「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

1、姥ざかり ①

2025年01月24日 08時50分09秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・朝の8時ごろ電話が鳴った

私はまだ眠っていたから、
びっくりして目をさまし、
何ごとかしらと、
胸がドキドキした

こんなに朝早く

3人の息子のそれぞれの家で、
何かあったのかしら?

電話に出ると、
何のこと、亡夫の友人の細木氏であった

「お元気ですか、
しばらくご無沙汰しとったから、
今日、外へ出るついでに、
お宅へ伺おうと思いまして・・・」

何をのんきなこと、
いうてるねん

私はこの人の声を聞くたび、
いつもイライラする

「えらい、
朝早いんですねえ
8時ですよ、寝ていたんですよ」

「おや、
まだおやすみでしたか
そりゃあ、悪かったですな、
私は5時に起きるもんですから、
8時は真昼ぐらいの感じですわ

アハッハ・・・
歌子さん、
年よりにしては朝はゆっくりですな」

年よりとは何だ!
私は76歳であるが、
腰もしっかり伸び、
足は達者、
毛もふっさりあり、
白髪染めで染めているが、
歯も目も、
目は老眼鏡をかけるけれど、
不自由はしていない

亡夫と同い年の細木氏は80であるが、
見るからに老人くさく、
杖をついて歩き、
モッサリしたものを着、
話題といえば、
愚痴話か昔話

どうもあの爺さんは、
懐古趣味があるようだ

「今日はちょっと忙しくて、
これから出て夕方まで、
帰らないのですよ」

私は婉曲に断る

「でも、そのあとでも・・・」

「いいえ、
帰る時間がわからないもんですから、
すみませんねえ
この次にまた」

愛想よく断っておいた

この人は、
亡夫の十七回忌によんだあと、
連れ合いを亡くしたので、
急に手持ち無沙汰になったとみえ、
独り暮らしの私を、
訪問したがって仕方がない

一、二へん愛想よく歓待したら、
それでアジをしめたのかもしれぬが、
私はこの爺さんとお茶を飲みつつ、
昔話をするほど、
モウロクしていず、
かつヒマ人ではないのだ

それに細木氏は、
死んだ人間のことを話したがる

私はとんと死人には、
興味も関心もないのだ

亡夫の慶太朗は弱気で無能で、
大阪弁でいう、アカンタレ、であった

戦災で失った昔からの服地問屋を、
再興したのは一にも二にも、
私の力による

やっと経済成長の波に乗って、
これから楽になろうというときに、
夫は死んでしまい、
そのあと、まだたよりない長男の、
良一を社長にして、
私が専務になって何とか、
会社をもちこたえてきた

良一はそのころ、33~4、
私から見ると、
危なっかしくて見ていられない

次男は鉄鋼会社に、
三男は銀行へいっていたが、
これぞという頼りにはならず、
私は古くからの番頭の前沢と、
懸命に働かなかったら、
どうなっていたかわからない

亡夫の慶太朗は性格もあたまも弱いが、
体も弱い男であった

よく三人もの子供ができたもの、
とひそかに思うくらいだ

夫の死後の奮闘が大変だったから、
いまさら夫の思い出なんて、
あるはずもない

細木氏は私とちがい、
いつまでも夫人のことを、
思い出してなつかしむようである

「男があとへ残されると、
もう、お手上げですな
息子の嫁もよくしてくれますが、
何といいましても家内と違います
夫婦いうもんは、
年いってこそのものですな
奥さんもそう思いはるでしょう?」

「思いませんよッ
私はいま主人がいたら、
さぞうっとうしいかった、
と思います
ま、一人でいても、
うっとうしいことはありますが」



一人暮らしの私は、
寝たいときに寝、
起きたいときに起き、
旅行したいときに旅行する

のべつ夫がいて、
文句をいったり、
命令したりするとなれば、
私は息がつまるように感ずるであろう

何が「夫婦は年いってこそのもの」だ

夫に死なれた当座は、
夫に腹が立ち、

(会社も何もほったらかして、
先に死んでしまいよって、
どないしてくれるねん)

と思った

何ごとにつけ、
細木氏とは波長が合わないのだから、
いつもいい顔見せて、
お相手するわけにはいかない

細木氏は残り惜しげに、

「お忙しいんですなあ、
歌子さんは・・・」

「ええ、習い事が多いもんですから、
それにちかぢか、
アメリカへも行ってみたいと思ったり、
していますので」

「えっ!アメリカ
ほほう、去年もたしか、
行きはったんちがいますか」

「去年はあなた、スイスですよ、
スイスからフランス、イタリーと、
まわりました」

細木氏が遊びに来たとき、
土産に、

「これはシャモニーで買った、
エーデルワイスの押し花ですのよ
お孫さんにでも、
あげてください」

と絵はがきと本物の花を、
押花しにたのをやった

「エーデルワイスて何ですか?」

と細木氏はいい、
情けない

なんぼ年よりいうても、
男やないかいな

男なら世間へ出てたんやから、
物の名前の片端くらい、
かじっとるやろ、
なんと常識ない人、
と私は思い、
ちょっと歌ってみて、

「エーデルワイス・・・
いう歌、若い子歌ってますやろ、
アルプスに咲く花ですわ」

「ほほう」

何でも「ほほう」だから、
つきあうのに骨が折れる

私はアメリカの話をしているうちに、
またまた30分くらい、
電話をして時間を食ってしまった

こういう連中とつき合っていると、
時間のムダが多い

しかしまた、
全くつきあいを断つというのも、
淋しい

自慢して「ほほう」と、
びっくりさせるのも嬉しいことであり、
かつ、絶えずびっくりさせて、
啓蒙してやらないと、
あの爺さん、
底なしにモウロクするかもしれない

彼にとっては、
老化防止に役立つだろう






          


(次回へ)

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