ローマ法王、「ハリー・ポッター」に批判的見解 (ロイター) - goo ニュース
*ハリ・ポタ作者に独占取材=14歳少年 2005年 7月11日 (月) 22:28はここ→です。
*挿絵をクリック!
挿絵中、♪の~こえやぁまこえ♪というのは往年のNHKラジオドラマ=新諸国物語『笛吹き童子』の主題歌です。
以下はマタイによる福音書・連続説教 79「何を見るか」からの引用です。↓
●聖書 マタイによる福音書11章16~19
今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
*今度は『オリヴの園1』からの引用です。長いよ。↓
《笛吹けど踊らず-聖書に基づく諺 No.3》
最近の日本は改革づくし。古くは行政改革に始まり、現在では司法制度改革や大学改革と私たちにも火の粉は降りかかっております。往々にして、この手の制度改革は「総論賛成・各論反対」という世の中の、とくに改革される機構内部の抵抗に遭い、なかなかうまく事が運ばないものです。そういうときの記者会見の席で改革の旗手に立った人が漏らす言葉が、この「笛吹けど踊らず」です。「今こそ改革の好機であり、よく練られた改革案であったにもかかわらず…」という言い方で、改革反対派を批判するわけです。ただ、改革の旗手は世論や政界・財界の支持を得ているため、反対派も、「このような改革も一時凌ぎのカンフル剤に過ぎない。抜本的な改革こそ必要だ」と露骨に反対するわけにもいかず、実効性の薄い改革案を実行に移すために汗水を流していることも多いのです。とにかく、この言葉もまた聖書(ルカ伝7:32)に基づいています。
この言葉は、イエスがこの時代(generation)を「市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたち」に譬(たと)えていった言葉です。「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった」。これは、結婚式ごっこをしようと言ったのに断られた子どもたちのセリフです。「弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった」。これは葬式ごっこを断られた子どもたちのセリフです。どうしてこのような譬(たと)えになるのか、イエスは説明します。この世の人は、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ(洗礼)を説いたバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネあるいは洗者ヨハネとも言われます)を「あれは悪霊につかれている」と言って変人扱いし、反対に、イエス(=人の子)に対しては、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言って低俗な罪人扱いをする。まさに、それに似ていると言うのです。
この譬えはどことなく妙です。いったい「笛を吹いている人々」や「弔いの歌を歌っている人々」は誰なのでしょう。この譬えでは子どもたちです。子どもたちのあるグループが他のグループに向かって「君たちは結婚式ごっこをやろうとしなかった」と言い、反対に他のグループは「君たちは葬式ごっこをやろうとしなかった」と言います。ところが、バプテスマのヨハネに対しても、イエスに対しても、「あなたがた」は何かの難癖をつけて正当に扱っていないのです。ヨハネが悔い改めを説いたとき、なぜ従わなかったのか?、イエスが福音を説いたとき、なぜ喜ばなかったのか?、という叱責として捉えるべきかも知れません。しかしながら、譬えの中心は、この二つのグループの「子どもたち」全員が「この時代の人々」に似ていることなのです。いったい子どもたちは何をしていたのでしょう。遊ばなかった原因は相手方にあると互いに責め合っていたことが問題なのでしょうか?。もちろん、そのようにとることも可能です。
しかし、イエスの視線は別のところ、つまり、何もしていなかったことに向けられていたのではないでしょうか。ここ(この譬えの場所)は、雑踏でごった返している市場です。普通ならば、子どもたちは(大人たちの迷惑をも顧みず)大声で遊ぶところです。なのに、座ったままで、むくれている子どもの姿、妙に物知り顔で理屈を並べ立てる子どもたちの姿、それが「この時代の人々」だと言うのです。「自分たちの好みに合わせた遊びを用意してくれない限り遊んでやるものか」と言う子どもたち。イエスは、そのように、自分たちに都合の良いことだけを言ってくれる「教師」(Ⅱテモテ書4:3参照)にしか従うことのない人間の姿を鋭く見抜いていました。それはまるで、自分の思うがままに神を、宗教を、そして世界をコントロールするのでなければ気が済まない人間の姿でもあります。そのような人間の理屈=「世の知恵」を、神は愚かなものとしました(Ⅰコリント書1:19- 20参照)。このストーリーの終わりで、イエスは「知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します」と語ります(ルカ伝7:35)。子どもたちの人気投票によってではなく、本当の意味で楽しい遊びが与えられれば、子どもたちは挙って集まってきて遊ぶはずです。本当の「遊び」を与えられた人々=神に召された者たちはみな、人の知恵よりも優れた神の知恵を証明すると聖書は主張します。(Ⅰコリント書1:24-25参照)。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのです」(コロサイ書2:3)と書かれているとおりです。
次も新規投稿だよ!↓
*ハリ・ポタ作者に独占取材=14歳少年 2005年 7月11日 (月) 22:28はここ→です。
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挿絵中、♪の~こえやぁまこえ♪というのは往年のNHKラジオドラマ=新諸国物語『笛吹き童子』の主題歌です。
以下はマタイによる福音書・連続説教 79「何を見るか」からの引用です。↓
●聖書 マタイによる福音書11章16~19
今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
*今度は『オリヴの園1』からの引用です。長いよ。↓
《笛吹けど踊らず-聖書に基づく諺 No.3》
最近の日本は改革づくし。古くは行政改革に始まり、現在では司法制度改革や大学改革と私たちにも火の粉は降りかかっております。往々にして、この手の制度改革は「総論賛成・各論反対」という世の中の、とくに改革される機構内部の抵抗に遭い、なかなかうまく事が運ばないものです。そういうときの記者会見の席で改革の旗手に立った人が漏らす言葉が、この「笛吹けど踊らず」です。「今こそ改革の好機であり、よく練られた改革案であったにもかかわらず…」という言い方で、改革反対派を批判するわけです。ただ、改革の旗手は世論や政界・財界の支持を得ているため、反対派も、「このような改革も一時凌ぎのカンフル剤に過ぎない。抜本的な改革こそ必要だ」と露骨に反対するわけにもいかず、実効性の薄い改革案を実行に移すために汗水を流していることも多いのです。とにかく、この言葉もまた聖書(ルカ伝7:32)に基づいています。
この言葉は、イエスがこの時代(generation)を「市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたち」に譬(たと)えていった言葉です。「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった」。これは、結婚式ごっこをしようと言ったのに断られた子どもたちのセリフです。「弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった」。これは葬式ごっこを断られた子どもたちのセリフです。どうしてこのような譬(たと)えになるのか、イエスは説明します。この世の人は、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ(洗礼)を説いたバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネあるいは洗者ヨハネとも言われます)を「あれは悪霊につかれている」と言って変人扱いし、反対に、イエス(=人の子)に対しては、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言って低俗な罪人扱いをする。まさに、それに似ていると言うのです。
この譬えはどことなく妙です。いったい「笛を吹いている人々」や「弔いの歌を歌っている人々」は誰なのでしょう。この譬えでは子どもたちです。子どもたちのあるグループが他のグループに向かって「君たちは結婚式ごっこをやろうとしなかった」と言い、反対に他のグループは「君たちは葬式ごっこをやろうとしなかった」と言います。ところが、バプテスマのヨハネに対しても、イエスに対しても、「あなたがた」は何かの難癖をつけて正当に扱っていないのです。ヨハネが悔い改めを説いたとき、なぜ従わなかったのか?、イエスが福音を説いたとき、なぜ喜ばなかったのか?、という叱責として捉えるべきかも知れません。しかしながら、譬えの中心は、この二つのグループの「子どもたち」全員が「この時代の人々」に似ていることなのです。いったい子どもたちは何をしていたのでしょう。遊ばなかった原因は相手方にあると互いに責め合っていたことが問題なのでしょうか?。もちろん、そのようにとることも可能です。
しかし、イエスの視線は別のところ、つまり、何もしていなかったことに向けられていたのではないでしょうか。ここ(この譬えの場所)は、雑踏でごった返している市場です。普通ならば、子どもたちは(大人たちの迷惑をも顧みず)大声で遊ぶところです。なのに、座ったままで、むくれている子どもの姿、妙に物知り顔で理屈を並べ立てる子どもたちの姿、それが「この時代の人々」だと言うのです。「自分たちの好みに合わせた遊びを用意してくれない限り遊んでやるものか」と言う子どもたち。イエスは、そのように、自分たちに都合の良いことだけを言ってくれる「教師」(Ⅱテモテ書4:3参照)にしか従うことのない人間の姿を鋭く見抜いていました。それはまるで、自分の思うがままに神を、宗教を、そして世界をコントロールするのでなければ気が済まない人間の姿でもあります。そのような人間の理屈=「世の知恵」を、神は愚かなものとしました(Ⅰコリント書1:19- 20参照)。このストーリーの終わりで、イエスは「知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します」と語ります(ルカ伝7:35)。子どもたちの人気投票によってではなく、本当の意味で楽しい遊びが与えられれば、子どもたちは挙って集まってきて遊ぶはずです。本当の「遊び」を与えられた人々=神に召された者たちはみな、人の知恵よりも優れた神の知恵を証明すると聖書は主張します。(Ⅰコリント書1:24-25参照)。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのです」(コロサイ書2:3)と書かれているとおりです。
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