竹橋の東京国立近代美術館で、アンリ・カルチエ=ブレッソン展が開かれているというので、見に行ってきた。ブレッソン展は以前にも見たことあり。入場者多く、日本での人気が伺われる。
被写体は、人、人、人である。フランス人はしつこくて、とても付き合いきれない。決定的瞬間といい、完璧な構図といいうが、代表的な作品はいずれも苦手である。写真を撮るのにこういうことばかり考えて反応しているということ自体がいやだ。この方向の先には、写真の芸事化と、退屈な構図主義の残骸が残るのみで、写真に未来はない。ガスマンのプリントと、本人のプリントの違いもどうでもいいやという気になってきた。
アルチュール・ランボーの「イルミナシオン」に、ブレッソンが挿絵を書いた本が展示されていた。晩年は写真を撮らなくなり、デッサンに明け暮れたそうだが、そのデッサンも好きじゃない。アジェの絵くらいのものじゃなかろうか。
「逃げ去る時」という言い方と、「決定的瞬間」という言い方の間には、大きな隔たりがあるはずだが、一体どうなっているんだろう。
被写体は、人、人、人である。フランス人はしつこくて、とても付き合いきれない。決定的瞬間といい、完璧な構図といいうが、代表的な作品はいずれも苦手である。写真を撮るのにこういうことばかり考えて反応しているということ自体がいやだ。この方向の先には、写真の芸事化と、退屈な構図主義の残骸が残るのみで、写真に未来はない。ガスマンのプリントと、本人のプリントの違いもどうでもいいやという気になってきた。
アルチュール・ランボーの「イルミナシオン」に、ブレッソンが挿絵を書いた本が展示されていた。晩年は写真を撮らなくなり、デッサンに明け暮れたそうだが、そのデッサンも好きじゃない。アジェの絵くらいのものじゃなかろうか。
「逃げ去る時」という言い方と、「決定的瞬間」という言い方の間には、大きな隔たりがあるはずだが、一体どうなっているんだろう。