<音に聞く 高師の浜の あだ波は
かけじや袖の 濡れもこそすれ>
(噂に高い 高師の浜の
仇浪を
かぶったりしますまい
袖が濡れてしまうんですもの
あなたが浮気なおかただってこと
噂で聞いてますわよ
あなたの仇なさけに
うっかり心ひかれたりしたら
涙で袖を濡らすだけだわ)
・これは康和四年(1102)の、
堀河院の御代に行われた「艶書合わせ」の歌である。
『金葉集』巻八の恋に載っている。
「艶書合わせ」というのは、恋歌大会である。
王朝末期になると、
芸術衝動が痩せて、
文学もゲームの一種になっている。
小野小町や和泉式部の歌に見えた、
衝撃的な真実味が失せ、
技巧と精緻な人工美がそれにとって代わる。
それはそれでまた、
新しい精神風土と美意識を、
開拓してゆくのであるが、
「艶書合わせ」に見られる恋歌は、
みな疑似恋愛ゲームで、
類型化してしまっている。
「艶書合わせ」は、
まず殿上人の歌よみ、男性側から、
宮仕えの女性側に恋の歌を贈らせる。
ついでその返しの歌を、
女性から男性へ返させ、
それを披講する。
この文学ゲームが「艶書合わせ」である。
この歌は、
中納言俊忠(としただ・・俊成の父)の歌、
<人知れぬ 思ひありその 浦風に
波のよるこそ いはまほしけれ>
への「返し」である。
(私は人知れず、あなたを思っています。
浦風に波が寄るように、
あなたに一夜、お目にかかって、
この胸の思いをうちあけたいのです)
「ありその浦」は、
北陸の有名な歌枕、荒磯(ありそ)、
それに「思ひあり」をかけている。
男がそうもちかけたのに対し、
女の返しは痛烈である。
同じように「高師の浜」
(摂津の歌枕。
今の堺市浜寺から高石にかけての浜)に、
仇波が高いをかけて対応しつつ、
ぴしりとはねつけている。
もっとも現実はどうであれ、
男が言い寄り、女がはねつける、というのが、
こういうときの形式になっているようで、
待ってました、となびくのはないようである。
さて、この艶書合わせのカップル、
男はこの時、二十九歳。
紀伊の方は、生没年不詳なので、
正確なところはわからないが、
七十くらいではなかろうかという。
歌詠みとして有名であったが、
それにしても悠々たる、
なだらかなしらべのよみぶり、
何とも頼もしい、
みずみずしい婆さんである。
作者の紀伊は、
平経方(つねかた)のむすめ。
兄が紀伊守だったので、
紀伊とよばれた。
紀伊は、この二文字で「き」とよむのが、
旧来の慣例である。
さて、この女流歌人、
紀伊は当時の歌詠みとして名高く、
家集もあり、『後拾遺集』に二十九首入っている。
後朱雀帝の中宮嫄子
(げんし、かの一条帝中宮・定子の孫)に
出仕したので、「中宮の紀伊」とよばれた。
のちに嫄子のお子で、
高倉邸に住んだ祐子内親王に仕えたので、
「高倉一宮紀伊」ともよばれた。
内親王の後見は藤原頼通だったから、
宮家の羽ぶりはよく、
歌合わせがたびたびあり、
才媛が多く群れ集うたことと思われる。
この当時はその人の持つ芸や才能を愛した。
この歌は全くのゲームである。
(次回へ)