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・台湾の都会は夜遅くまでにぎわっているのも、
旅行者には楽しかった。
百貨行(デパート)さえ夜の十時までやっており、
タクシーが安いので、手軽に動ける。
人々の顔に険しさがなく、
美味しいものを食べようということだけ考えてる人々は、
のんびりして、うわの空になるのかもしれない。
ジュース屋では、
ほんものの果物を絞ってジュースを飲ませてくれた。
どの通りにも、
麺や肉団子を盛り上げた屋台が出ていて、
のべつ人は、食べ物をとっているようにみえる。
夜遅くまで食べることを楽しむ。
わずかのお金さえもうけることが出来れば、
この国でおいしいものだけを食べて生きていけそうである。
「いいとこだなあ」
と私は、台湾が好きになった。
どの食べ物店を、いつ覗いても満員、
人々は老いも若きも、金持ちも貧乏人も、
気軽に店へ入って、喧騒の中に身をおき、
楽しげに食べる。
テーブルに骨を積み上げ、
テーブルクロスで指を拭いたりして、
たらふく飽食し、オクビを洩らす。
しかし、そういう喧騒と、強い香辛料の匂いは、
体調のよいときのものかもしれない。
バスで新竹から鹿港へ行き、
忘れられたような物静かな、
古びたこの町の料理屋で夕食をとり、
またバスで引き返して、台中の町に入った。
台中のホテルに落ち着くが早いか、
「具合が悪い。血圧が高くなった」
と夫は言い出した。
私が先にバスを使って出てくると、
唸りながらベッドでのびていた。
「明日から旅行できそうもない、えらいこっちゃ」
「どうしたの?」
「さっきの店がやかましいて臭うてたまらんかった。
ああ気分悪い。もう動かれへんかもしれん」
「先生に診てもらう?」
「その方がええ。急患やといえ。急ぐ」
「でも。明日からどうすんの」
私は男というものが病気になると腹が立つ。
男たるものは病弱であってはならない。
女より先に弱音を吐くとは何だ、という気がある。
「もうあかん。
それどころやない。
血圧がおかしい、いうてんのが分からんのか」
ここで脳溢血でも起されると難儀だと思って、
私はあわてて添乗員氏を呼びに行った。
彼はすぐ同行の先生をさがしにいってくれた。
夜の町へ散歩に出ていられた先生の一人が、
気の毒にも急いで引き返し、
早速、薬箱をもってかけつけて下さった。
問診のあとひとしきり、
指を握ったり、足を組ませて叩いたり、
そんな診察があって、
「大丈夫と思いますがねえ、
大事をとって安静にしたほうがよろしいが、
心配はいりませんよ」
とうけ合って下さった。
私より夫の方がホッとしたようである。
「血圧を計るものは持ってきてませんが、
ま、心配は今の所なさそうです。
今夜ゆっくり休んでください。
様子によっては明日からの旅行は控えられた方が、
よいかもしれませんが、しかし、ま、ご自分で、
よくお体のことは分かっていらっしゃるでしょうし・・・」
先生は患者が医者なので、以心伝心、
腹芸のようにいわれた。
お薬を頂戴した。
私はそれで添乗員氏と相談し、
台南・高雄の旅は都合でとりやめるかもしれない、
といってきた。
その場合は、台中から汽車で台北に帰り、
一行と合流する。
夫は先生のお薬を飲み、
診察を受けてとみに元気になっていた。
そこへ添乗員氏に聞いて、
団長の田崎さんと板野さんが見舞いにきてくれた。
「これはこれは。
先生が病気なさるとは」
「いけませんなあ、どうですか」
私は「台中で卒中とはこれいかに」と、
板野さんに冗談を言いたかったが、
夫が怒るかもしれぬと思い、黙っていた。
私は台南や高雄へ行けないのが、
たいそう不満であった。
そうして、へんな時に病気になる夫に腹を立てた。
夫は。背中をさすれの、額を押さえろの、
文句を百万遍いうが、どこがどうということなく、
病人くさい顔色になっていた。
私はふくれっ面で看病していたが、
そのうち、おなかもふくれてきた。
なぜか、台湾料理は、おなかが張って、
おならが出そうになる料理である、
ということを発見した。
今まではそう気づかなかったが、
今にして思い当たる、という、
この二、三日の体調である。
先生に頂いたお薬のせいかどうか、
夫は、いつの間にかいい心持ちそうに眠りはじめた。
私は夫が気付かないだろうと思って、
トイレへ行く手間を惜しんで、
ちょっとおならを洩らしたら、
つづけざまに二つ出てしまった。
「何や?」
と夫は目をさました。
「何がですか」
と私はいった。
「いま、バカ、ベーというたやろ」
「いいません」
「たしかにそう聞こえた。
ワシのことを、バカ、ベーというたに違いない」
「いわないよっ」
「いんや、せっかくの旅行に病気なんかしくさって、
このあほんだらめ、というような感じやった」
「おかしいなあ。何もいわへんよ」
私がいうと、
夫は疑わしそうな顔であったが、
また、コテン、と寝てしまった。
それで私は気付いた。
寝不足で疲れてる所へ、
この男はバス酔いするくせがあるので、
変調をきたしたのだ。
眠りが足らぬのだ。
何が血圧、何が緊急の急患だ。
バス酔いに決まってる。
六時間ばかりバスにゆられて酔ったのだ。
これはぐっすり眠ればなおってしまうのだ。
しかし夫は慎重で無理しない主義であるから、
明日も明後日も静養して、
ここで一行を待つというであろう。
私は古都で有名な台南や、
海の幸ゆたかな高雄の料理を楽しみにしていたので、
とても残念だった。
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(次回へ)
写真は野森稲荷神社