れて、
一族の全滅を防いだのは信濃の真田氏でしたか?
どのような思いで、戦わない道を選んだのか
ともかくも、三浦氏はしぶとく生き残ったけど
やっぱり、悲劇の一族なんですね。
強い女は好きだけど、北条の政子さんは好きになれません。
なるほど、一族の全滅を防ぐために、あえて敵味方に分かれて戦うということがあったのですね。中世の世界観は、深いですねえ。
真田一族のことは、上田のガイさんの分野ですが・・・。
ちなみに幕末の三浦勝山藩の江戸留守居役が、あの鳩山家の先祖です。他藩との外交折衝、情報収集をする役目ですが、政治音痴なのは、当時からの鳩山家のDNAなのだと思っております。