「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

7、ワラワラ様 ⑤

2022年12月03日 10時34分32秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・台湾の都会は夜遅くまでにぎわっているのも、
旅行者には楽しかった。

百貨行(デパート)さえ夜の十時までやっており、
タクシーが安いので、手軽に動ける。

人々の顔に険しさがなく、
美味しいものを食べようということだけ考えてる人々は、
のんびりして、うわの空になるのかもしれない。

ジュース屋では、
ほんものの果物を絞ってジュースを飲ませてくれた。

どの通りにも、
麺や肉団子を盛り上げた屋台が出ていて、
のべつ人は、食べ物をとっているようにみえる。

夜遅くまで食べることを楽しむ。

わずかのお金さえもうけることが出来れば、
この国でおいしいものだけを食べて生きていけそうである。

「いいとこだなあ」

と私は、台湾が好きになった。

どの食べ物店を、いつ覗いても満員、
人々は老いも若きも、金持ちも貧乏人も、
気軽に店へ入って、喧騒の中に身をおき、
楽しげに食べる。

テーブルに骨を積み上げ、
テーブルクロスで指を拭いたりして、
たらふく飽食し、オクビを洩らす。

しかし、そういう喧騒と、強い香辛料の匂いは、
体調のよいときのものかもしれない。

バスで新竹から鹿港へ行き、
忘れられたような物静かな、
古びたこの町の料理屋で夕食をとり、
またバスで引き返して、台中の町に入った。

台中のホテルに落ち着くが早いか、

「具合が悪い。血圧が高くなった」

と夫は言い出した。

私が先にバスを使って出てくると、
唸りながらベッドでのびていた。

「明日から旅行できそうもない、えらいこっちゃ」

「どうしたの?」

「さっきの店がやかましいて臭うてたまらんかった。
ああ気分悪い。もう動かれへんかもしれん」

「先生に診てもらう?」

「その方がええ。急患やといえ。急ぐ」

「でも。明日からどうすんの」

私は男というものが病気になると腹が立つ。
男たるものは病弱であってはならない。

女より先に弱音を吐くとは何だ、という気がある。

「もうあかん。
それどころやない。
血圧がおかしい、いうてんのが分からんのか」

ここで脳溢血でも起されると難儀だと思って、
私はあわてて添乗員氏を呼びに行った。

彼はすぐ同行の先生をさがしにいってくれた。

夜の町へ散歩に出ていられた先生の一人が、
気の毒にも急いで引き返し、
早速、薬箱をもってかけつけて下さった。

問診のあとひとしきり、
指を握ったり、足を組ませて叩いたり、
そんな診察があって、

「大丈夫と思いますがねえ、
大事をとって安静にしたほうがよろしいが、
心配はいりませんよ」

とうけ合って下さった。

私より夫の方がホッとしたようである。

「血圧を計るものは持ってきてませんが、
ま、心配は今の所なさそうです。
今夜ゆっくり休んでください。
様子によっては明日からの旅行は控えられた方が、
よいかもしれませんが、しかし、ま、ご自分で、
よくお体のことは分かっていらっしゃるでしょうし・・・」

先生は患者が医者なので、以心伝心、
腹芸のようにいわれた。
お薬を頂戴した。

私はそれで添乗員氏と相談し、
台南・高雄の旅は都合でとりやめるかもしれない、
といってきた。

その場合は、台中から汽車で台北に帰り、
一行と合流する。

夫は先生のお薬を飲み、
診察を受けてとみに元気になっていた。

そこへ添乗員氏に聞いて、
団長の田崎さんと板野さんが見舞いにきてくれた。

「これはこれは。
先生が病気なさるとは」

「いけませんなあ、どうですか」

私は「台中で卒中とはこれいかに」と、
板野さんに冗談を言いたかったが、
夫が怒るかもしれぬと思い、黙っていた。

私は台南や高雄へ行けないのが、
たいそう不満であった。

そうして、へんな時に病気になる夫に腹を立てた。

夫は。背中をさすれの、額を押さえろの、
文句を百万遍いうが、どこがどうということなく、
病人くさい顔色になっていた。

私はふくれっ面で看病していたが、
そのうち、おなかもふくれてきた。

なぜか、台湾料理は、おなかが張って、
おならが出そうになる料理である、
ということを発見した。

今まではそう気づかなかったが、
今にして思い当たる、という、
この二、三日の体調である。

先生に頂いたお薬のせいかどうか、
夫は、いつの間にかいい心持ちそうに眠りはじめた。

私は夫が気付かないだろうと思って、
トイレへ行く手間を惜しんで、
ちょっとおならを洩らしたら、
つづけざまに二つ出てしまった。

「何や?」

と夫は目をさました。

「何がですか」

と私はいった。

「いま、バカ、ベーというたやろ」

「いいません」

「たしかにそう聞こえた。
ワシのことを、バカ、ベーというたに違いない」

「いわないよっ」

「いんや、せっかくの旅行に病気なんかしくさって、
このあほんだらめ、というような感じやった」

「おかしいなあ。何もいわへんよ」

私がいうと、
夫は疑わしそうな顔であったが、
また、コテン、と寝てしまった。

それで私は気付いた。
寝不足で疲れてる所へ、
この男はバス酔いするくせがあるので、
変調をきたしたのだ。

眠りが足らぬのだ。

何が血圧、何が緊急の急患だ。
バス酔いに決まってる。

六時間ばかりバスにゆられて酔ったのだ。
これはぐっすり眠ればなおってしまうのだ。

しかし夫は慎重で無理しない主義であるから、
明日も明後日も静養して、
ここで一行を待つというであろう。

私は古都で有名な台南や、
海の幸ゆたかな高雄の料理を楽しみにしていたので、
とても残念だった。






          


(次回へ)

写真は野森稲荷神社

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