本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

2011年日本映画:「CUT」映画のために死ね。

2014-08-19 14:40:50 | 
 映画のために死ね
世界が絶賛!!人気実力NO.1俳優、西島秀俊が体当たりで挑んだ意欲作!

製作: 2011年/日本
監督: アミール・ナデリ
出演: 西島秀俊、常盤貴子
再生時間: 120分

秀二は映画監督。兄が残した莫大な借金を返すため、殴られ屋を始める。殴られる度に名作映画を想い浮かべ、何度殴られても映画への愛情が秀二をふたたび立ち上がらせる。何故そこまでできるのか。この試練を乗り越えることで愛する映画を救おうとしているのだろうか。
(C)CUT LLC 2011
cf.『CUT』オフィシャルサイトには表紙に以下の記述があった。。 ↓

第68回ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ・コンペティション部門のオープニング作品としてワールド・プレミア上映され、10分に及ぶスタンディングオベーションで熱狂的に迎えられた『CUT』。上映に立ち会った主演の西島秀俊は「満席のお客さんに受け入れてもらえて感無量」と感慨を隠さず、常盤貴子も「賛辞の言葉をいただけ、本当にうれしい」と喜びを語った。そして、オープニング上映の噂を聞きつけた映画ファンが殺到し、3回目の上映では100人以上が溢れ、急きょ4度目の上映を組むという異例の事態になった。
映画祭のプログラマー、メディアも『CUT』の熱気に注目し、様々な媒体で賞賛記事が並ぶとともに、映画の真実を問う本作の内容に論議を呼び話題となった。

名作の数々に彩られた映画への愛情に溢れた映画『CUT』 本作が現在の映画界に一石を投じる!

秀二は愛する映画を守るため、世界にたった一人で立ち向かう。まるで『タクシー・ドライバー』のトラヴィスのように、『許されざる者』のマニーのように。“この世界を正すため”、世界に戦いを挑むのだ。
自分が信じる“映画”のために命をも投げ出す秀二のように、自分が愛するなにかのためにここまでできるだろうか。
小津安二郎、溝口健二、新藤兼人、黒澤明、ロベール・ブレッソン、バスター・キートン、ジョン・フォード、オーソン・ウェルズといった巨匠たちの作品へのリスペクトを込めつつ、数多くの名作を引用し、現在の日本が、世界が失ってしまったかもしれない「映画愛」をとり戻すための物語。
主人公・秀二はトラメガで叫ぶ。「映画は真に娯楽であり、芸術である!」。いま、その“映画の真実"が崩れ去ろうとしている。それを食い止めるため、映画界に一石を投じるのが『CUT』なのだ。

主演、西島秀俊とアミール・ナデリ監督 運命の出会いが生んだ奇跡の作品

ナント三大陸映画祭で2度のグランプリに輝いたほか、カンヌ、ヴェネチアなどの国際映画祭で作品を発表し続けているアミール・ナデリ。イラン出身でキアロスタミ作品に脚本を提供するなど、イラン映画界のニューウェーブとして注目された後、現在はNYに拠点を移して活躍している世界的名匠である。
秀二を演じるのは映画・テレビドラマと活躍が目覚ましい西島秀俊。自身も熱心な映画ファンである西島が2005年のTOKYO FILMeXで審査員としてナデリ監督と出会ったことからこの企画は始動した。元から温めていた企画であった『CUT』を演じるにふさわしい俳優との出会いにナデリ監督は興奮し、「おまえは俺と映画を作る運命にある!」と告げた。その監督の期待に西島は全身全霊をかけて応え、その結果に「僕の俳優人生は『CUT』前と『CUT』後で変わる」とまで言いきる。
秀二をとりまく人々を演じる俳優にも豪華な顔ぶれが揃った。日本映画のみならず海外作品、テレビドラマと輝き続ける常盤貴子がヤクザの世界で働く女・陽子に扮しこれまでのイメージを一新、日本映画に不可欠な俳優・笹野高史が秀二を見守るヤクザ・ヒロシを熱演する。また、でんでん、菅田俊、鈴木卓爾ら、いぶし銀の名優たちが脇を固め、作品に奥行きを与えている。
秀二は映画監督。兄が遺した莫大な借金を返すため、陽子とヒロシを巻き込みながら、殴られ屋をしている。殴られるたびに名作映画を想い浮かべる秀二。何度殴られても、映画への愛情が秀二をふたたび立ち上がらせる。何故、そこまでできるのか。この試練を乗り越えることで愛する映画を救おうとしているのだろうか……。
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cf.予告篇

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 最近私にはいよいよ見るべき映画が枯渇して来たという印象で、これまでタイトルやあらすじだけで敬遠していたものを(仕方無しに?)拾って見ることにしている。この「食わず嫌い」というのも良し悪しで、映画というものにも公開されたからには一定程度の「水準」は確保されているのだろうから、こちらは金を払って見に出掛けているわけではないのだから、文句を言わずに黙って見ていればいいのだと思う。(どうせ単なる時間潰しなのだから!)私には前評判もへったくれもあったものではない。

 見ていて昔「クソゲー」(←面白くないゲームのことを指すマニア間での俗語)という言葉があったことなどを思い出した。
 この映画の設定やストーリー展開には土台大きな無理があって、主人公・西島秀俊も相手役の常盤貴子も好演という程ではなく、私は「クソゲー」になぞらえて「クソ映」という言葉を進呈したいくらいに感じた。何回も繰返される「映画は売春じゃない。芸術だ」という言葉も「あったりまいじゃねえか」と私は言いたい。我々は、映画は音楽も芝居も映像も全てが一括して動員される「総合芸術」だと教えられた世代である。黒澤映画のロケ地選択から書割、室内の描写、小道具の一つ一つに至るまでが「芸術だ!」と絶賛された時代もあるのだ。
 作中「今の映画は娯楽作品ばかりだ」という台詞も繰返されるが「全てが金目の世の中」だから、提供する側は観客を動員出来る作品しか造らせて貰えない。それでスティルバーグだとか何だとかが持て囃される商業主義全盛の時代になっているわけだ。創る側は「それのどこが悪い?!」と開き直るだろう。

 作品の中で細切れに引用された数々のトーキー・無声映画は昔からの名作のオン・パレードだったが、それらには最早観客を劇場にまで動員出来る「神通力」などは微塵も備わっていないのである。自分で「作品」を創出出来ない者は、ただただ提供された作品群の中に埋もれて行くしかないのだ。


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