百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

石家荘地区の思い出(臨城県)

2007-10-16 18:43:52 | Weblog

 10月16日  (火) 
                           平成17年1月1日より 1,019日目
                                       歩いた歩数         その距離
                            本日         10,861歩            7,603m
                            総計   14,232,690歩   9,962,883 m
         北京より石家荘・邯鄲・洛陽・三門峡を経て崋山に向かう。後 86,267m

  1990年9月20日 晴れ 気温 15℃~24℃

 河北省でのお別れパーティも済んで、今朝北京へ発つ日だったが、彼女たちのすすめで女々しくももう一日石家荘市に泊ることになってしまった。

 

 邢春さんと陸麗麗さんが急遽役所を休んで、観光サービスをしてくれることになった。午前7:40ホテルを発って臨城県の白雲洞へ向かった。梁君を前の席へ坐らせ、私は邢春さんと陸麗麗と後ろに席をとる。楽しいドライブ、梁君いわく。「両手に花ネ!」と。

 

 臨城県は石家荘市より60km先で、刑台地区の県。気づいたことだが、この地は未解放区の筈。不安に思っていると、邢春さんは勿論百も承知、「アナタはダマッテイテ」と。無断で未解放区へ入ることは許されない。尋問されれば、私ばかりか彼女たちも同罪の筈。彼女たちの度胸の良さと好意には頭が下がる。

 

 臨城県で公安官に道を尋ねると、車を止め白雲洞へ勤務している女性を探してきて強引に車に押し込め、案内役にしてくれる。この間、随分ハラハラさせられる。白雲洞は大行山脈に属して石灰岩に覆われた地でセメント工業の中心地である。近づくにつれて、カルスト台地特有の羊の群れが放し飼いされているような風景が見えてきた。秋吉台と似た風景だ。

 

 1988年、石灰石の採掘中、偶然に発見され、今年の7月、ヤット公開に漕ぎつけたという開店早々の鍾乳洞だ。それにしては案内ガールの堂々とした説明は見事。邢春さんは「アナタはダマッテいて」と私に釘をさしたにもかかわらず、私に日本語で訳して聞かせてくれる。それが洞窟の中で反響して不気味。

 

 ここで捕まったらと思うと気が気でない。中程の明るい場所があり、ここで記念写真を撮ろうという。未解放区の証拠写真まで残そうと言うのだから。3人で肩を組み仲良く撮ってもらう。イヤ、邢春さんはその瞬間、肩から手を外していた。「アナタは家庭を大切に!」と言った。

 

 帰途、車上の回転灯をつけ、サイレンを鳴らし、梁君が赤旗を振って、他の車を抑えて超スピードで戻る。邢春さんいわく、「あれはいたずらです」と。ホテル着は0:12。昼食は再び二人に囲まれてビールを飲む。マズイビールも今日だけは弾む。またまた両手に花!

 

 昼食の後、梁君と石家荘駅前の商店街へ出掛ける。商店街は延々として続き、電気製品・音響製品を扱う店の多いのに驚く。以外に(と言っては失礼だが)商品は潤沢で、衣料品・靴などは好きなタイプのものが手に入りそう。小生も今晩キットやってくると言う二人の為にと、テープを買う。4巻で13元なり。

 

 歩道橋を渡ると衣料品を扱う店が軒を並べ、駅周辺に近づくと薬屋も何軒かある。この通りで「検察」という腕章をつけた軍人たちが兵隊を捕まえては虱潰しに服装検査をしていたのが印象的だった。日本にあった憲兵のようだった。

 

 夕食後、邢春さん夫婦と陸さん親子がお別れの挨拶にやって来た。邢春さんから絨毯と観音様、菲菲ちゃんから貴ちゃんと真ちゃんに小箱が贈られた。初めから最後までお世話になった上、お土産まで頂いて、その好意に感謝すると共に二人の出会いを作ってくれた天の神に感謝しなければならないとしみじみ思った。

 

 麗麗さんは私の今回の訪中に感謝してと前置きして、私の為に西蔵民謡を歌ってくれる。それがきっかけでみんなで合唱。 邢春さんも歌ってくれる。このテープは爪を切って永久保存とする。午後10:20名残を惜しみながら帰っていった

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                               SWEDENHOUCE

           
                     
基礎 枠外す

 

            
                                     


石家荘地区の思い出(栄誉証書)

2007-10-16 14:32:44 | Weblog

  10月15日  (月) 
                         平成17年1月1日より 1,018日目
                                  歩いた歩数       その距離
                         本日        5,667歩          3,967m
                         総計   ,221,829歩   9,955,280 m
        北京より石家荘・邯鄲・洛陽・三門峡を経て崋山に向かう。93,870m

  1990年9月19日 晴れ 気温 15℃~23℃

   昨日で、すべての日程が終了したので今日のスケジュールは、河北省主催の晩餐会があるのみ。

 退屈を紛らそうと、河北省博物館の参観に行くことにした。館の入り口には既に多くの団体客が押しかけておってゴッタ返しているので、道を隔てた公設市場を覗いて見ることにした。野菜売り場・肉売り場・くだもの売り場から始まって日用品なら何でも揃う。洋服生地から衣料百般、時計、計算機から女・子供のアクセサリーまで。またレジャー用の釣具類,靴から家具まで何でも間に合う便利な市場である。

  ホテルでの来訪者になんのもてなしも出来ないので、花豆と干し葡萄を買う。市場を出ると、わき道に生きた鯉を売る人達が沢山並んでおり、続いてスッポン売り(1斤=500g 28元)亀(1匹 5元)淡水魚・・・そして冷凍物の太刀魚、一番安いと言われるホッケ、続いて紋甲いか(違うかも?)の茹でた物、鶏の毛をむしったものなども売っており、大いに興味が湧いたが、梁君に促されて博物館へ向かう。

  博物館で一番興味を引かれたのは、殷・周・春秋時代を経て、河北で栄えていた趙国や燕国がやがて秦に飲み込まれてゆく過程。これが今から二千年も前の話だから驚くほかは無い。そしてまた農民の不満を梃子に秦を倒して漢が起こるなど、その変遷は目まぐるしいばかりだが、日本はまだ弥生時代、カワラケや土器の時代と言うのに、銅・鉄・金・銀の精巧華麗な美術品や方角を知る機械、天文の機器から地震計までも作り出している。

  沢山の各地の出土品の中に、今回訪問した先の県名などが表記されていて、懐かしさと親しさで興味が益々湧いてきた。現近代に近づくにつれて、生臭くなり、特に日本やアメリカ・台湾に関係した資料室は梁君が大変気を使い、「先生、時間がありません」と、急かせられ、見詰める余裕が無く残念だった。そういえば、各会場ごとに参観者の居なくなった所からシャッターが下ろされてさしもの学生群も既に引き揚げたようだ。後ろ髪を引かれる思いでホテルに戻る。

  昼寝起きの後、お別れパーティの用意にと、「星影のワルツ」をパソコンで打つ。夕食のお別れパーティは昨日と同じ燕風楼だが、今日は格別素晴らしい部屋。この楼の最高の部屋のようで、部屋は二つに仕切られて、控えの間には二幅の掛け軸、深々とした漆塗りの豪華な椅子。超豪華な大型茶箪笥など。宴席の間とを仕切る欄間は、両袖からせり上がった紫檀の総模様の浮き彫りのゴージャスなもの。飾り棚には八福神(日本へは一人、舟に乗り遅れたのだという)。

          

 席には白酒・ぶどう酒・ジュースと注ぎ分けられ、すべて物々しい感じである。邢春さんも麗麗さんもこの部屋は知らなかったという。今晩のメーンは北京ダックというが、どんどん出た料理に腹一杯になってしまったのか、白酒の乾杯で参ったのか、ダックのお代わりをしたのは、小生だけというもったいなさ。

              

 河北省科学技術委員会より、ここで栄誉証書が私に渡された。邢春さんが河北政府はアナタに重いお土産を差し上げることになりました、と言ったのはコレだったのか!長野県の人で、この栄誉を受けたのはアナタが初めてです、と言われ、かんぱい!乾杯!邢春さんも麗麗さんも、こんばんは三杯でなく六杯やってくださいと祝福してくれる。六杯過ぎてもバツ印がでないまま、スッカリご機嫌になって主任の車でホテルまで送ってもらう。

                

 お陰で邢春さんや麗麗さんと(抱き合って)喜びを分かち合うチャンスを失ってしまった。ホテルで梁君と再び飲み直し。白酒で乾杯、乾杯。私の親は定年で退職するとき、栄誉証書を貰い、涙ぐんでいました。先生は一月来ただけで貰いました。「センセイハエライヒト」と称えてくれました。