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・「あんた、サナエさん
なんであんたに水子霊が、
関係ありますねん
あんた今でも生まれたままやろ」
「奥さま、
もちろんあたしは処女ですわ、
でもあたしの知らない流産死産、
中絶が家系の中にあるのやそうです
それがあたしの体にしがみつき、
からみついているのやそうです
それをお供養すると、
幸福をもたらしてくれますの
奥さまもきっと、
ご存じない水子霊があるのや、
と思います」
「あほらし、
私は中絶も流産も知りませんよ、
自分の知らんことにまで、
責任とっていられるかいな」
水子の霊が、
新聞記者にまでまちがいを書かせる、
とは驚いたものである
この世の中、
独居老人は気が弱くては、
人生はってゆけない
片や、
「ブー」と「テー」、
片や「水子霊」
わけのわからぬもので、
老人をいじめたて、
おびやかそうとする
しかし私にとっては、
黒豆をうまく煮くほうが、
いまのところ大切なんである
お煮しめのいい匂いが流れだした
私は台所をサナエに任せ、
机の前に小さい輪かざりをかけ、
床の間に花を活ける
サナエはお茶とお花の先生をして、
食べてきた女であるから、
そばへ寄ってしげしげと見、
「奥さま、
お流儀は何でしょう、これ」
「流儀いうてもねえ・・・
娘のころは池坊なろうたけど、
これは、昔、船場のうちで姑が毎年、
同じように活けていたもんやから
まあ、いうたら船場流いうのかしらん
毎年同じように活けるの
やめよう思うても、
つい活けてしまうのですよ」
床柱にむすび柳
床の間に白椿
といっても、
マンションの和室の床の間は、
ほんの飾りもの程度なので、
三宝に乗せたお鏡餅のほうが、
でんとしている
このお鏡だって、
船場では五升の鏡餅だった
あまり小さくても、
恰好悪かろうと一升にしているが、
これは飾るだけで、
小正月にお政さんに来てもらって、
引き取ってもらう
私一人では、
食べられないからである
そのお鏡の上に白昆布、
だいだい、
串柿をのせる
三宝には裏白を敷き、
掛け軸を古ぼけた鶴の絵に掛けかえると、
床の間は新春の気配になる
このマンションの主婦たちも、
さすがに大晦日は忙しいのか、
平生は聞こえない階上の足音も聞こえる
案外に暖かく、
ベランダから見る海は、
陽光に光り輝いていて、
この分では明日は、
いいお正月かもしれない
玄関の下駄箱の上にも、
松や南天、葉牡丹を活けた
これも長年のならい、
これをやらないと、
物忘れした気になっていけない
これで用意はととのった
出来上がって冷ましたお煮しめを、
私の指図のままに、
サナエは重箱に詰めてゆく
代々の塗りのいいいいものは、
戦火をまぬがれたのだが、
戦後に売って食糧に代えてしまった
そのあと買ったものは、
西宮の家に置いてきたから、
いまここにあるのは、
小ぶりな新しいもの、
しかし塗りは上等である
私は食べるものと同じく、
道具も小さくても上等なものを、
あつめるのである
あとはお雑煮の下ごしらえだけ、
私は朝な朝な、
トーストと紅茶、
目玉焼きという献立であるものの、
お正月はやっぱり、
白みそ雑煮、
といかなくては正月の気がしない
「サナエさんのおかげで、
今年は早うすんでよかった
おおきに
あんたお煮しめ出来てますのか
何やったら詰めて持って帰ったら、
どないだすねん」
「いいえ、
形ばかりしてきました
ウチはお正月来る人も少ないですし
かえって初釜の日が大騒ぎで」
サナエはまた魚屋へ走って、
にらみ鯛、と大阪でいう、
焼いた鯛の注文しておいたのを、
取りにいってくれた
「石鹸、
歯みがき、
紙、
そんなものそろっています?
お店が閉まると意外に不自由したり、
しますもの」
さすがにサナエは、
その昔、有能な事務員らしく、
よく気がついていってくれる
私は筆で、
箸紙に自分の名、
それに毎年来る人々の名を書く
「海山」と書いたのも三つ四つ、
これは重箱のお煮しめを取る箸である
昔は蔵から正月に使う、
お膳を出してくるのも大ごとだった
店の丁稚、手代、番頭、女中衆さんらは、
めいめい箱膳だが、
家族は定紋つきのお膳、
男は朱塗りで女は黒塗り
(黒塗りの内は朱塗りになっていた)
店の表に定紋の幕が張られる
これは夏の天神祭りは、
浅葱色の幕であるが、
正月は深い紺である
門松を立て、
注連縄が張られる
玄関には緋のもうせんが敷かれ、
黒塗りの名刺受けが置かれる
そのころ店は、
大掃除の真っ最中、
大八車を曳いて帰ってくる者もある
正月四日の初荷まで、
蔵は開けない
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(次回へ)