・関白の宣旨が、
道長の君に下りたことは、
私は経房の君に聞いた
主上(一条帝)は、
道長の君に宣旨を下されることは、
中宮のおんためを考えられて、
渋られたらしい
さきに父大臣を亡くされ、
今、道長の君の天下になれば、
中宮のお立場はどんなに苦しく、
なろうかと思われ、
ためらわれていたという
といって、
中宮の兄君・伊周(これちか)、
の君に下そうとすれば、
母后の詮子女院のご機嫌がお悪い
「なぜ、
ああいう人望のない、
稚児のような人を選ばれるのですか
関白といえば天下を統べ、
百官をひきいる力量のある、
人でなくてはなりません
あの伊周ごときに、
その器量があるとは、
義理にもいいにくい
それは主上もよくご存じのはず」
と面と向かっていさめられる
父帝の円融帝とは縁うすく、
母后と密着して育たれた主上は、
いまも母后のいわれることに、
抗えない性質でいらっしゃる
何といっても、
伊周の君やそのご兄弟とは、
中宮の縁につながって、
主上はむつんでこられた
若々しい兄妹と楽しく暮らされた、
数年は孤独な年少の帝には、
かけがえのない思い出だった
とくに伊周の君は、
主上の学問の師でもあり、
趣味を同じくする友人でもあった
しかしそれと、
政治実務は別の次元だと、
主上は心得ていられる
伊周の君では、
宮中はじめ天下の人々が、
ついてこないのではないか、
というご判断があって、
それが主上のご躊躇の原因に、
なっている
主上は柔軟な考えの方だった
といって、
すぐ道長の君を用いることは、
中宮に心苦しい、
そういうお気持ちであろう
ついに女院は、
ご自身で御局に押しかけて、
こられた
主上が寝室の御殿に入られると、
ついて入ってつきまとい、
泣く泣く説得された
「どうして道長に、
宣旨を下すのを、
お渋りになります
伊周があの若さで、
道長を越えて内大臣になったとき、
私は道長が可哀そうで、
なりませなんだ
でもそれは、
その頃まだ生きていた道隆が、
無理やり取り計らったこと
そのため、
道隆は世の中の秩序を乱し、
人望を失いました
でも、今は違います
今こそ道理にしたがって、
ご叡慮をお示しなさいませ
道兼の大臣に関白を、
命じられた以上、
道長にもお下しにならなければ、
本人が気の毒というより、
主上のおんために、
かんばしからぬ評判が立ち、
世の人も承服いたしかねる、
ことと存じます」
このとき、
道長の君は参内して、
上の御局に控えていらした、
という
むろん、
女院がもたらされる吉報を、
待つためである
しかし女院は一刻たっても、
出て来られない
吉か?
狂か?
道長の君は不安で、
胸つぶれる思いで、
いられる
長い長い時間であった
御局の妻戸がさっと開き、
女院が姿をあらわされた
お顔は赤らみ、
涙で目は腫れていらっしゃるが、
お口元には快心の笑みが、
浮かんでいた
「ああ!
やっと宣旨が下りましたよ
道長どの、おめでとう!」
道長の君はものもいえず
床に額をすりつけていらしたという
「お礼の申しあげようも、
ありませぬ
道長、今日のご恩は一生、
一生、忘れません・・・」
と嬉し涙で声もつまる、
道長の君のお手をとられて、
女院はご満足この上なく、
「いいえ、
私の配慮など、
物の数ではありません
主上のご英断と、
前世の宿縁です
こうなるべき運命に、
あなたが生まれついていられた、
というだけのこと」
と、お気に入りの末弟を、
いとしそうにながめていられた
「久しぶりに私も今夜は、
ゆっくり眠れそうな気が、
いたします」
と女院は嬉しそうにいわれたとか
「道長の君は?」
と聞くと、
経房の君は、
「年上の方に、
可愛がられる方でね
北の方・倫子の上の母君から、
お気に入りの婿として、
大事にされるし、
女院からは可愛い弟のためなら、
と肩入れされるし、
おとくな方でいらっしゃる
そこへくると、
伊周の君は中宮の縁続きで、
損をなさった
主上のご寵愛が、
あまりにもあついため、
中宮は女院に嫉妬されて、
そのはね返りが伊周の君にも、
かかったというところ」
経房の君は、
明快に分析する
「少納言はどう思う?
嫁と姑として見れば、
女院が息子の嫁に嫉妬なさる、
ということもあるだろ?
いくらやんごとない、
雲の上人でも、
人情は変らないだろうし」
「変わらないかしら?
上つ方はそういう下々とは、
同じ気持ちでいらっしゃらない、
と思っていたわ」
と私はいった
伊周の君に、
宣旨が下りないだろうことは、
私にも勘でわかっていた
女院は前世の宿縁、
といわれたそうだが、
世の中は水の流れみたいに、
低いところへ流れてゆく、
何かがあって、
それは昨日今日のことが、
その原因を作っているのではなく、
かなり長い時間をかけて、
そうなった、
という気がする
伊周の君お一人の、
責任ではなく、
父君の道隆公の経歴、
一生の事蹟、
それに母君の縁者に、
高階一族を持たれたこと、
それらがみな裏目になって、
出てしまった
高二位たちは、
いよいよ秘儀や祈祷に精だし、
「七日で死んだ人もいるのだ
今度だってどうなるかわからぬ
老法師がいる限り、
頼もしく思ってください」
と伊周の君にいっているそうだ
私は伊周の君に、
好意をささげ心寄せしながら、
しかし、運命をみすかす目は、
別の目である
一方、
経房の君も、
道長の君の義弟で、
しかも道長の君に愛され、
猶子となっている立場なのに、
道長の君を見る目は、
醒めていられる
醒めていながら、
道長の君を愛していられる
そういうところが、
私たちは似ていて、
互いにわかっているのかも、
しれない
(次回へ)