・元機械エンジニアの滝本氏をパンジークラブへ誘ったところ、
「クラブへ入って何をすればよろしいか?
英会話もでけまへんし、読むのも書くのも、とにかくしゃべれません。
今から習う気もおません。書道も興味ありませんなあ。
ダンスもモヒトツでんなあ。絵?これもやりません。
俳句、川柳、短歌、すべてやりません。
片手の指折って、文句考える、ちゅうようなこと、とてもとても・・・
人の講演聞くいうのも、モヒトツ、
たいがいの講演のセンセ、私より年下やよってね。
そやから宗教かてそうでんねん。
キリストはんかて、ワシより若い、思たらあきまへん。
どうせ若僧の言うことや、思てしまう。
おシャカさんは金持ちのぼんやし・・・
要するにツキアイの悪い人間でございます」
こう言いつつ、にこにこ笑う顔は憎めない。
滝本氏の趣味は、猫の額ほどの畠を耕すこと、魚釣り、
赤ちょうちんで一杯やることなどだそうである。
クラブの幹事の楠木サンという老医師、
さる女子大の教授の藤井サンも魚釣りが趣味であるところから、
滝本氏を誘い込んだのであった。
女子大教授の藤井先生は元は国立大の先生であったが、
定年後、女子大の先生になった、品のいい七十三才のインテリ紳士。
「トシとって女子大のセンセするとよろしいで!
美しい娘はんらがやさしいしてくれる。
お嬢さん学校やよって、すれっからしの子ぉはいてません」
インテリ男は、トシ取るとインテリ臭に満ちて、
えらそうにしてつき合いにくいものであるが、
藤井サンはほどよく無邪気になった見本のような先生である。
女の友人たちもさりながら、
こういうほどのいい男の友人たちと知り合えたのは、
独り身の残生に虹が立つというものであろう。
滝本氏は電話口で言う。
「この前、お約束しました魚釣りの件ですが、
水曜日に釣り舟を予約しときました。
藤井さんはその日、具合悪いそうで、楠木さんと三人ですわ」
魚釣りの心得など全くない私はワクワクしてしまう。
「ご婦人は舟に乗ると、トイレに難儀されます」
「あ、なるほど、そっちの心配がありますわねえ」
ほどのよい男と、遊山の打ち合わせをする。
ここまで来るのに、七十八年もかかってしまった。
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・秋の海は一分一分と明るくなる。
一番電車で垂水(たるみ)へ着き、すぐ舟に乗り込んだが、
沖には無数の魚釣り舟が散っている。
私は白いピケの帽子に、ジーンズのパンツ、長袖トレーナー。
滝本サンは麦わら帽子に作業衣、腰にタオルをぶら下げ、
はだしにゴムぞうり。爺さんはエンジンをかけ舟を走らせる。
都会の盛り場を歩くのが好きな私であるが、
海風に髪を吹かれているのも好きである。
「藤井さんは残念でしたわね」
「私のところへ電話があって、残念がっておられました」
「また機会はありますわ」
と私は言うが、
私たちぐらいのトシになれば、
その機会は二度と来ないかもしれないことを、
私たちはようく知っている。
それをよく知りながら「機会はいくらでも・・・」
と言えるところがオトナのたしなみである。
沖へ出ると海は群青色になり、潮の匂いの強いこと・・・
手釣りもはじめて。
「ダンスや英会話はあきまへんが、
こういうのが私にはまことにぴったりですわ」
と滝本氏。
一向に来ない。でもいいのだ。
その瞬間、私の手もとの糸が「グイ」という感じで引っ張られた。
「あら、来ましたわ!」
私は叫び糸をたぐる。
烈しい水音と共に姿を現したのは小さい青い美しい魚だった。
「青ベラですな、おめでとう!」
「えっ、私がこれを釣ったんですか、え~~っ、バンザイ」
私はこのところ「夢うつつ」気分である。
株や子宮の話に悩まされることなく、
滝本サンというすてきなボーイフレンドが出来た。
こういう関係は最高ではないか。
私たちの友情こそ最高とうぬぼれていたら、
もっと「最高」があった。
魚釣りから半月後、私はパンジークラブで藤井サンに会った。
私が魚釣りに同行できなかった残念さを言うと、
氏は私を駅前のパーラーに誘う。
藤井サンはやもめといっても、身だしなみよく、
背もしゃんとして、白いワイシャツ、金茶色のネクタイ、
濃茶のスーツといった風趣。
名門女子大の先生らしく垢ぬけた身なり。
(次回へ)