むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「6」 ③

2024年09月23日 08時10分40秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・それで何十日ぶりかで、
家に帰ったとき、
則光の顔を見て思ったのは、

(この男は、
夫ではなく肉親になった)

ということである

兄か弟か、
血のつながった従兄ぐらいの、
感覚で、則光の方も、
そうらしかった

「うまくやっていけそうか」

「ええ、うまくやっていけそう
あたし、やっぱり向いているのかも
ああいう職場に」

私は初めて出仕した日の、
気おくれや萎縮、
ひるみも忘れて今は、
挑む心地になっていた

「そりゃ、よかった
お前は口ほどもなく、
弱気のところがあるから、
泣き泣き帰ってくるんじゃないか、
と案じていたんだが・・・」

則光はまるで、
私の父か兄のような、
口ぶりでいう

小左京の君じゃあるまいし、
泣き泣き帰るはずは、
ないじゃないの

「いやわからない
お前は口でズケズケいうから、
気が強そうに見えるが、
案外、人がよくて、
気弱でもろいところがある」

「そうかしら」

「そうさ
だからおれなんかと、
十年もいた
それが証拠だ」

私は則光を、
正直なところ、
バカにしているのだが、
時々ふと耳を傾けさせる、
ようなことをいう

こいつはバカなのか、
かしこいのか、
よくわからない気に、
なるのである

「今度の新しい女は、
どうなの」

「これは全く、
なよなよとし目が離せない
そんなことはどうだっていい
ともかくお前の元気な顔を見て、
安心したよ」

子供たちは出ていて、
吉祥しか家にいなかった

新しく描いた絵を何枚も、
見せてくれた

虫や花、雀、鶏などの絵が、
多かった

虚弱な体質で、
頑健な兄たちのように、
外を走り廻れない彼は、
家の中で絵を描いているのが、
好きなのだろう

家にいると、
相変わらず人の出入りは、
多かった

日常の雑事が家にいる私に、
なだれ落ちてきて、
宮仕えの疲れを、
やすめるどころでは、
なかった

私はたまらず、
私自身の持ち物である、
三條の小さい邸へ行った

浅茅たちがきれいに、
掃除をしてくれていたが、
人住まぬ邸はどことなく、
荒廃のすがたになっている

もっともここには、
左近という古女房がいて、
留守を守ってくれている

私はそこでゆっくり、
横になった

一人きりで

(ああ、一人というのは、
なんといいものだろう
弁のおもとのような、
生活になったわ)

と思った

父母を亡くして、
一人になった弁のおもとが、
貴子の上のもとから、
里下りするとき、
こういう風に、
のびのびと手足をのばし、
身心をくつろがせているだろう、
と思われた

しかし、
私と弁のおもとでは、
条件が違う

私にはまだ、
則光や彼の家がある

そこにいようと思えば、
いつでも帰って身をすくめる、
穴がある

しかし、
弁のおもとは、
そういうものを持っていない

いろいろ秘密めかしい、
心そそる男たちを、
人知れず持っているかも、
しれないが、
それは決して、
安全な籠り穴ではないはず

そこへくると私は、
自分がその気になれば、
宮仕えをやめて、
安全な穴へもぐりこめるのだ

則光とは、
身内のような感じになって、
一生つきあっていけるだろうし、
死に場所はあるわけ

弁のおもとの、
孤独と裏合わせになった、
「死ぬほど強い自由感」は、
私にはまだなかった

三條の小さい邸で、
私はやっと自分を、
取り戻した

則光のもとでも、
御所の中でも、
得られない平静さを、
取り戻した

もはや私は、
宮仕えの疲れをいやすのに、
則光のところより、
三條邸の一人の時間を、
選ぶだろう






          


(次回へ)

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