祖母が いろいろ問題を抱えてた時 肝心のバカ息子
私にとっては父親ですが・・・数年音信不通は当たり前のフーテンの寅さん状態
自由人ってやつですか どこにいるのかも知りませんでした。
絶対に父の老後は見ないと誓ってた頃でした。
祖母には6人の子供がいましたが(5男1女)長男と父と
神戸の叔母以外他界してました。
たまたま最初に働いた先が 営業職で時間も自由に使えたので
祖母の様子を見に毎日行ってました。
会社のすぐ近くにアパートがあったので
そこで 毎日同じ服を着てるのに気が付きオシャレだったのに
お風呂入ってる?着替えは?
あ~~面倒だから 風呂に入ってないと祖母
え~~~~何日位?忘れた 歳だから汚れないからいいんだ
服は?着替えあるの?あるが 面倒だからいいんだ
洗濯は?うるさいと言われ終了
嫌がる祖母を近所の銭湯へ連れて行き身体を洗ってあげました。
それからは定期的に我家に連れて来てお風呂に入ってもらいました。
金銭感覚もおかしくなりはじめ同じものを何十個も買ってくる
腐り始めたパンを何個も隠してる見つけては捨ててましたが
冷蔵庫チエックもマメに それも数ケ月も続けると私の体力気力がダウン寸前
そんな時に市役所から電話が おばあちゃんが訳の分からない事をいい
ロビーで騒いでるので 迎えにきてほしいと・・・またか
また私が取ったと言ったのかしらと思いながら市役所へ
どうやって1人で市役所へ行ったんだろうバスにも乗れないのに
生活保護課の担当の方が待っててくれました。
祖母は落ち着いたみたいで静かにソファに座ってます。
今までの経過をすべてお話しました。
お孫さん(私の事)だけでは、軽度認知障害なった
おばあちゃんの面倒を見るのは限界でしょう・・・
他に誰かいませんか?と聞かれても
いないから30代の私が見てるわけで・・・
結局保護課の方が家庭訪問をマメにしてくれる
近所の民生委員の方も 訪問してくれる事に
そして 今すぐは空はないのですが
施設に入れる事を考えてはどうですか?と
それは・・・それは・・・祖母を見捨てる事になるのではないか
育ててくれた祖母に ひどい事をしていいのだろうかという罪悪感
前から わしは養老院(今の老人ホーム)なんて行かないよ
あんな所に入るくらいなら死んだ方がマシさと何度も言ってた祖母
自分が大変だからって そこへ行ってとは言えなかった
考えておきますと言って 祖母を連れて帰りました。
火事が怖かったのでガスは使えないようにして
(真っ黒焦げになった鍋発見)
ポットを買い祖母が大好きな紅茶を飲めるようにして
高血圧と膝、腰の痛みがあったので 病院通いもして
食事は運んでました。きちんと残さず食べてたようで一安心
ところが 具合が悪くなり 外で座り込んでたのを発見され
連絡をもらい慌てて祖母宅へ すぐ病院へ脱水症状と栄養失調と
言われ 驚きました。毎日 ご飯を完食してるもんだと思ってたので
(後から解りましたが 捨ててたらしい)
すぐに入院して下さいと言われ1度祖母宅へ帰り入院の用意をしてたら
なにしてると聞くので 具合悪いから少しだけ入院だってと私
誰が?わしか?どこも悪くない寝てれば治る
入院なんてしないと怒り始めたんです。
そこで私も今まで溜まってたものがあり爆発
どれだけ周りに迷惑かけてると思ってるのよ私だって仕事や家事
子供達の面倒もみないと行けないのに ご飯作って毎日来てるのに
少しはいう事聞いたらどうなのよと怒鳴ってしまいました。
攻めてはいけない 言ってはいけないとは解ってましたが
疲れ果てていました。大喧嘩に・・・
しかし やっと諦めてくれて入院のため
荷物を持ち 病院へ 入院手続きをし荷物を片づけ
仕事があるので終わったら帰りに寄るから おとなしくね~!
同室の方々にも祖母を宜しくお願いしますと挨拶をして会社へ
夕方仕事が終わり疲れた足取りで祖母の病院へ 気も重いです
病室へ入ったら・・・・ベットに祖母がいない 検査
それにしても ベットに寝具がない 綺麗すぎる!
よく見ると祖母の荷物もない
もしや・・・死んだ・・・から片づけられた
心臓がドキドキしてきましたよ隣のベットの方に聞きました。
このベットにいた祖母は どうしましたか
あ~~~おばあちゃんね。点滴が終わったら自分で息子さんに電話して
迎えに来てもらい 退院したわよ~~だって
うっそ~~あんなに苦労して入院させたのに・・・
どんな息子でしたと聞いたらタクシーの運転手だって
あ~忘れてた 長男がタクシーの運転手してバツイチでいたんだと
ほぼ交流がなかったので 完全に忘れてました
しかし 認知症初期なのに そういう所だけは頭が働くようで
看護師さんには、自分から勝手に退院したので
もう2度と当院には来ないように言われてしまい
泣きたい想いで帰宅しました。
もう祖母の顔を見るのも 正直嫌になってたんです
夜 祖母の家に電話をしてみました。
すると何事もなかったかのように元気よく はいと祖母がでました。
はぁ~~~何も言えない私無事なの
あ~~長男が荷物を運んで家まで送ってくれたから大丈夫だ
関係ないのは解っているが叔父さんを恨んだぞ一言☎せんかい~
もう治ったからいい病院には行かない・・・
え~え~病院側から断られたわよ
これから先 どうなるんだろう
祖母を1人で置いておくわけにはいかない
しかし私のMSも狭い 祖母の寝る場所はない
生活保護課の方が言った 施設へ・・・の言葉が
頭の中で回っていた当時20年以上前は
今以上に施設にたいして偏見が強く 家族が面倒を
見るのは当たり前と思われた時代でした。
施設の数も少なかったです。
これから先 またも騒動が起こるのであった・・・
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なりたくないでも、いずれかはなるんだと思うと気が重い。
周りの人を巻き込んでしまうんですね。
色んな事思いながら、怒りが出てしまう
むづかしいねぇ
介護保険などの制度も もちろん無くて
どこの誰に 何を相談していいのかさえも
まったく解りませんでした。孫の立場だったので
友人達に聞いても まだ親は元気に生きてるわけで
途方にくれてた時でした。
養老院として 介護施設が嫌われてた頃です。
そこへ行けば 誰も面倒をみてくれず
死ぬまで出れないと祖母は本気で信じてました。
違うのにね~明治生まれの祖母には怖い場所だったんでしょうね。
施設が決まらない時や、施設の運営方針の関係で自宅に戻さねばならない時は、皆で交代で介護したりもしてましたよ~。
祖母の場合、インフルエンザで倒れていたのを親戚が発見して入院させてから、一気に出ました。しかも、一番最初に気付いたのは私。何度言っても信じてくれない親や叔父&叔母…。結局、入院していた病院の先生から”退院間近です。のんびりしている場合じゃありません!!”と、怒られて皆慌ててましたっけ…
ちょっとずつ、色々な概念が消えていく認知症。きっと、本人は空白の時間が多くて、その間はいくら最愛の家族たちに会ってもわからなくて孤独で、つらかったんだろうな…って今でも思います。こっちは、精一杯してあげたつもりですが、祖母に届いていた事は、少なかったのかなとも…
血はつながってなかったけど、すごくかわいがってくれていた(私の事を養子に迎えたがっていた)母方の叔母が膠原病で40代で亡くなりました。その頃から、人間、いつ何が起こるかわからないから、人に対しては後悔の無いように生きようと思っていましたが、祖母に対して私が出来たことは、80%くらいだったような気がします。
私なんて祖母に30%も出来たかどうか?
回りに親戚や私に兄妹もいなかったので
本当に1人で戦う感じ その後亡くなるまでの6年間は 長かったですよ。
最後まで私の顔と名前は覚えていてくれました。
娘達の顔も・・・でも年齢は憶えれなかったみたいで 10分おきに娘たちに聞いてたっけ
最後を看取ったのは長女と私でした。
急に病院から呼び出され次女は遊びに行ってて見つからず
間に合わなくて ず~と次女は後悔してました。怪獣と同じ位の年齢の時です。
私は最後まで 母さんと呼んでました。