
・空襲のサイレンを聞きながら、
学徒動員された工場の、
防空壕へもぐりこんだ女学生たち、
闇の魚を買い出しにいった医学生たち、
そういう人たちが、戦中戦後を生き抜いて、
こうやって中年を迎えている。
五十代も半ばの男たちがそれぞれ、
その妻を携えて集まってみると、
「日本の夫婦ここにあり」
というおもむきを呈して、そこにただよう、
重い感懐やロマンはとても若い人の同窓会の比ではない。
二年おきか三年おきにに、
地元の鹿児島で大会がある。
卒業生は全国に散って開業しているが、
やはり地元がいちばん多いので、
地元の大会は盛会になる。
私は、終戦前後の男子学生たちの苦労が興深かった。
古い写真のスライドに、
私自身の学校生活、終戦後の食糧難、
住んでいたバラック小屋、
などの記憶がオーバーラップする。
少年と少女、青年と娘の歴史が重なり、
合わせられ、まぜられてゆく気がする。
男も女もすべてあの動乱の時代の同級生であった。
鹿児島の町の焼け跡の写真に、
大阪の焼け跡の記憶がかぶさる。
日本の、どこの町の青年たちもああいう焦土から、
立ち上って生き延びて、そうして中年を迎えた。
そう思うと、
私は夫の同級生の男たちに親愛感を持つのである。
それに、ついでにわかったことがあった。
夫が生まれたのは奄美大島だが、
学校もそれにつづくインターンの頃の生活も、
みな鹿児島なので、生活も暮らしも鹿児島風だった。
男というものは(女もそうかもしれないが)、
その生まれ育った土地へ行って、
はじめて理解できる所がある。
私は鹿児島の町を見て、
「なるほど」と夫の発想の根底を合点した。
彼は精緻で巧者なものより、
ずばっとして大まかで、シンプルなものを好む。
それは錦江湾に桜島が浮かんでいるだけの、
ほかは何もない、ひたすら「ずばっとして」「大まかな」
鹿児島の風土そのままではないか。
また過剰装飾が嫌いで、
地味で質素で簡潔な環境や、生活態度を、
夫はこの上ないものと信じている。
私が磯別邸という、
藩主島津公の別邸へ行ってみると、
全くそのとおりのお邸で、
眺望こそ前に桜島を控えて素晴らしいが、
家の中は見事に何の装飾もなく、
すっからかんに質素簡潔であった。
なるほどなあ!
私は何を見ても、夫の日常のクセに思い当たり、
(納得!)という感じであったのだ。
そういうわけで鹿児島大会は、
私に二重三重の発見を与えたわけだが、
その頃から、夫の同級生に死ぬ人が増えたように思う。
中年男たちの歴史に立ち合った気がしたからこそ、
一人、また一人と亡くなってゆくのが、
他人事でなく思われたのかもしれない。
夫人同伴という申し合わせも、昔はなかった。
中年になって、
生活や気持ちにゆとりができたためかもしれない。
それからは、同窓会の始まる前に、
亡くなった人の名をあげて、
黙とうすることが行われている。
そうして会が終ると、
「来年まで死なんとおろうなあ」
「生きていようなあ」
と言い交わして別れる。
夫人たちの中には、
五十すぎてなお、舅姑に仕えている人もあるので、
同窓会の夫人同伴を喜んでいる人も多い。
一年にいっぺんは、
夫と一泊旅行が大っぴらに出来るからだった。
若い夫婦と違って、
五十すぎた夫と妻が旅をするのは、
たいへんな大仕事なのである。
私は、自分のクラス会(旧制女専であるが)に出て、
「来年まで死なんとおろうなあ」といいたくなったことは、
今までいっぺんもなかった。
クラスメートに死んだ人もないではないが、
女たちを見ていると「死」の影は全くない。
「死なんときましょうねえ」
という言葉が意識にさえ上らないのはそのせいである。
中年女たちはみな、
太陽の光さんさんと降り注ぐ下で、
けろりとして生きており、
この分なら死んでもなお「生」の側に居残りしそうな根強さ、
たくましさが感じられる。
そういう女たちばかりが群れていると、
いっそう「死」の影はささない。
男は死の影の射しやすい、生きものであるのだ。
まあ、それはともかく、
中年の人を見ると私はひそかに、
(死なんときましょうねえ)
(生きていましょうねえ)
といわずにいられないのである。



(了)
・以上で「死なないで」を読み終えました。
長らくおつきあいくださってありがとうございます。
心より感謝しております。
現在BSで再放送中の「芋 たこ なんきん」も、
あと少しになりました。
毎日、この朝ドラを楽しく見ていますが、
やはり、私にとっての田辺さんは、
心のよりどころになっていて、
また、昔の文庫本をひもといてゆきたいと思います。
よろしければ、
おつきあい下されば大変嬉しいです。