本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

映画『バック・トゥ・ザ・フューチャーⅡ』.

2014-06-22 10:23:28 | 
 昨日は映画『バック・トゥ・ザ・フューチャーⅡ』を見た。S・スピルバーグ監督作品である、と思っていたが、ウィキペディアには彼は製作総指揮で、監督兼脚本はロバート・ゼメキスという人物だと書いてあった。
 ともあれこのS・スピルバーグ監督はユダヤ系アメリカ人で、エンタメ系に徹した作品を作る監督であり、見ていて何か為になるようなことは一つもないと言っていい。
 映画なんて単なる娯楽だ。時間潰しだ。楽しけりゃいいじゃないか。毎日こっちは嫌なことばかりで、瞬間笑い飛ばしてしまえるような息抜き、束の間の開放感が欲しいだけだ。いちいちああだこうだと御託を並べ屁理屈を並べ上げるのはお暇な評論家さんたちに任せておいて、こちらは今のこの瞬間をはらはらどきどき、あるいはゲハゲハしていられればそれでいいんだ。充分さ・・・とまあ、そういった娯楽志向の(つまりは大多数の)映画ファンにはお誂え向きの超娯楽大作を何本も連続して平然と作り上げ、実際世界中から多数の観客を動員してしまう実力者である。

 で、「だからどうした?」という話になる。

 私はこの映画は「あ、転換だけだな」と見ていて思った。《転換》というのは吉本用語で、彼は文学作品の要素を《価値》《転換》《喩》に分類し諸書の作品を分析して彼独自の文学論を展開しているのであるが、《価値》というのは言葉の持つ実質的な重さ、《転換》というのは「次はこれ」「次はあれ」と目先を次々に変じて行く手法、つまりは方法論、技巧の問題である。云わば「指示表出」の束、累積が《転換》の本質である。

 最後の《喩》とは即ち《明喩》であり《暗喩》であるわけだが、これが難解と言えば難解なのである。実質ある言葉の的確な累積によってのみ醸造されて来る情況というか世界というか、そんなところだろうが、吉本本人はこの《喩》を一番高度な文学的指標としている。
 ここに「映画には文法はない」とする頑迷な人たちもいるが、私は逆に《文学》を読み解く手法で《映画》をも明快に読み解けると考えるものであるから、そのような雑音に惑わされることなどない。

 それでこの映画だが、見終わって何か残ったかと訊かれても、私には語るべき何ものもない。矢鱈騒々しかったなという印象しかないのである。

バックトゥザフューチャー パート2』ダイジェスト←クリック。


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