「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

23、姥鴉(がらす)  ③

2021年11月04日 09時08分24秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・元機械エンジニアの滝本氏をパンジークラブへ誘ったところ、

「クラブへ入って何をすればよろしいか?
英会話もでけまへんし、読むのも書くのも、とにかくしゃべれません。
今から習う気もおません。書道も興味ありませんなあ。
ダンスもモヒトツでんなあ。絵?これもやりません。
俳句、川柳、短歌、すべてやりません。
片手の指折って、文句考える、ちゅうようなこと、とてもとても・・・
人の講演聞くいうのも、モヒトツ、
たいがいの講演のセンセ、私より年下やよってね。
そやから宗教かてそうでんねん。
キリストはんかて、ワシより若い、思たらあきまへん。
どうせ若僧の言うことや、思てしまう。
おシャカさんは金持ちのぼんやし・・・
要するにツキアイの悪い人間でございます」

こう言いつつ、にこにこ笑う顔は憎めない。

滝本氏の趣味は、猫の額ほどの畠を耕すこと、魚釣り、
赤ちょうちんで一杯やることなどだそうである。

クラブの幹事の楠木サンという老医師、
さる女子大の教授の藤井サンも魚釣りが趣味であるところから、
滝本氏を誘い込んだのであった。

女子大教授の藤井先生は元は国立大の先生であったが、
定年後、女子大の先生になった、品のいい七十三才のインテリ紳士。

「トシとって女子大のセンセするとよろしいで!
美しい娘はんらがやさしいしてくれる。
お嬢さん学校やよって、すれっからしの子ぉはいてません」

インテリ男は、トシ取るとインテリ臭に満ちて、
えらそうにしてつき合いにくいものであるが、
藤井サンはほどよく無邪気になった見本のような先生である。

女の友人たちもさりながら、
こういうほどのいい男の友人たちと知り合えたのは、
独り身の残生に虹が立つというものであろう。

滝本氏は電話口で言う。

「この前、お約束しました魚釣りの件ですが、
水曜日に釣り舟を予約しときました。
藤井さんはその日、具合悪いそうで、楠木さんと三人ですわ」

魚釣りの心得など全くない私はワクワクしてしまう。

「ご婦人は舟に乗ると、トイレに難儀されます」

「あ、なるほど、そっちの心配がありますわねえ」

ほどのよい男と、遊山の打ち合わせをする。
ここまで来るのに、七十八年もかかってしまった。


~~~


・秋の海は一分一分と明るくなる。

一番電車で垂水(たるみ)へ着き、すぐ舟に乗り込んだが、
沖には無数の魚釣り舟が散っている。

私は白いピケの帽子に、ジーンズのパンツ、長袖トレーナー。
滝本サンは麦わら帽子に作業衣、腰にタオルをぶら下げ、
はだしにゴムぞうり。爺さんはエンジンをかけ舟を走らせる。

都会の盛り場を歩くのが好きな私であるが、
海風に髪を吹かれているのも好きである。

「藤井さんは残念でしたわね」

「私のところへ電話があって、残念がっておられました」

「また機会はありますわ」

と私は言うが、
私たちぐらいのトシになれば、
その機会は二度と来ないかもしれないことを、
私たちはようく知っている。

それをよく知りながら「機会はいくらでも・・・」
と言えるところがオトナのたしなみである。

沖へ出ると海は群青色になり、潮の匂いの強いこと・・・
手釣りもはじめて。

「ダンスや英会話はあきまへんが、
こういうのが私にはまことにぴったりですわ」

と滝本氏。

一向に来ない。でもいいのだ。
その瞬間、私の手もとの糸が「グイ」という感じで引っ張られた。

「あら、来ましたわ!」

私は叫び糸をたぐる。

烈しい水音と共に姿を現したのは小さい青い美しい魚だった。

「青ベラですな、おめでとう!」

「えっ、私がこれを釣ったんですか、え~~っ、バンザイ」

私はこのところ「夢うつつ」気分である。

株や子宮の話に悩まされることなく、
滝本サンというすてきなボーイフレンドが出来た。
こういう関係は最高ではないか。

私たちの友情こそ最高とうぬぼれていたら、
もっと「最高」があった。

魚釣りから半月後、私はパンジークラブで藤井サンに会った。
私が魚釣りに同行できなかった残念さを言うと、
氏は私を駅前のパーラーに誘う。

藤井サンはやもめといっても、身だしなみよく、
背もしゃんとして、白いワイシャツ、金茶色のネクタイ、
濃茶のスーツといった風趣。

名門女子大の先生らしく垢ぬけた身なり。






          


(次回へ)

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