![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/79/799b25d751b5c1d67f1cc91408da367b.jpg)
*本日のラインアップは以下の通りです。
1.『日本史の参謀たち』奈良本辰也。
2.『文学部唯野教授』筒井康隆。
3.『岸 信介』原 彬久。
4.『日本学事始』梅原 猛。
5.『NHK受信料拒否の論理』本多勝一。
6.『共同幻想論』吉本隆明。
1.天山文庫。88年刊。
江戸時代というと、周期的に飢饉と幕府財政の逼迫が訪れているが、その度にやれ『寛政の改革』だとか『天保の改革』だとかが打ち出されて、今の我々は歴史の勉強をさせられるわけだが、では実際に彼ら改革者たちは何をしたかというと、とにかく幕府には(藩政の改革なら藩には)金がないのであって逆立ちしたって「無い袖は振れない」わけであるから、出来ることと言えば質素・倹約を旨として贅沢を戒め、取引の豪商たちには実情を告白して支払いの延期・先送りを拝み倒し、更には踏み倒しまで行い、一方農民らには更なる増税を課してなんとか窮状を逃れることだけだったわけである。「生産の拡大」と言っても江戸期は気候学的には寒冷期にあって、冷害の惨禍と無縁たり得ることは絶えてなかった。大自然相手の生産に直接携わることなく、言ってしまえば、右のものを左に動かすだけで利鞘を稼ぐことの可能な商人たちだけが常に勝者たり得るのが封建制社会なのである。・・とまあ、そんなことをあれこれ妄想しながら、この本は2/3程まで読んでいる。w
2.私の乏しい読書遍歴を辿ってみると、筒井康隆はどうやら私より一回り若い友人の薦めに乗って読み始めたような気がする。今から20年と少し前のことで、大江健三郎を読むのを止めた時期とほぼ重なるかも知れない。手当たり次第に初期のドタバタもの(←スラップスティックと言った)を漁ったが、と言って期間はそんなに長くは続かなかったから、彼がいろんな賞を貰ったのも知らなかったし、開放同盟に「糾弾」されて一時断筆していた経緯も知らない。(←あれ?てんかんの問題で断筆したの?!)
cf.関西大学『人権問題研究室紀要』29号、1994年4月
でも、この人の小説はやはり面白い。鬼才である。ちょっと常識にかからない実験的小説を書く。
今や『時をかける少女』は新人女優の登竜門としての位置を占めているかの如くだが、この『唯野教授』にしても、確かに「小説」としての体裁は僅かに保っているだけかも知れないが、逆に「映画」になら立派になるんじゃないかと私は思っている。w
3.岩波新書である。今もそうだろうけど、岩波の本というのは返品無用の買取制だったから、私の田舎の一番大きな本屋にも、新書も文庫もパラフィン紙のカバーが処々破れ、変色している古いものしか置いてなかった。私などは中学高校の頃たまに東京神田とかに出る機会があると、これでもかこれでもかと並べられている岩波新書や岩波文庫の書列にはただただ圧倒されたものである。
で、今を時めく若き宰相のお爺さんであらせられるわけだし、安部ポンが5歳のとき「安保反対!」のデモの真似をしたら「安保は国民のために必要なんだよ」と笑って諭したということらしいし、(はあ?)とにかく保守源流の研究を(?!)しようと思って、これを手始めに買ってはみたものの、まだ殆ど手付かずである。あっちゃ~っ。
ところで、私は60年安保闘争の頃は小学校高学年だったが、私たちも休み時間には校庭に出て「安保反対」のデモごっこに興じていたのである。私の仲間たちは「安保反対!岸辞めろ!」の掛け声を捩って「安保・反対!キス止めろっ!」を唱和しながら隊列を組んで校庭をデモしていたものである。曰く「岸総理大臣じゃなくて、キス総理大臣だ!きゃははっ!」という具合である。
ときに警職法が改正されて夜間公園等でのデートにも規制がかかるやも知れぬ状況だったというから、今思えばこの「キス止めろっ!」はなかなか当意即妙の趣きが感じられるが、当時の私たちには当然ながら安保の意味などわかっていなかった。笑。
4.この先生には『隠された十字架』以来いろいろ教わっている。w純然たる?学問の世界で、どうなんだろう、この先生がどれだけオーソリティがあるのか知らないが、『水底の歌』の人麻呂流刑水死説にしろこの法隆寺=聖徳太子怨霊鎮魂の寺・説にしろ、「わっ、わっ、すげえっ!何なんだ、この人は!」と随分引き摺られて読み耽ったものである。あまり真面目腐った論文なんかに食いつくことはまずあり得ない私だが、梅原先生の本は推理小説みたいで面白いから、古代史というものが生きた人間のドラマとして我々の想像力を刺激して来るのだよ、明智くん。
それでこれは集英社文庫版で、冒頭が上山春平先生との対談になっていてこれも興味深いものがある。でもまだ30ページくらいしか読んでない。あちゃ。
5.この人は随分過激な人である。こんなふうでよく朝日新聞の記者が勤まったものだと呆れてしまう。この人と比べたら私の「悪口・罵詈雑言」などまだまだ磨き方が足りないし、レベルが低い。
NHKに対する不満が爆発して不払い運動が活性化したのはつい最近のことだが、本多さんは既にヴェトナム戦争の頃から痛烈にNHK批判を展開し「受信料不払いの家」なるステッカーまで作って玄関に貼っていたことなどが今更ながら想い起こされる。NHKは良い番組もやらないことはないが(!)政治的には全くの体制護持勢力として機能している。局内には自民党の太鼓持ちみたいな連中がさぞかしうようよしていることだろうと想像される。
NHK労組にも、官公労同様、正直言って私はあまり良い印象は抱いていない。 言ってしまえば彼らは「労働貴族」であっていわゆる「労働者」という感じがしないのである。第一、正規職員らの平均給与が高過ぎるではないか。「年金」や「税金」同様「受信料」も勝手に徴収させているとろくなことにはならない。
で、この「労働者」という言葉自体も今の私は好まない。吉本の言う「大衆の原像」という言葉もひっかかる。「大衆」という言葉が相手を見下しているようで嫌いなのだ。
「一般市民people」を指し示す適切な日本語語句が見つからないので仕方なしに「普通の人の普通の生活」という言葉をしばしば使っている。
6.角川文庫版である。これが出た頃は「吉本もついに文庫本になったか」と私の周囲は苦笑?させられたものだが、今改めてパラパラ読んでみると、本文はともかくとして、前後の幾つかの序文と解題及び解説に妙味があった。
中でも本人の文庫版のための序文と中上健二による解説が出色だった。
中上と言えば或る夜、酔って埴谷さんに電話して「お前なんか殺してやる!」と怒鳴ったところ、埴谷さんには例の団十郎張りの美声で「馬鹿野郎!俺はお前に殺されるためにこれまで生きて来たんじゃないっ!」と反撃されたという逸話がある。
で、吉本三部作と言えば『言語にとって美とは何か』『共同幻想論』『心的現象論序説』ということになっていて、以後の彼の膨大な著作は全てこれら三作を補強するために費やされたと言ってもあながち言い過ぎとも思われない。
吉本を論じたり批判したりした著作も驚く程多いが、私は殆ど読んだことがない。吉本の問題点は自分で朧げながらもわかっているつもりなので、意地を張って(かどうか?)手に取らないよう努めているのである。
吉本自身はせいぜいがところ数千人の人を対象に発言していると自分でも言っているように、つまりは『試行』の読者こそが吉本の本当の対象なのだろうと私は理解している。
それと、「口を開けば『ヨシモト、ヨシモト』と言っているような連中は嫌いだ」と彼は言うのだが、吉本シンパの連中というのは熱狂的な人ばかりで、これは新興宗教の狂信者と大差ないのではないかと、実は私は密かに思っているのである。『吉本隆明ワールド』の彼もこの範疇にぴったり納まっている。私自身も最近「ヨシモト」「ハニヤ」を引用することが多過ぎるようなので、これは大いに自戒する必要がある。自分の言葉で語るのは凡人には本当に困難である。w
1.『日本史の参謀たち』奈良本辰也。
2.『文学部唯野教授』筒井康隆。
3.『岸 信介』原 彬久。
4.『日本学事始』梅原 猛。
5.『NHK受信料拒否の論理』本多勝一。
6.『共同幻想論』吉本隆明。
1.天山文庫。88年刊。
江戸時代というと、周期的に飢饉と幕府財政の逼迫が訪れているが、その度にやれ『寛政の改革』だとか『天保の改革』だとかが打ち出されて、今の我々は歴史の勉強をさせられるわけだが、では実際に彼ら改革者たちは何をしたかというと、とにかく幕府には(藩政の改革なら藩には)金がないのであって逆立ちしたって「無い袖は振れない」わけであるから、出来ることと言えば質素・倹約を旨として贅沢を戒め、取引の豪商たちには実情を告白して支払いの延期・先送りを拝み倒し、更には踏み倒しまで行い、一方農民らには更なる増税を課してなんとか窮状を逃れることだけだったわけである。「生産の拡大」と言っても江戸期は気候学的には寒冷期にあって、冷害の惨禍と無縁たり得ることは絶えてなかった。大自然相手の生産に直接携わることなく、言ってしまえば、右のものを左に動かすだけで利鞘を稼ぐことの可能な商人たちだけが常に勝者たり得るのが封建制社会なのである。・・とまあ、そんなことをあれこれ妄想しながら、この本は2/3程まで読んでいる。w
2.私の乏しい読書遍歴を辿ってみると、筒井康隆はどうやら私より一回り若い友人の薦めに乗って読み始めたような気がする。今から20年と少し前のことで、大江健三郎を読むのを止めた時期とほぼ重なるかも知れない。手当たり次第に初期のドタバタもの(←スラップスティックと言った)を漁ったが、と言って期間はそんなに長くは続かなかったから、彼がいろんな賞を貰ったのも知らなかったし、開放同盟に「糾弾」されて一時断筆していた経緯も知らない。(←あれ?てんかんの問題で断筆したの?!)
cf.関西大学『人権問題研究室紀要』29号、1994年4月
でも、この人の小説はやはり面白い。鬼才である。ちょっと常識にかからない実験的小説を書く。
今や『時をかける少女』は新人女優の登竜門としての位置を占めているかの如くだが、この『唯野教授』にしても、確かに「小説」としての体裁は僅かに保っているだけかも知れないが、逆に「映画」になら立派になるんじゃないかと私は思っている。w
3.岩波新書である。今もそうだろうけど、岩波の本というのは返品無用の買取制だったから、私の田舎の一番大きな本屋にも、新書も文庫もパラフィン紙のカバーが処々破れ、変色している古いものしか置いてなかった。私などは中学高校の頃たまに東京神田とかに出る機会があると、これでもかこれでもかと並べられている岩波新書や岩波文庫の書列にはただただ圧倒されたものである。
で、今を時めく若き宰相のお爺さんであらせられるわけだし、安部ポンが5歳のとき「安保反対!」のデモの真似をしたら「安保は国民のために必要なんだよ」と笑って諭したということらしいし、(はあ?)とにかく保守源流の研究を(?!)しようと思って、これを手始めに買ってはみたものの、まだ殆ど手付かずである。あっちゃ~っ。
ところで、私は60年安保闘争の頃は小学校高学年だったが、私たちも休み時間には校庭に出て「安保反対」のデモごっこに興じていたのである。私の仲間たちは「安保反対!岸辞めろ!」の掛け声を捩って「安保・反対!キス止めろっ!」を唱和しながら隊列を組んで校庭をデモしていたものである。曰く「岸総理大臣じゃなくて、キス総理大臣だ!きゃははっ!」という具合である。
ときに警職法が改正されて夜間公園等でのデートにも規制がかかるやも知れぬ状況だったというから、今思えばこの「キス止めろっ!」はなかなか当意即妙の趣きが感じられるが、当時の私たちには当然ながら安保の意味などわかっていなかった。笑。
4.この先生には『隠された十字架』以来いろいろ教わっている。w純然たる?学問の世界で、どうなんだろう、この先生がどれだけオーソリティがあるのか知らないが、『水底の歌』の人麻呂流刑水死説にしろこの法隆寺=聖徳太子怨霊鎮魂の寺・説にしろ、「わっ、わっ、すげえっ!何なんだ、この人は!」と随分引き摺られて読み耽ったものである。あまり真面目腐った論文なんかに食いつくことはまずあり得ない私だが、梅原先生の本は推理小説みたいで面白いから、古代史というものが生きた人間のドラマとして我々の想像力を刺激して来るのだよ、明智くん。
それでこれは集英社文庫版で、冒頭が上山春平先生との対談になっていてこれも興味深いものがある。でもまだ30ページくらいしか読んでない。あちゃ。
5.この人は随分過激な人である。こんなふうでよく朝日新聞の記者が勤まったものだと呆れてしまう。この人と比べたら私の「悪口・罵詈雑言」などまだまだ磨き方が足りないし、レベルが低い。
NHKに対する不満が爆発して不払い運動が活性化したのはつい最近のことだが、本多さんは既にヴェトナム戦争の頃から痛烈にNHK批判を展開し「受信料不払いの家」なるステッカーまで作って玄関に貼っていたことなどが今更ながら想い起こされる。NHKは良い番組もやらないことはないが(!)政治的には全くの体制護持勢力として機能している。局内には自民党の太鼓持ちみたいな連中がさぞかしうようよしていることだろうと想像される。
NHK労組にも、官公労同様、正直言って私はあまり良い印象は抱いていない。 言ってしまえば彼らは「労働貴族」であっていわゆる「労働者」という感じがしないのである。第一、正規職員らの平均給与が高過ぎるではないか。「年金」や「税金」同様「受信料」も勝手に徴収させているとろくなことにはならない。
で、この「労働者」という言葉自体も今の私は好まない。吉本の言う「大衆の原像」という言葉もひっかかる。「大衆」という言葉が相手を見下しているようで嫌いなのだ。
「一般市民people」を指し示す適切な日本語語句が見つからないので仕方なしに「普通の人の普通の生活」という言葉をしばしば使っている。
6.角川文庫版である。これが出た頃は「吉本もついに文庫本になったか」と私の周囲は苦笑?させられたものだが、今改めてパラパラ読んでみると、本文はともかくとして、前後の幾つかの序文と解題及び解説に妙味があった。
中でも本人の文庫版のための序文と中上健二による解説が出色だった。
中上と言えば或る夜、酔って埴谷さんに電話して「お前なんか殺してやる!」と怒鳴ったところ、埴谷さんには例の団十郎張りの美声で「馬鹿野郎!俺はお前に殺されるためにこれまで生きて来たんじゃないっ!」と反撃されたという逸話がある。
で、吉本三部作と言えば『言語にとって美とは何か』『共同幻想論』『心的現象論序説』ということになっていて、以後の彼の膨大な著作は全てこれら三作を補強するために費やされたと言ってもあながち言い過ぎとも思われない。
吉本を論じたり批判したりした著作も驚く程多いが、私は殆ど読んだことがない。吉本の問題点は自分で朧げながらもわかっているつもりなので、意地を張って(かどうか?)手に取らないよう努めているのである。
吉本自身はせいぜいがところ数千人の人を対象に発言していると自分でも言っているように、つまりは『試行』の読者こそが吉本の本当の対象なのだろうと私は理解している。
それと、「口を開けば『ヨシモト、ヨシモト』と言っているような連中は嫌いだ」と彼は言うのだが、吉本シンパの連中というのは熱狂的な人ばかりで、これは新興宗教の狂信者と大差ないのではないかと、実は私は密かに思っているのである。『吉本隆明ワールド』の彼もこの範疇にぴったり納まっている。私自身も最近「ヨシモト」「ハニヤ」を引用することが多過ぎるようなので、これは大いに自戒する必要がある。自分の言葉で語るのは凡人には本当に困難である。w